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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
35/35

馬体を併せたその先へ

 どちらが勝ったか、全く分からなかった。手綱を緩め、惰性で影縫を走らせた後、ゆっくりと止まった。着順掲示板には三着に四番白夜の番号が点灯しているが、一着と二着は空欄のままだ。


 ターフヴィジョンに目をやると、ゴール前の映像がスローで流されている。ゴールラインギリギリのところで、沈黙と影縫の馬体がぴったりと併さっており、映像が流れると鼻面もほぼ同時にゴールラインを割っているように見える。


 もやもやとした気持ちを抑えながら、地下馬道に引っ込み、影縫から下馬する。そして、検量室で体重を計り、再び外に出ると、真っ先に飛びついてくる人影があった。


「やったやん。ようやった。ようやった。来夢ならできるっち信じとったよ」


 紫都である。ぎゅうと思い切り抱きしめられ、そのままぐるんと回転する。頭をぶるんぶるんと振られたが、僕はされるがままだった。


「紫都もあそこで逃げろって言ってくれなかったら、とっさの判断が出来なかったよ。ありがとう」


「なん……うちは何もしとらんよ」


 紫都は僕の身体を離すと、両手を後ろで組んで、恥ずかしそうに笑った。


「でも喜ぶのはまだ早いかもしれないよ。負けたかもしれないし」


 僕が少しだけ項垂れると、肩をぽんと叩かれた。見上げると、先生がニカっと笑って、拍手をしていた。


「いやあ、見事やった。写真判定、結果が出たとよ……なんと、同着やて。こんなこともあるんやなあ」


 同着? ということは、沈黙と影縫が共に一着ということだ。とすると、勝負の行方はどうなるん

だ? そんな疑問に答えるかのように、後検量を済ませたアンジェリカが外に出てきた。そして、こちらに歩み寄ると、右手を差し出して来たのである。


「素晴らしい騎乗でした。遊馬があんな騎乗が出来るとは思いませんでした」


 僕は呆気にとられて、握手を返せなかった。アンジェリカからこんな言葉が聞けるなんて……。


「勝負はどうなったのよ。同着はどうすればいいのかしら」


 紫都が少しだけ、警戒心を見せながら、眉をひそめて訊ねる。


「一着引き分けです。だから、話し合いで決めましょう。あとで石井と話を付けるです……そんな顔する

な。同着……白夜をすぐに取るような悪いようにはしないです」


 ふっと心の荷が下りた気がした。ひとまずはすぐに取られる心配はなくなったのだ。


「それから、この前、影縫を駄馬呼ばわりしたこと謝りましょう。わたくしは、見誤っていました。あれ

ほどの脚を使えるなら、GⅠでもきっと戦えるです」


「GⅠでも戦える……」


 アンジェリカほどの馬産家がいうのなら、間違いないだろう。影縫はGⅠまで駆け上がれる。そういう馬だということだ。


「石井牧場……侮っていました。血統を大事にするということは、こういう結果も産むのですね。勉強になりました」


 アンジェリカは柄にもないことを言って、顔を隠すようにヘルメットをぐっと被った。そして、右手を

挙げて手を振ると、踵を返して待ち構えている競馬記者たちの元へ歩いて行く。良血馬の同着決着で、馬主のアンジェリカが騎乗となれば、競馬記者たちが聞きたいことは山ほどあるだろう。


「私たちも行こうか。石井さんたちが待っている」


「せやな、影縫も優勝レイをかけて待ってるよ。ウィナーズサークルで口取り式せな」


 陽奈と叔父さんが待っている。影縫も。会って、お礼を言わなければならない。勝てたのはみんなのおかげだと。僕は自然と笑っていた。


 翌日のスポーツ新聞に、僕のそんな笑顔が一面に載っていた。メインレースで勝った紫都を差し置いて、新馬戦同着に大きく紙面が割かれていた。


 一ヶ月が過ぎた。新馬戦の激闘を勝ち抜いた影縫は放牧に出され、三着に負けた白夜はもう一度未勝利戦に出走した。結果は鞭を使わずに二着に五馬身差を付けた大楽勝。この勝利が評判を呼び、巷では早速あの新馬戦が伝説の新馬戦と評されるようになっていた。


 僕は石井牧場だった場所の放牧地で寝転んでいた。石井牧場は結局畳むことになり、敷地のほとんどをアンジェリカが買い取ることになった。叔父さんは僕らが勝ったことで、融資を受ける代わりに、アンジェリカの買い取った旧石井牧場の牧場長に収まることになったらしい。アンジェリカから最新のノウハウを学び、新しい血統を導入し、走る競馬を追求していくらしい。


 陽奈も一人前の牧夫として、小学生ながら、きちんと給金をもらって仕事をすることになったという。本人はアンジェリカの下じゃなくて、早く独立をしたいと言っているが、じっくりと修行を積めば、良い馬産家になるだろう。


 二人とも、意固地になっていた殻を破っていた。現状にしがみつくのではなく、前に進むことを選んだ。それは、僕のレースを見てから決めたことだという。


 白夜と影縫は現役の間は、叔父さんが所有することで決着が付いた。引退後はアンジェリカ傘下のスタリオンに入って、持ち分権を分けて、種付けを行うという。重賞も勝ってないのに気の早い契約を結んだらしい。


 先生は相変わらずだ。僕を調教でコキ使い、安い賃金で使い倒している。それでも、右手が動くようになって、調教が楽しくなった。逃げ専門は相変わらずだが、騎乗成績も今まで以上に着に食い込めるようになった。そのせいか他の厩舎からの依頼もあって、紫都ほどではないが、トレセンを飛び回っている。


 季節は紅葉シーズンまっただ中だ。羊蹄山は周囲の木々が赤や黄色に色づいて本当に綺麗だった。僕はそんな光景を眺めながら、隣で同じように寝転ぶ紫都に話しかける。


「寒くない?」


「全然、陽奈ちゃんが編んでくれたセーター着とうけ、寒くない」


「あいつ器用だもんな。トラクターの運転といいさ、何でもできるもん」


「私はこんな細かい仕事できんけどねえ」


「紫都はむいてなさそう」


「うっさいわ」


 紫都がいーっと歯を剥き出しにする。


「白夜と影縫は次、どんなレースでるんだろうね」


「お父さんが言いよったけど、今度は東京の重賞使うらしいよ。ひとまず目標は二歳のGⅠレースっち」


「ダービーはまだまだ先だね」


「そうやね。二頭、いや、沈黙も入れて三頭してダービー出られたら気持ちいやろうな」


 秋の冷たい風が羊蹄山の山頂から原生林の木々を抜け、この放牧地までやってくる。短くなった草地を揺らすと、はっきりと秋の匂いを感じ取った。


「東京言葉やめたの?」


 ふと、気になって訊ねた。あの勝負以来、紫都の言葉に田舎くさい方言が混ざるようになっていたのだ。


「方言女子って可愛いやろ?」


「……否定はしない」


「ってテレビで言いよったんやけどね」


「このやろう」


 紫都をぺちんと叩こうとするが、ころりと転がって逃げられてしまう。


「ふふ、なんかね。来夢見てて思ったんよ。本気で、全力でぶつかるっていいなっち。自分をさらけ出す

っちいいなって。やけね、綺麗な言葉遣いはやめたんよ」


 紫都はむっくりと上体を起こすと、僕の側に這い寄ってきた。仰向けで寝転ぶ僕の目の前に紫都の顔が

あった。ほっぺたに牧草の欠片が付いている。


「いいな?」


「嘘、格好いいの間違いやった」


 心臓がどきどきする。紫都の甘い香りが鼻腔を擽った。


「草、ほっぺに付いてる」


「阿呆、良い雰囲気やんか。こういうときどうするか、お父さんに教わらんやったん?」


 紫都の軽いチョップが飛んでくる。僕はぺろりと舌を出すと、紫都の首筋に両手を回した。そして――――。


 パシャリ――――。シャッター音が聞こえた。柔らかな唇の感触はすっと離れていき、紫都は僕を叩きながら、素早く起き上がった。音の方へ視線を向けると、一眼レフを構えた陽奈の姿があった。その後ろには叔父さんと先生の姿もある。


「撮っちゃったもんね。これをしゅーかんしに持って行ったら、陽奈大金持ちぃ」


「あ、陽奈ちゃんだめよ消しなさい」


 紫都は真っ赤な顔して、両手を振り上げながら、走り出す。陽奈はきゃっきゃと笑いながら逃げ出した。


「俺の牧場でいちゃつくのは止めてもらいたいね」


「まあ、いいやないん? 石井さん。若いうちしかできんことよ?」


 叔父さんは腕を組み、厳しい視線で、先生はニヤニヤと笑いながら、こちらを見ている。僕はいたたまれなくなって、立ち上がり、恥ずかしさを隠すために右手で顔を覆いながら陽奈を追いかけ始めた。もう、右手は自由に動く。


 そんな放牧地の隅、イチイの古木の下に馬頭観音の墓石がある。周囲には小さな墓石がたくさん並んでいた。その中で、一番端っこにある新しい墓石は砂塵とハクのものだ。二頭はこれからもここで暮らす僕たち、馬たちを見守ってくれることだろう。


おわり


 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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