とっておきの戦略
「で、作戦ってなによ」
あれから三十頭ほどの調教をこなし、くたくたになった身体で宿舎に戻って、湯船で汗を流した。さっぱりとした身体で厩舎に戻ると、紫都が腕を組んで待っていた。先生はというと、厩舎前に机を広げて、コンロを用意して何かを作っている。火の付いたコンロには大鍋があり、茶色いスープが煮立っていた。中にはネギやら椎茸やら人参やらゴボウやら鶏肉やらが浮かんでいて、先生はスーパーで買ってきたであろう麺をほぐして、スープの中へ投入している。
うどんか。醤油ベースの良い匂いが立ち籠め、ぎゅるりと腹が鳴った。
「ちょっと、来夢聞いているの?」
紫都にどやされ、うどんから意識を引きはがすと、ごほんと咳払いをして作戦を口にする。
「紫都はさっきの調教……まあレースみたいなものを見ていて何か思わなかった?」
「何かって、沈黙の圧倒的な強さよ。それと、モーア騎手の技術力」
「それもあるけど、あの走りは結構計算されつくされている」
「計算?」
紫都の疑問に答えようとして、先生が割って入る。「できたぞ」という声と共に、うどんが入った器が、広げられた簡易テーブルに置かれた。僕はまず座ろうかと紫都を促し、椅子代わりの飼い葉が入っていた木箱に腰掛けると、箸を取った。うどんに七味唐辛子をかけて、軽くかき混ぜると、麺をつまんで一気に啜った。鰹だしの旨みと醤油の香りが絶妙だった。うどん麺も安いやつだが、充分にスープが染みていて美味だ。先生は調教師を辞めても料理人として食べていけるのではないだろうか。
「ちょっと来夢?」
紫都もうどんを啜りながらだが、急かしてくる。
「うん、えっと、計算だよ。絶妙なスタートを決めたのに、僕のすぐ後ろに付けた。そのまま逃げることもできたはずなのにさ。ということは、沈黙は末脚勝負の馬。脚を温存するタイプだ。そして、僕がペースを上げても奴は全く付いて来なかった。それはどうしてか分かる?」
紫都が首を振る。
「自分のペースを乱されたくないからさ。モーア騎手の力量もあるだろうけど、普通の新馬ってペースが上がれば付いていきたくなるもんだ。優秀なんだよ沈黙は、だからこそ、多分ペースを乱されることを何よりも嫌うはずだ。僕はそこに隙があると思う」
「隙ねえ。なさそうに見えるけど、全力で追ってみたけど、あの末脚勝負に勝てる気はしなかったわ」
「末脚勝負に持ち込ませなければ良い。勝負さえしなければ良い」
「どういうこと?」
うどんを啜りながら、話を聞いていた紫都の器はもう空っぽだ。僕には食べさせる間すら与えてくれないらしい。
「作戦名、ラビット大逃げ切り離し。大博打だけど、これに賭けるしかない」
紫都の目が点になって、ぽかんと口が開いている。紫都の器を回収して、お代わりを注いでいた先生も吹き出すように笑った。
「なんやそれ。そんな作戦聞いたことないよ」
「海外ではよくある作戦ですよ。まあ、大逃げまではやりませんけど。まず、レースでラビット、つまりはペースメーカーが大逃げを打ちます。これは影縫の役目。その後ろをぴったりと白夜が付いていくんです」
「ちょっと待って、白夜も末脚勝負の馬よ。そんなハイペースで飛ばしたら、後半バテるに決まっているじゃない」
「だから、ぴったりと付けるんだ。白夜の方が小柄だから、影縫は風よけになる。白夜専用のヴィクトリーロードを作ってやるんだ。脚の温存は風に影響を受けるだろう。無風状態なら、しっかりと脚を溜められるはずだ」
紫都は僕の方をじっと見つめると、急に目を細めた。そして、僕の方へ顔を近づける。
「思い出した」
「きゅ、急に何?」
びっくりして、つかみかけていたうどんを器の中に落としてしまう。
「来夢が落ちて怪我したレース覚えている?」
「うん」
「あのレースで私、風よけになりなさいって言ったわよね」
「そうだったかな?」
「根に持っているでしょ」
はい、凄く根に持っています。とは当然言えるわけなく、あははと後頭部を掻きながら、ごまかしておく。紫都はしばらく、ジトーと僕の方を見ていたが、急にそっぽを向いて、なんとなく顔を赤らめながら、
「ら、来夢のこと、もう風よけなんて思ったりしてないから。だから、風よけって言葉、やめて」
と早口で言った。なんとなく気まずくなって、僕もそっぽを向く。
「やめる」
「よし、じゃあ続けて」
先生の方を見やると、うどんをかき混ぜながらニヤニヤ笑っている。
「そして、脚を溜めて最後の二百mで一気に追い出す。もちろん緩急は付けるよ。大逃げの基本は最初飛ばして、中盤落として、後半スパートだからね。でも、そんなレースする騎手なんてめったにいないから、アンジェリカの裏をかけると思うんだ」
「でも危なくないかしら? もしも、白夜がバテたりしたら」
「大丈夫っちゃ。遊馬くんの言うとおりにきちっと調教しておけば、一ヶ月でハイペースに対応できるように馬を作れるやろ」
先生がコンロの火を止めて、こちらにやって来て、紫都の肩をぽんと叩く。紫都は眉をしょんだれて、少し不安げだった。
「安心せい。調教師歴十五年の殿上浩輝が仕上げてやるっちゃ。もちろんお前らにも手伝ってもらうがな。一ヶ月もあれば充分っちゃ。……それと、今日見てて思ったんやけど」
先生の視線が僕の方へと向く、
「右手、どうにかならんの?」
僕は右手を持ち上げた。日常生活には困らないし、調教にもレースにも、出られるようになった。でも、右鞭だけは強ばってどうしても使えない。
「影縫、左鞭の反応悪かったやろ。あの馬は右脚が利き脚やけん、たぶん右の方が反応良いと思うんちゃ。今日の走りは散々やったけど、右鞭が使えればもう少し走れるんやないかなと思うよ」
先生の指摘は尤もだった。右鞭を使えれば、もっと伸びると思った。だのに、使えないのだ。右鞭を振
り上げるとあの光景が蘇るからだ。
砂塵。ぐるりと回る視界。土の味と血の臭い。骨が飛び出した右脚。僕を守るために横たわったごわごわとした温かい馬体。
やり過ぎた右鞭のせいで引き起こされた悲劇を、右手は覚えているのだろう。だから、まだ拒絶をするのだ。でも、このままでは騎手として致命的であることは重々承知だ。
「克服します。影縫の逃げを最大限生かすためにも、右鞭攻略は必須です」
「頼むっちゃ。よし、うどん食うかァ。って伸びちまってるー」
先生が冗談めかして言って、紫都が笑う。僕も強ばる頬を無理矢理動かして、笑顔を作った。笑顔は簡単に作れるのに、右手が言うことを聞かないもどかしさを感じながら……。
この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。




