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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
33/35

好敵手の奇策

 馬運車が到着して、紫都と二人で白夜と影縫の無事を確認した。怪我もなく、疲労もなさそうだった。体重を計ってみても、前日の計量と変わらず横ばいだった。厩務員に連れられて、白夜と影縫はレースまで待機する馬房へと連れて行かれる。そこにはたっぷりの水と飼い葉があり、影縫がごくごくと水を呑んでいた。白夜は普段とは違う環境に戸惑っているのか、しきりに辺りを気にしており、嘶きを上げている。

 

 厩務員曰く、白夜が新しい環境に来るときの癖であり、問題はないというが、ちょっと不安だった。


「おはよう。調子どうや」


 ばっちりと正装のスーツに着替えた先生が声をかけてきた。


「まあまあです」


「そうか、いよいよ本番やな。まあ、いつも通り逃げてくれば大丈夫っちゃ」


「お父さん、白夜と影縫の輸送は問題ないみたいよ。少し、引き運動とかしておく?」


 紫都が提案すると、先生は腕時計を見て、首を振った。


「まだええやろう。もうちっとしてからな。それより聞いたか、モーア騎手乗れんっち」


 寝耳の水だった。モーアが乗れない? だって、さっき新聞には鞍上モーアって……。


「入ったばっかりの情報なんやけどな。なんだか、飛行機のトラブルらしい」


「そうなのね。ふふ、気の毒だわ」


 紫都が気の毒そうじゃない声色で言った。


「じゃあ、誰が乗るのかな?」


「まだ発表されてないみたいやな。でも、朗報であることは間違いない。だって、モーア以上の騎手なん

てそうそういるわけないんやからな」


 先生は黄ばんだ前歯をにっと剥きながら、白夜と影縫の様子を見やる。そして、満足そうに頷くと、引き連れてきた厩務員に馬房へ連れていくように指示を出した。


 東京競馬二レースの未勝利戦は、なんとか掲示板に滑り込んだ。逃げ馬が多くペースが速くなりすぎて、脚を残せなかったのが敗因だが、馬場状態を確かめられたのは大きかった。紫都の騎乗もすこぶる順調で五レースが終わった時点で一勝を挙げていた。今日は人気馬への騎乗が多く、もっと勝ちを拾えるだろう。風はこちら側に吹いている。勝ち運を六レースでも是非とも発揮したい。


 昼が過ぎ、六レースのパドックが始まった。しっかりと正装に身を包んだ厩務員たちが、本日が初出走という馬を引いている。新馬戦のパドックではほとんど馬が緊張して、立ち止まったり、暴れたり、嘶いたりと落ち着きがないことが多いが、今日のパドックはやけに静かである。


 僕は調整ルームの窓越しから、パドックを見やった。影縫はおとなしく、黒鹿毛の首筋をぐっと曲げて、下を向き、集中している。白夜はやはり周囲が気になるのか、耳をしきりに四方八方に動かして、ばさばさと尻尾を振っている。ライバルの沈黙はというと、感心するほどの堂々たる周回っぷり。艶々に光る青鹿毛の馬体に浮かび上がる筋肉を見せつけ、パドックの外を大回りに周回している。


「遊馬騎手、出番です」


 係員に促され、僕は鞭を片手に調整ルームを出る。そして、パドック中央に集まる馬主たちの元へ趣く。


「来夢兄ぃ。久しぶりだな。ぜーんぜーん帰ってこないから、陽奈、心配してたんだぞ」


 あっけらかんとした口調で、第一声を発したのは陽奈だった。白いブラウスに吊りスカートをはいて、胸元には大きな赤いリボンが付いている。作業服の姿からは想像できないほど、めかし込んでいる。


「どうだ? 似合うか?」


「おう、とっても可愛い」


「おっ父ぉに買ってもらったんだ。へへへ、来夢兄ぃに可愛いって言ってもらって、陽奈うれしい」


 後頭部に手を当てて、照れくさそうに陽奈が笑う。一方の叔父さんは仏頂面だった。タキシードに身を包み、髪はポマードでびっちりと整えられている。


「来夢、いよいよだな」


「うん」


「ここまで来るのに、色々あったが、俺はこの日を迎えられただけでも幸せだと思う」


「うん」


「勝負は色々あるっていうことも分かってる。だが遊馬、俺が願うのはたった一つだ」


「……」


「無事に帰ってこい」


「はい」


 叔父さんは仏頂面を崩すと、陽奈と同じように照れくさそうに笑った。


「叔父さん」


「なんだ?」


「あの、牧場のこと……なんか、ごめん。僕のせいで……」


「気にするな。お前のせいじゃない。石井牧場は畳むが、いずれ復活させる予定だ。新生石井牧場として、あの場所に帰ってくるつもりだ。俺も頑張る。だから、お前も頑張れ」


 叔父さんが僕の背中をバンと叩く、そして、「行ってこい」と言うと、僕は影縫の元へ走り出した。


 馬装もばっちり整えられた影縫は、係員の止まれの合図で、僕を待っていた。まっすぐな眼差しを僕に向けている。影縫はとても賢い馬だと思う。人間に従順だし、調教の反応も良い。そして、影縫には人をじっと見つめる癖がある。それは、相手がどんな人物なのか観察しているのではないかと僕は思う。


 僕はどんな風に思われているのだろうか。乗り手として信頼されているのだろうか。分からない。だから、これから手綱を通して確かめ合う必要がある。


 僕は大流星のある額を撫でてやってから、鐙に足をかけ、鞍へと跨がった。視線が一気に高くなる。手綱を強く握る。まだ影縫からの言葉はない。僕は影縫の腹を蹴って、周回を始めた。厩務員が黙々と先導してくれるので、辺りを見渡す余裕があった。


 まずは観客。良血馬と調教抜群の白馬の対決とあって、その数は通常の新馬戦のそれとは比較にならないほど大挙として押し寄せている。彼らは僕らなど目もくれず、まだ騎手の乗っていない白夜と沈黙の方を指さし、ああでもないこうでもないと好き勝手なことを言っている。


 パドックの真っ正面に陣取る電光掲示板にはオッズが表示されており、数値が淡々と動いている。一番人気は沈黙。単勝二・三倍。昨日の時点では一倍台のオッズだったが、鞍上が空白の現在では、すこしオッズが上がっている。二番人気は白夜。単勝五・六倍。白毛で鞍上が紫都であり、調教もそこそこ良いので、無難なオッズといって良いだろう……僕が跨がる影縫はというと……単勝百十七・三倍ぶっちぎりの最下位人気である。血統は悪く、鞍上も名も知らぬような若手騎手、調教も良い時計が出てないとくれば、単勝万馬券もやむなしかというところ。


 でも、僕はオッズを気にしない。走る馬は単勝百倍台だろうが、来るときはくる。それが競馬だと思っている。そうこうしている内に、前レースで騎乗していた紫都が戻ってきた。テレビで五レースは鑑賞していたが、内を突く積極的な競馬で二着に食い込んでいた。良い流れを是非とも続けて欲しい。


 紫都は僕と会話をする暇もなく、陽奈と叔父さんに軽く挨拶を済ませてから、僕の目の前を周回している白夜へと跨がる。そして、落ち着かない様子で歩く白夜の首筋を撫でながら、こちらへと振り返り、親指を突き上げる。


 準備は整った。そろそろ、馬場に行っても良い時間だ。しかし、係員の合図はない。やっぱり、沈黙の鞍上が決まらなかったせいなのだろうか。僕は辺りの様子を窺いながら、待っていると、調整ルームの方から小柄な騎手が一人出てきた。ピンクの生地に金色のクロスが入った勝負服を来ているので、沈黙の騎手だろうが、一体誰だろう。そう考えていると、会場にアナウンスが流れる。


「ご来場のお客様に騎手変更のお知らせを申し上げます。東京競馬第六レース一番、沈黙号の鞍上ロベルト・モーア騎手は飛行機の機材トラブルのため、騎乗できません。代わりまして、アンジェリカ・ヴァンベリー騎手が騎乗いたします」


 会場中が一気にざわつく。アンジェリカといえば、馬主だ。騎手じゃない。日本では騎手免許がないと、騎乗できない決まりになっているが……どうやって突破したのだろうか?


「短期免許です。わたくしは、イギリスで騎手免許を持っています。中央競馬会の偉い人を引っ張り出してきて、どうにか今日一日の約束で発行してもらいました」


 僕の隣で足を止め、青い双眸をこちらに向けながら、アンジェリカは静かに言った。顔は誰かに殴られでもしたのか、腫れ上がっているようにも見えた。しかし、そんなこと全然気にしていないかのように彼女は、不敵な笑みを浮かべた。


「毎日、毎日、牧場では自分でも調教を付けています。遊馬、わたくしは絶対に負けませんよ」


 そして、沈黙の方へ軽やかな足取りで走っていくと、その鼻面に軽くキスをしてから、馬上へと跨がった。僕は驚きを隠せず、観衆たちのざわめきも止まらない。電光掲示板のオッズもこの結果をどう見て良いのか分からないらしく、沈黙のオッズが上がったり下がったりと忙しい。


 それでも、レースは始まる。係員が号令をかけると、先頭を歩く誘導馬が馬場へと続く地下場道へと誘導を始める。影縫の馬番は五番。大外なので、入場も最後になる。一頭、一頭、と地下馬道に消えていくのを見ながら、僕は大きく深呼吸をした。

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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