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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
34/35

もっと先へ、もっと前へ

 東京競馬場は好天に恵まれ、馬場状態も良。九月の残暑は厳しいが、風が心地よく、最後の直線では追い風と、グッドコンディションだ。僕は最後にターフへ飛び出すと、厩務員が引き手を外す。


「遊馬さんファイトです」


 厩務員の応援を受けて、ゲートがある場所まで、返し馬を行う。スタンドはそこそこの観客が詰めかけている。陽奈たちの姿を探すと……いた。ターフぎりぎりの柵に陣取り、拳を振り上げている。馬主席から見ればいいのにと思ったが、馬との距離がもっとも近いのはあの場所しかない。


 影縫をキャンターで軽く東京の直線を流していく。スタート地点は右手奥のポケット地点。そこから、左回りで最初のコーナーを回って、向こう正面へ。有名な大ケヤキがある場所で左にカーブし、最後の五百三十mの長い直線の先がゴールとなる。


 開催から日数が経っているので、内の方は荒れていた。芝生が剥げて、土が剥き出しになっている箇所もある。そこを避けた外側、通称グリーンベルトの上を通るのが最もロスなく競馬ができるポジションだ。僕は逃げ馬だから、真っ先に抑える必要がある。でも、アンジェリカも逃げ馬を用意しているだろう。沈黙を絶対勝たせるために、所有馬を二頭も送り込んできたのだから、どちらかは逃げ馬と見て間違いないはず。先手勝負には必ず勝たなきゃいけない。


 ゲートの前に付くと、すぐに輪乗りが始まった。屋根付きの専用スペースで、馬の状態を確かめるようにぐるぐると周回する。会話はない。全員が自分の跨がる馬に集中して、レースが始まるのを待つ。


 スターターがスタンドカーに乗って旗を振り上げ、レースの開幕を告げるファンファーレが高らかに鳴り響く。いよいよだ。レースが始まる。僕は紫都と先生と練り上げた作戦を頭に思い浮かべる。絶好のスタートを決めて、大逃げをして、最後の直線で紫都を切り離す。僕の役目は白夜の脚を見極めて、ペース配分を考えること。


 ゲート入りが始まる。偶数番が先に入り、奇数番が後に入る。四番の馬番となった白夜は先入れとなったが……スムーズに入った。どうやら、あれから相当に練習したようだ。先生から聞いたところによると、ゲート試験も上手く行ったそう。沈黙もすっと入って、僕の番。


「よろしくな。影縫」


 僕は呟き、ゲートに収まった。意識を集中させる。雑念を取っ払い、スタートだけを意識する。弾丸スタートは大の得意だ。タイミングを読み切り、馬の首筋を押してやるだけで済む。


「ゲートイン完了!……スタートしましたァ! おっと、これは影縫。好スタート。鞍上の遊馬騎手の腕が光りましたね。二番手には白夜。三番手には光明。四番手に人気の沈黙が付ける展開となっています」


 実況の声が興奮気味に叫ぶ中、僕は身を震わせていた。決まった。スタートは完全にこっちの勝ちだ。恐らく、向こうの展望では光明が逃げて、沈黙を後ろに付ける展開だったはずだが、後手に回ってしまったようだ。光明の騎手もなかなかの手練れなので、スタートをしくじったくらいではへこたれないだろうが、ひとまずは安心だ。


 グリーンベルトを易々と奪い、鞭を使わずに手綱だけで、スピードを上げる。まずは最初のカーブまでで引き離すのが肝心だ。最低でも五馬身は空けておきたい。白夜の様子を見ながら、徐々に離していく。三番手の光明はこちらに付いていく気がないのか、鞍上の手綱が動く気配はない。ラッキーだ。


 最初のカーブをスピードに乗って上手く捌く。白夜は僕の後ろにぴったりと付けている。


「まだ上げていい?」


 声を張り上げて紫都に聞くと、「もっと飛ばして」と返事が返ってくる。僕はもう少しスピードを上げて、後続との差を十馬身近くまで広げた。そして、一気にペースを落とす。この十馬身というのが大事だ。この差を直線まで詰められないようのスピードをコントロールして、白夜を運ぶのが僕の仕事だ。


 向こう正面でも、後続は何も仕掛けてこない。沈黙は不気味に光明の後ろに隠れて、姿を見せない。アンジェリカの奴は何を考えているのだろう。いくら沈黙の末脚が凄いからといっても、十馬身も離されていたら、流石に差しきるのは難しくなってくる。何か策でもあるのだろうか。


 そのときだった。後方から馬蹄の音が聞こえた。きたか、と後ろを振り返ると、最後方にいた草結という馬が、猛然と追い込んでくる姿が見えた。まだ、スパートにはすこし早い。どういうことだ。判断がつかない。


 瞬く間に、白夜の後ろまで草結がやってきた。このまま振り払うにはペースを上げる必要があるが、それではオーバーペースになってしまい、最後の白夜の脚が生きなくなってしまう。ここはどうしたものか……僕は悩んだ末に、影縫の左鞭を振るった。ペースを上げる選択。ペースを上げたことにより、草結を振り払うことに成功した。草結は今の追いすがりで力を使い果たしたのか、後方に沈んでいく。何がしたかったのか……その答えが分かったのは最後の直線に入ってからだった。


 五百三十mの府中の長い直線に向く。後続の光明との差は十二馬身。ここから、脚を溜めていた白夜が脚を伸ばせば、絶対に後続に差されまい。僕は右手で、ゴーサインを出した。後方の紫都にスパートをかけろという合図だ。


 これでいい。白夜はすっと影縫の追い越し、ゴール目がけて駆け抜けるだろう。それで、僕らの勝ちだ。叔父さんの融資の再開は事実上無理になってしまったが、白夜が取られることはない。


 しかし、合図を送っても、白い馬体は視界を捉えない。僕は不審に思って振り返ると、懸命に鞭を振るう紫都の姿があった。しかし、白夜は鞭に反応せず、口を割って、鞍上の指示に逆らおうとしている。馬体からは大量の汗が滲み出ていて、白夜の呼吸も荒そうだった。


 まずい、非常にまずいアクシデント発生だった。恐らくだが、さっきペースを上げたことによって、白夜が付いて行けなかったらしい。アンジェリカにしてやられた。足下から這うように全身に冷たい悪寒が走る。


 このままだったら負ける。負けたら白夜を失うんだ。ハクから託された白夜、石井牧場の期待を背負った白夜が手元からいなくなる。それだけはどうしても嫌だった。


「逃げてぇぇ。遊馬来夢! 逃げなさい」


 紫都の絶叫が後方から聞こえる。彼女は悟っていた。もう白夜が失速し始めていることを、このままでは必ず沈黙に差されることを、僕は背後を見やった。紫都が全身で叫ぶ姿と、その後方三馬身ほどまで縮まった位置、ぬっと光明の影から鼻面を覗かせた青鹿毛の馬体があった。アンジェリカが踊るような独特な騎乗フォームで鞭を振り上げる。馬体に鞭が触れる度に、沈黙は恐ろしい勢いで加速し始めた。


 僕も鞭を振り上げ、全力で影縫の左の馬体を連打する。しかし、やっぱり反応が悪い。やっぱり右鞭なのだ。右鞭を入れてやれば、もう一伸びできる。手綱を通して、影縫は僕にそう伝えてきた。


 歯を食いしばり、右鞭を振り上げる。だが、振り下ろせない。砂塵が死んだのも、この直線だった。影縫を彼のようにさせたくない。身体がぶるぶると震えた。怖い。怖いよう。


 そのときだった。声が聞こえた。スタンドからだ。その声は大観衆の轟音の中でもとくに際立っていた。


 見ると、陽奈が大きな巨大パネルを持ち上げていた。そこには寝藁に寝転ぶ僕の姿とカメラ目線のハクの姿が写った写真があった。ハクの馬房に通っていた頃に、叔父さん辺りが隠し撮りでもしたのだろう。陽奈が張り裂けんばかりの大声で叫ぶ。


「来夢兄ぃ。ハクが見てるぞぉ!」


 ハクが見てる。あの人を観察するような影縫の癖は、ハクからきたものだった。僕はその息子に跨がっているのだ。この額の大流星もハクから受け継いだものだ。そして、兄貴はあの砂塵だ。報いなければならない。この血統を勝ちに導くことは、ハクや砂塵の名も上がることになる。


「あああああああああああああああああああああああ」


 僕は右手を振り上げた。がちがちに固まり、筋肉が振るうことを拒否している。しかし、僕を守って死んだ砂塵も僕の前に立ちふさがった時、身体が動くことを拒否したはずなのだ。それでも、彼は前に踏み出した。ハクも命をかけて、仔っこを産んだ。だから、僕も全てを出し切って、この右鞭をくれてやる。


 ぱちんと強く、右鞭が馬体を叩く音が聞こえた。それに影縫が反応して、更にスピードを上げた。あれだけのオーバーペースで逃げてきたのに、更にギアを隠し持っていたのである。右鞭を連打すると、ぐいぐい手綱が引っ張られるように、影縫がゴールを求める。凄い、こんな馬に乗るのは初めてだった。


 残り二百m……このまま影縫がゴールするかと、誰もが思った瞬間だった。鬼のような末脚が影縫の馬体を捉える。


「絶対に逃がさないです」



 歯の隙間から絞り出すようにアンジェリカが吠えると、沈黙の首筋をくいっと押して前へ出る。させない。僕も負けじと、手綱をしごき、前へ出る。一進一退の攻防まるで鍔迫り合いのように馬体を併せ、最後の百mを駆け抜ける。


「負けないです。負けないです。負けないです」


「もっと先へ、もっと前へ」


 ゴール直前、世界はぐっと遅くなった。首の上げ下げが勝負を決める。僕はこれでもかと言わんばかりに、影縫の首を押さえつける。そのとき、声が聞こえた。


「力を抜け。来夢」


 若い男の声だった。声が聞こえた。きっと、影縫の声だ。僕はふっと肩の力を抜いた。その瞬間、影縫の鼻面がゴールラインを割った。

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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