牧場生活
建て付けの悪い硝子戸の隙間から忍び込んだ冷気で、僕は目を覚ました。身体は砂袋が詰まっているかのように重く、ぺらぺらの蒲団から這い出ることすらままならない。
首を動かして外に目をやると、空は真っ暗だった。暦の上ではもう春なのに、空はまだまだ冬模様だった。それでも、あと一月もすればこの時間帯もずいぶんと明るくなるだろう。春は確実にやってきていた。
「おはよう。来夢兄ぃ」
蹴破らんばかりの勢いで扉が開け放たれる。戸口に立ったのは従妹の、石井陽奈。今年で十になり、地元の小学校に通っている。
蒲団の裾からそっと覗くと、爛々と輝く黒い瞳、肩まで乱雑に伸ばした黒髪は、小さな馬の人形が付いた髪留めで左右に結われ、上下に揺れているのが見えた。肌はほんのりと小麦色で、手足は頻繁にすっころぶせいか生傷や絆創膏が絶えない。
「おっきろ!」
「……」
「おお、寝たふりか? いい度胸してるなあ」
陽奈は幼稚な足音を立てながら、僕の枕元まで歩いてきて、蒲団をはぎ取った。冷気が全身を撫でた。
「何すんだよ」
「起こしにきたのお」
「いっつも、やかましいなあ。放っておいてくれよ」
「嫌っだもーん。陽奈は来夢兄ぃのおっかあから、よろしくねって頼まれたんだもん。だから、陽奈
が責任をもって、来夢兄ぃの面倒見るのぉ」
「うるせぇッ」
がばりと跳ね起き、左手で頭を掻き毟りながら、腹の底からドラ声を振り絞る。けれども、陽奈は一切怯む気配をみせない。瞳をきゅっと引き絞り、「うるさいのはおめえだあ」と叫びながら、拳を振り上げて頭に一発げんこつを振り下ろしてきた。
非力な一撃。痛みなんて全然ないのに、なぜか怒りはすっと引いていった。それでも、僕はしばらくむすっとして黙り込み、頭を充分に冷やして、さも仕方なさそうに渋い声で、
「すまん」
と謝った。
「へーき。へーき。おっ父おなんてずーっと怒ってばっかだからな。それに比べたら来夢兄ぃなんて、たいしたことないもんねえ」
陽奈はあっけらかんとそう言うと、僕の右側に回り込み、立ち上がるのを手伝ってくれた。
「ありがとな」
「お、お礼はちゃんと言えるんだな。偉いぞ」
陽奈が踵をぴょんとあげて、僕の頭を撫でてくれた。気まずいので適当にそっぽを向く。お礼を言っただけで大げさなと思ったが、思ったことは言葉と形で表すというのが、陽奈の信条らしい。
「調子は?」
「普通」
「身体の痛みはないか?」
派手に落馬をして、なだれ込んでくる競走馬に踏みつけられたというのに、僕は右腕の骨折だけで済んでいた。騎手をしていれば、骨折なんていうのはかすり傷みたいなものだ。三角巾で一ヶ月ほど吊っていれば、良くなる。僕はギプスでぐるぐる巻きにされた右腕を静かに撫でてから、首を横に振った。
「ない」
「よしじゃあ、決まりだな」
陽奈は両手を打ち付け、にっと白い歯を見せて微笑んだ。
「来夢兄ぃ。今日から働け」
「はあ?」
耳を疑った。働けだと? 僕は抗議の気持ちを込めて、右腕をぐいと陽奈の方に押しつけた。
「ほら、これを見てみろ。働けると思うか? 全く、動かないんだぞ」
「働かざるもの、食うべからず。来夢兄ぃはいつも、陽奈の倍くらい食べるからな。倍は働かなくちゃな」
「聞いているのか? 僕の手は」
そう言いかけたところで、陽奈は小さな掌を重ね合わせて、僕の口を塞いだ。
「うっせぇな。やってから言えよ。時間かかってもいいから、やってみて、めっちゃ努力して、それでもさ出来なかったら、まあそのときは……」
陽奈が右手で頭頂部をかりかりと掻く。
「挑戦したんだっていう結果が残るじゃんか。だからやってみる価値はあると思うよ?」
全く、餓鬼のくせして、大人みたいなことを口走る。舐めてやがる。生意気だ。そう思ったが、陽奈の言うことも一理ある。馬にも乗らず、ごろごろしていたって仕方がない。
すぐにそう考えたのだが、やっぱり「はいそうですか」と言うのは癪なので、たっぷりと時間をかけて考えるふりをしてから、と首を小さく縦に振った。
陽奈は素直だなあと言いながら、また頭を撫でてきた。うっとうしい。と思ったが、振り払うことはしなかった。
僕がリハビリ代わりに転がり込んだのは、叔父さんがやっている牧場だった。石井牧場という名前で、馬の牧場だ。馬の牧場は、一般的に繁殖牝馬に種付けして仔っこを産ませる生産牧場。仔っこを競走馬として育てる育成牧場。そして、その二つが併設された総合牧場の三つ分けられる。
石井牧場は小さいながらも総合牧場に当たり、繁殖牝馬と当歳馬、一歳馬を繁養している。叔父さんは自分で作った馬を自分で所有しているので、オーナーブリーダーとしての側面も持ち合わせている。小規模牧場ながら、一頭当たりの放牧地の割り当て面積は広い。繁殖牝馬の血統はぱっとしないものが多いが、良いレースをする馬が多く、競馬ファンに根強い人気があった。
僕はたっぷりと時間をかけて準備を終え、母屋を出た。目映いばかりの太陽の光が視界を覆った。瞬きを何度か繰り返しながら、空を見やる。すると、山の裾野から太陽の頭がひょっこりと顔を出したところだった。
羊蹄山だ。幾重にも連なる山々の中で、一つだけ抜きんでた標高と、富士山に似た整った優美な風貌が特徴だ。夏期は登山客で賑わい、冬期は雪がすっぽりと山肌を覆う。山の頂上から駆け下りた風が平野へとなだれ込み、その風が栄養分をたっぷりと含んだ山の土を運び、肥沃な大地を作ったことがこの辺りの馬産の繁栄に繋がったらしい。
僕は眠たい目を擦りながら、大きく伸びをした。
「来夢」
どっしりとした低い声がした。振り向くと叔父さんこと、石井龍造が腕組みをして立っていた。齢は四十。白髪交じりの頭は短く刈り込まれ、背中には石井牧場のロゴが入った深緑色の作業着に身を包み、野仕事で鍛え上げた体躯は逞しい。
「おはよう。叔父さん」
「調子はどうだ」
「悪くないよ」
良いとは言わない。ここにはリハビリで来ているのだから。
「陽奈から話はきいたか?」
どうやら、元々働けというのは叔父さんからの差し金らしい。僕は悪態のひとつやふたつ吐こうと思ったが、ここに来た当日に反抗して殴られた頭頂部の痛みを思い出し、素っ気なく首を縦に振った。
「そうか。それでだな、早速だが、担当してもらいたい馬がいるんだ」
「担当?」
「ああ、働くんだ。一頭くらいは担当馬をもってもらわないとな」
「どんな馬?」
「ハクって言ってな。牝馬だ。仔っこを孕んでいる」
春先の時期に仔っこを孕んでいるというと、あと一月も経てば生まれてくる。
「繁殖か。僕みたいな素人が近づいていいの?」
「世話は全部陽奈がやるから、来夢は見ているだけでいい。まずは、会ってみろ」
叔父さんはそう言うと、厩舎の方を指さした。厩舎の前では、いつの間にか寝間着から作業着姿に着替えた陽奈が飛び跳ねて、手招きしている。
「会ってみろって。人じゃないんだから」
「馬も人と変わらん。特に、ハクはそうだ。じゃあ、頼んだぞ」
叔父さんはそう言い終えると、僕の返事も待たずに、母屋の方に歩いて行った。まだ作業の内容など具体的なことは聞いていないが、それも含めて陽奈に聞けということだろう。僕も仕方なく、厩舎の方へ足を進める。
この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。