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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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ハク

 厩舎は動物が住む集合住宅のようなものだ。石井牧場では厩舎が二つあり、それぞれ八頭ほどの馬が寝起きを共にしている。厩舎の外壁は隙間無く敷き詰められた煉瓦造りで、緩やかな曲線を描く萌葱色の屋根、日光を取り込みやすいように窓硝子が多く配置されている。外壁は等間隔に蒲鉾状の穴が空いていて、そこから馬が顔を外に出せたりするようになっていた。


 陽奈の待つ厩舎に近づくと、途端に動物の臭いがきつくなった。糞尿や汗が混じった臭いだ。


「おうおう、来たな新入り。早速仕事だあ」


 陽奈は歳を食った棟梁らしく、偉そうに腕を組んでいる。


「叔父さんには、見ているだけでいいって言われたんだけれど」


「おう。だから見て、しっかり覚えてもらうからな。手が使えなくてもできる仕事はたくさんあるもんね」


 そう言うと、陽奈は僕のギプスが巻かれた右腕を強引に引き寄せ、「こっちだぁ」と言いながら、厩舎の中へと引っ張っていった。


 厩舎の中は静かだった。馬が発する体温のせいかほんのりと暖かく、臭いが気にならなければ居心地の良い空間だった。左右に四つずつならんだ馬房には鉄製の柵がはめ込まれており、柵の向こうでは馬が思い思いの格好でくつろいでいた。


「綺麗だな」


「だろう。陽奈がうーんと早起きして、いつも掃除しているからな」


 陽奈は自慢げに胸を張る。石畳の床には藁屑一本、ボロの欠片すら落ちていない。餓鬼のくせになかなかやるもんだと感心した。


 石畳の上には木桶がいくつも並んでいた。木桶には一頭、一頭、馬名が振られており、大きさも食べる量に合わせてあるのか様々だった。


「朝飼いをします」


 陽奈は右手を挙げてそう言うと、壁に立て掛けてある自分の背丈ほどもあるフォークを取り上げた。見てくれは食器のフォークを大きくしたような感じのものだ。陽奈は、柄の部分に自分の体重を乗せて「よいしょ」と重そうに持ち上げると、入り口のそばに積まれている干し草を掬い上げた。そして、ばさりばさりと手際良く桶に入れていく。朝飼いとは馬の朝食のことだ。僕はこのくらいならば手伝えるだろうと、左手を伸ばしたが、遮られてしまった。


「食事はきっちり決まっているからな。献立表見ながら覚えろ」


 陽奈はそう言って、壁に貼られた一枚の紙を指さした。そこには馬の名前と細かい食事の割り振りが書かれていた。燕麦やふすま、干し草や青草。人参に、林檎や角砂糖、蜂蜜、ビタミン剤を混ぜることもある。時には馬の体調を見ながら薬なんかも配合するらしく、確かに、素人が手を出してよさそうなものには見えなかった。


 陽奈は自分の作業に迷いなく、どんどん桶に食べ物を放りこんでいった。干し草を入れ終わると今度は箱に入った人参を持ってきて、小さなナイフで野菜を捌いている。なかなかの手際の良さだ。


「秤とかに乗せなくてもいいのか?」


 じっと観察しながら陽奈にそう訊ねると、彼女は両手をぱっと上げて、白い歯を見せた。


「へへん! 見ろ、来夢兄ぃ。この手は職人の手だからな。陽奈はめっちゃちっこい頃からお馬さんとお仕事しているから、この手は秤より正確だもんね」


 確かに陽奈の手はひ弱な手ではなく、マメや厚い皮をこさえた職人の手をしていた。


 それから、陽奈はじろりとこちらを見やった。


「格好いいだろ」


 素直に格好良いと思ったのだが、要求されるとなかなか口には出せない。だから、ぶっきらぼうにこんなことを言ってやる。


「ほら、職人。手が止まっているぞ」


「ちぇ、なんだよ。褒めてくれてもいいじゃん。来夢兄ぃのけちんぼう」


 陽奈は舌を出すと、むくれながらも作業を再開させた。


 朝飼いを終えて、僕らは放牧の準備に入った。放牧とは、馬房から馬を出して、羊蹄山の麓に広がる牧草地に馬を放すことだ。


「いつもは出す順番が決まっているけど、今日はハクから出すからな」


 陽奈はそう言うと、厩舎の一番手前の馬房の前で足を止めた。


 塗装が剥げた柵の向こうから、真っ黒な太い首筋がぬっと持ち上がった。眠そうな黒い瞳は何事かと言わんばかりに、僕を見ていた。


 柵に下げられた札には【ハク】と名前が入っている。


 その隣には現役時代の戦績と、ずらりと名馬の名前が並んだ血統表が書かれたプラスチックのプレートが掛けられており、熱心なファンから送られてきた安産を祈願するお守りや千羽鶴の束が、柵にひっかけるようにして吊されていた。


「なかなかの戦績じゃないか」


 中央競馬で五勝。条件戦の勝ち鞍が並ぶ。並の競馬ファンなら、見向きもしない成績だが、競馬に深く精通している者なら、中央競馬で勝つことの難しさをよく知っている。それを五勝だ。立派な名馬だと言える。おまけに、僕がデビューする前の重賞にも、何度か顔をだしたことがあるらしい。


「ハクはうちの大黒柱だかんな。みんなハクのおかげでご飯食べているようなもんなんだぞ」


 陽奈はそう言いながら、馬房の閂を外して柵を開けようとする。そのとき、血統表の下にハクが今までに産んだ仔っこの一覧が並んでいるのに気づいた。産駒もなかなかの成績だ……その一番下の文字に僕は視線を止めた。


 第六子【砂塵】七戦一勝。××××年没。


 右腕にじんわりとした痺れを感じた。全身からすっと血の気が引いていくような気がした。だから叔父さんはハクを勧めたのか。酷い人だと思った。後で文句の一つでも言ってやろうかと思ったけれど、今はそれどころではない。あのときの肝を冷やした記憶が頭を過ぎって、背中がぶるりと震えた。僕はその思考を振り払うかのように、頭を振った。


 陽奈が馬房の柵を開け放つ。すると、今まで馬房の中でおとなしくしていたハクが急に一歩、二歩、前に踏み出し、鼻面を僕の顔面に寄せてきた。


「わぁッ」


 驚いて僕は尻餅をついた。右手を地面に着けないので、尻に直接衝撃が走る。


「ハク、どうどうッ」


 陽奈は慌てて、ハクの頭に取り付けた頭絡に引き手を取り付けて、引っ張る。一方のハクは、首筋を伸ばして僕の顔に鼻面を押し当てて、臭いを嗅いできた。陽奈は引き手を更に強く引っ張り、僕から引きはがそうとしているが、ハクはびくとも動かない。やがてハクは、唇をめくり、黄ばんだ歯を見せながら長い舌を伸ばして、僕の顔を舐めた。


「ぎゃあああ、くっさ」


 猛烈な獣臭が鼻を貫く。僕は思わず顔を左手で覆った。すると、今まで必死にハクを引きはがそうとしていた陽奈が手を止めて、笑い声を上げた。それから、ハクの黒い首筋を叩いた。


「くふふふ。強烈な歓迎だなハク」


 ハクは大きな頭を縦に振った。


「今日から、来夢兄ぃはハクの担当だからな」


「ヒヒーン」


 今度は嘶きで返事を返す。


「この馬、言葉が分かるのか?」


「ハクは特別だかんな。空気も読めるぞ」


 陽奈は笑いながら本当とも、冗談ともつかないような口調で言った。


 僕は恐る恐る立ち上がり、ハクの額に左手をやった。そこには真っ黒な馬体に映える白い流星模様があり、なかなか整った顔立ちをしている。そういえば、砂塵の額にも大きな流星があったのを思い出した。


「よ、よろしくな」


 僕がそう言うと、ハクは黒い瞳をじっと僕に向けてきた。


 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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