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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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アクシデント

 ××××年九月十六日、日曜日。新馬戦の朝を僕は調整ルームで迎えた。時計を見ると、午前三時。午前六時には馬運車で、美浦トレセンから白夜と影縫がやってくる。僕はそれを出迎えるつもりだった。朝食をトーストと珈琲で済ませ、ロビーに下りると、紫都の姿があった。マグカップを片手にスポーツ新聞を眺めている。


「おはよう」


「あ、おはよう。よく眠れた?」


「うーんまあまあ」


「その答えは寝られてないわね。顔色あんまり良くないわよ」


「あはは」


 僕は紫都の隣に座り、一緒にスポーツ新聞を覗き込む。今日は東京開催と阪神開催に二場所開催である。東京競馬は十二レースあり、メインレースはGⅢの重賞レースが組まれていた。でも、今日の僕らのメインレースは第六レースの新馬戦である。


「紫都は何鞍乗るの?」


「えっと、八鞍かな。メインレースも乗る予定よ」


「僕は二鞍。先生が新馬戦の前に馬場状態を確認してこいって、藤田さんの馬で未勝利戦に出るんだ」


「それじゃあ、万全の状態で出られるわね」


「全くだよ」


 紫都はスポーツ新聞を捲って、東京競馬六レースの新馬戦の番組表を指さす。二千mの芝コースで現在の発表は良馬場だ。


「五頭立てか…ずいぶんと少ないわね」


「超良血の沈黙と、白馬の白夜の激突だからね。他の陣営がぶつけたくないって嫌ったらしいよ」


「って、白夜と影縫以外の馬は全部アンジェリカの持ち馬じゃない。完全に包囲網を敷いてきたって感じね」


 馬主の欄にはアンジェリカの個人所有や倶楽部所有の旨が記載されている。完全にアンジェリカVS石井牧場のマッチレースという構図ができあがっている。


「予想は……沈黙にぐりぐりの◎が五つも付いているわ。後は白夜に○が少し。影縫は完全にノーマークね」


 スポーツ新聞の予想は当てにならないと言われているが、騎手の中には熱心に読み込んで、当日の騎乗の参考にする者もいる。ノーマークということは、レースにおいて気楽に逃げられる可能性が高いってことだ。


「沈黙の鞍上は、モーア騎手。凄い。モーア騎手はこれしか乗らないじゃない。一レースのためにわざわざイギリスから呼ぶなんて、あの女、本気ね」


「マジに白夜を獲りに来ているんだ。僕らも全力でやらないと」


「もちろんよ」


 拳を作って、二人で打ち付け合う。紫都には石井牧場を畳む話はしなかった。勝負を仕掛けるのは紫都だ。余計な心配をかけて、集中を乱したくなかった。緊張を霧散させるために、僕たちは白夜と影縫の馬運車が到着するまで、ロビーで話し合っていた。


 黒塗りのベンツがゆっくりと東京競馬場の地下駐車場に入った。警備員が誘導して、馬主専用の駐車スペースに停車する。高級車故に、下品なエンジン音は全くない。運転席にはヴァンベリー家の執事がハンドルを握っている。執事は車のエンジンを切ると、後部座席に座るアンジェリカに声をかけた。


「お嬢様到着いたしました」


「ご苦労、迎えは電話するわ」


「かしこまりました」


 アンジェリカは車から降りると、ピンクのハンドバックを手にして、競馬場内へ入った。馬主入り口で手続きをして、エレベーターで最上階へと昇る。そこは七階、馬主専用の貴賓室エリアで、広大な東京競馬場が一望できる場所だった。アンジェリカはいつもの指定席に腰掛け、脚を組み、宝石が散りばめられた腕時計を見やる。午前六時。沈黙らを含めた所有馬が馬運車で競馬場に到着している時間だった。


 本来なら、迎えにいくのだが、今日はそんな元気もなかった。昨日、北海道の牧場でローランドと散々やりやった疲れがまだ残っていた。


 アンジェリカは右手で眼球を揉み込むように軽くマッサージをすると、深く息を吐いた。そして、殴られてぷっくりと膨れあがった右の頬を触る。痛みが走るのか、顔を顰めている。


「可愛い顔が台無しですね」


 ぽつりとぼやいた。そして、昨日の出来事を反芻する。


 ローランド・ヴァンベリーは、取締役会において、役員の半数以上の賛成多数によって、社長職を解任された。それに怒り狂ったローランドがアンジェリカに食ってかかったのだ。アンジェリカは実務を押しつけられ、金だけ握られている現状に不満を持っていた。いつか、この状況を打破してやると、取締役会の面々に根回しをして、密かに父、ローランドを追いやる算段を付けていたのだった。


 けれども、いくら憎くても父親。大好きな母が愛した人。故に、我慢に我慢を重ねてきた。そこで発覚したのがあの浮気現場だった。イギリスで一人苦しむ母親を裏切ったそのことは、アンジェリカの中で最後の堤防となっていたものを、破壊するのは当然のことだった。


 ローランド・ヴァンベリーは暴行の疑いで、警察の取り調べを受けている。浮気を突きつけられた気恥ずかしさからか、とっさに娘に暴力を振るってしまったらしい。こんな父親の下で、今まで働いてきたのかと思うと、アンジェリカは少し虚しい気持ちにもなったが、やっと自由にお金も権力も使えるようになった身で感じる晴れやかは、今まで感じてきたどんな快楽よりも強烈だった。


「今日がヴァンベリー家を本国へ戻す、きっかけの一日です」


 アンジェリカは買ってきたスポーツ新聞を開く。メインの重賞レースにも、所有馬を出走させているが、専らの関心は東京競馬六レースの新馬戦だった。ここには創立したばかりのヴァンベリーサラブレット倶楽部所有馬第一号の沈黙がいる。それに、白夜もだ。この間の調教では楽勝だったが、一ヶ月経って、向こうも成長しているだろう。正直どうなるか分からないというのが本音だった。それでも、アンジェリカは沈黙に全幅の信頼を置いていた。アメリカの競り市で、一目見ただけで走ると分かった馬。引退して種牡馬となれば、日本、いや、世界の血統を沈黙で塗り替えることすら可能だろう。そんな予感さえした馬だ。新馬ごときで負けるわけがない。自分は大手を振って、この貴賓席から直線を鮮やかに駆ける沈黙の姿を見ることになるだろう。


「ふふ」


 昨日まではまるでなかった笑みが、アンジェリカの顔にこぼれた。実に素晴らしい、すがすがしい朝だった。しかし、水を差すように、男が一人アンジェリカの側へ近寄った。緑色の制服に身を包み、右胸に

身分証明書をぶら下げた若い男は、東京競馬場の職員だった。


「ヴァンベリーお嬢様。お電話が入っております」


 アンジェリカは携帯を持ち合わせていない。電話で話すくらいなら、顔をつきあわせて直に話をするのが、アンジェリのスタイルだからだ。


「誰です?」


「申し訳ありません。相手方が外国人のようでして……」


 アンジェリカはふんと鼻を鳴らすと席を立った。そして、電話があるという事務室に案内される。アンジェリカが電話に出ると、相手は焦ったように、早口の英語で捲し立ててきた。


 受話器を手に持ったアンジェリカの目が見開く、そして、受話器を持つ手を振るわせながら、はっきりと英語で怒鳴りつけた。


「飛行機の機材トラブル? 発走時間に間に合わない? 何時間の遅れですか?……じゅ、十二時間? 他の便は? 全部一杯? どうして、なぜなぜ?」


 受話器越しから聞こえてくるのは、申し訳なさそうにソーリー、ソーリーと謝る声。電話の主は本日、沈黙に跨がるはずのモーアからだった。世界を股にかける騎手だから起こったアクシデントだった。前日までアメリカで騎乗していたモーアは朝一番の飛行機で、入国する予定だったが、機材トラブルにより失敗、乗り換え便も捕まらず、アメリカの空港で手詰まり状態であった。


 アンジェリカは怒りをモーアにぶつけた後、電話を切った。そして、右手の親指の爪を前歯でがりがりかみ始め、背の高い赤いヒールで床をコツコツとやり始めた。


「困りました。乗り役がいない」


 その性格から、敵が多いアンジェリカ、彼女の馬に易々と乗ってくれる騎手はそう多くない。


 アンジェリカは競馬場の職員を呼び止め、六レースで空いている騎手のリストを要求する。リストに目を通すと、舌打ちをした。良い乗り役はいるが、アンジェリカが一方的に絶縁を突きつけた騎手ばかり、頼めそうな騎手は賞金と勝ち星が低い騎手ばかりだった。


「こんなやつらには頼めないです」


 かといって、絶縁を突きつけた騎手に頭を下げるなど、プライドの高いアンジェリカにできる訳がない。


「どうしよう……」


 アンジェリカのヒールを叩く音と爪を囓る音だけが、時間と共に過ぎていった。

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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