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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
29/35

負けると分かっていても戦う

 坂路で二頭併せの簡単な追い切りのはずが、ゲートまで持ち出してきて、ちょっとしたレースの様相を呈していた。世界の天才モーアと日本の天才紫都が激突するとあって、競馬関係者たちがちょっとした人だかりを作っていた。


「また、ヴァンベリー家に喧嘩ふっかけたのか」


「遊馬っていう騎手もよくやるよな」


 オーディエンスの中から愚痴が聞こえてくるが、耳を塞ぐ。僕は影縫の調教に集中するんだ。


「調教は、坂路を使った直線千二百mの三頭併せ馬です。ゲートの操作は私がやります。こちらは調教の指示をモーアに伝えてあるので、そっちはそっちでやるです」


 アンジェリカはそう言うと、モーアと英語で言葉を交わし、ゲートを作動させるために、ゲートの側面へと回り込んだ。僕と紫都とモーアはゲートの前で、ぐるりと輪乗りをして、馬の感触を確かめる。


 影縫は牧場で乗っていたよりも、さらに良く仕上がっていた。育成牧場に調整を任せていたのだが、短期間で見違えるほどである。ただ、普段にはない観衆の姿に少しだけ周りを気にしていた。牧場でも見られた兆候だが、大きな音などに弱い、臆病な性格なのである。馬群の中でレースをさせたことはないが、逃げ専門の騎手として見るに、影縫は前目に付けた方が脚を生かせるタイプだと当たりを付けている。今

日の調教はそれを確かめる絶好のチャンスだった。


「準備運動は仕舞いです。早くゲートに入るです」


 アンジェリカの言葉に、紫都は何か言いたげだったが、顔を顰めるだけで何も言わず、ゲートの中へと入っていこうとする。案の定、白夜がゲート入りを嫌がった。散々練習したのに、未だにゲートを嫌がる癖は直っていない。


「もう」


 紫都は悪態を吐いて、鞭で何度か白夜の尻を叩くと、ようやくゲートに収まった。


「グッドラック」


 モーアがこちらに向けて、親指を立てると、沈黙をゲートに促す。最後は僕の番だ。大きく息を吸って

深呼吸をする。普段の調教とも、レースとも違う空気に緊張していた。緊張が馬に伝わらないようにしなければと、気合いを入れ直し、影縫をゲートへと促す。


 ゲートの中では白夜が暴れていた。狭いところが苦手なのだろう。ゲートが揺れるほど激しく暴れてい

る。沈黙は対照的で非常に落ち着いている。影縫は暴れる白夜を気にするように、視線を向けていた。集中しろ影縫。と伝えるために首筋をぽんと叩く。


 歯車が回る音が聞こえ、ゲートが僅かに揺れる。飛び出すタイミングは、数瞬後――――捉えたッ。ゲートが開いたと同時に、影縫の腹を蹴ってスタートを決める。


 だが、モーアの駆る沈黙の方が数枚上手だった。タッチの差とはいえ、距離にしてハナ差スタートを早く決める。流石は天才ジョッキー、モーア。技量が違う。


 白夜は半馬身ほど出遅れた。それでも、あれだけ暴れていたのに、出遅れを半馬身に留めてきたのは紫都の手腕によるところが大きいだろう。


 ハナを奪った沈黙はそのまま加速するかと思いきや、モーアは手綱の力を抜いて、下げてきた。そして、ぴたりと僕の後ろに付ける。恐らく沈黙は後ろから差す競馬を得意とする末脚タイプなのだろう。そうなれば、前半はなるべく脚を温存したいはず。


 僕は手綱を動かして、影縫のペースを上げた。少しだけ沈黙との距離を離しておく。序盤で風よけに使われるのは癪だからだ。


 二百mを通過して、白夜が背後の沈黙にぴたりと並ぶのを感じた。本来なら、僕の後ろに白夜を付かせるのが理想だったが、モーアが許さない。


 僕の背後で激しい鍔迫り合いが行われているのを感じた。自分の馬の脚を温存しつつ、いかに相手を出し抜けるか。馬体を併せつつ、世界と日本の天才が考えているのを肌で感じる。


 そんな空気をぶち壊すかのように、僕は更にペースを上げた。このまま加速して、最後の二百mでスパートをかける。天才だろうがなんだろうが、乗ったからには自分の馬を勝たせるのが騎手の役目だ。僕は調教だということを忘れて、残り二百mで左鞭を振るった。反応はいまいち。どうやら、影縫は右鞭の方が効くらしい。しかし、右は……考えているうちに、両端の視界の隅に馬体が映り込む。白いのと青いの。馬上で追い出しを始めた天才が最後の二百mで勝負に出たのだ。


「勝てねえわ」


 二頭の馬の尻がすっと上がっていくのを見つめながら、僕はぽつりとぼやいた。才能があまりにも違いすぎる。鞍上の技術も、馬の能力も、前を走る二頭は圧倒的だった。影縫の息は早くも上がり始め、スピードががくっと落ちる。ダービーのようなクラシックで戦うには二千四百mは走らなければならない。調教の坂路千二百mで音を上げていては、ダービーはおろか、新馬戦ですらまともに走れないのではないだろうか。


 心の中で暗雲が垂れ込め始める。同じ双子なのに、白夜は才能に恵まれ、影縫は平凡なのだ。そのとき、僕は叔父さんの言葉を思い出した。「双子は能力を吸いとるなんていうしな」影縫の才能は吸い取られてしまったのだろうか。


 レースまがいの調教は、沈黙が最後に突き放して勝利したらしい。白夜も途中まで食いついていったのだが、最後の五十mで力の違いを見せつけられたらしく、ゴールした後の紫都は落胆していた。


「沈黙は凄すぎるわ。白夜も凄い才能だけれど、沈黙はモノが違う。化け物よ」


 白夜も流石に息を切らしていたが、沈黙には一切の息の乱れはない。鞍上のモーアは余裕の笑みを浮かべて白い歯を見せている。


 スタート地点に戻ると、アンジェリカが拍手で出迎えた。そして、馬上から下りたモーアとがっちりと握手を交わすと、白く汗ばんだ沈黙の馬体を愛おしそうに撫でる。


「素晴らしいです。沈黙の圧勝です」


「……」


 ぐうの音も出ないほどの完敗である。まだ白夜に跨がったままの紫都の悔しさで唇を真一文字に結び、目元は今にも泣き出しそうであった。そんな光景をアンジェリカは実に楽しそうな表情で眺めていた。


「そうです。調教に付き合ってくれたお礼に良い提案をしてあげましょう」


 提案という言葉に僕は警戒する。アンジェリカの提案が良いものであるとは考えられない。


「何よ」


 紫都が鼻の頭を真っ赤にして、涙混じりの声を上げる。


「ふふ、沈黙と同じレースに出なさい。そして、沈黙が勝ったら、白夜を頂きますわ」


「影縫はいらないのか?」


「そいつは駄馬です。いりません」


 駄馬。その言葉は僕の心の奥底に深く突き刺さった。才能がなければ必要とされない厳しい世界だというのは分かっている。けれども、そんな場所でもどうにか生き残っていける場所を探してやるのが馬に携わる人の役目だと思う。そう、僕の役目だ。僕の腕前次第では、影縫が名馬に化ける可能性だってある。だから、僕は諦めない。


 僕はキッとアンジェリカを睨みつけた。アンジェリカはフンとは鼻であしらうように笑うと、言葉を続けた。


「そして、もしも、万が一、奇跡が起きてお前たちが勝ったら、石井牧場に融資を再開しましょう……まあ、あり得ない話です……」


「融資の再開の話は本当なんだな?」


「本当です。一着を取れたら、再開します」


 アンジェリカの提案は悪い話ではなかった。勝ちさえすれば融資が再開される。フェアな条件だ。石井牧場が崖っぷちに建たされている現状では、これ以上良い条件は引き出せないだろう。アンジェリカは調教で二頭を下し、本番で絶対に勝てるという強い自信をもっている。


 しかし、競馬に絶対はない。幾ら強い名馬でも負けるときは負ける。記憶に新しい名馬、国内において無類の強さを誇った衝撃という名の馬でさえ、暮れの有馬記念で伏兵に敗れた過去がある。だから、万が一は起きる可能性があるのだ。


「来夢、どうするの? 受けるの? こんな女の提案に乗らなくても……」


「いつまでも紫都に甘えてられない。これ以上紫都に頼るなら、叔父さんは牧場を畳むほうを選ぶだろう。そして、白夜と影縫の決定権は僕に一任されているんだ。僕は……」


 僕は両手を顔にやって、俯いて考えを巡らせた。勝算のない戦いに足を踏み込む勇気はあるのか。負け

れば牧場を畳み、叔父さんと陽奈は路頭に迷うだろう。そして、死んだハクに顔向けできない。託されたのに、最後まで自分の手で管理してやれなかった悔しさで張り裂けそうになるだろう。もしかしたら、もう馬に跨がれないかもしれない。


 それでも、勝負しないより、勝負した方が良い。融資を再開させて石井牧場を復権させ、白夜と影縫を更にバックアップできる環境が整えば理想だ。勝負しなければその理想に手が届くことはない。

 辞めてもジリ貧ならば、勝負あるのみ。


「受ける。アンジェリカ、約束は必ず守れよ」


「守りましょう」


 アンジェリカは手を差し出した。僕もそのほっそりとした柔らかな手をがっちりと握る。契約は成立した。


「新馬戦は一ヶ月後の九月十六日、東京競馬場の新馬戦です。それまでにきっちり仕上げておくように、石井の親父に伝えてください」


 アンジェリカそう言うと、右手を軽く振って、僕らに別れを告げると、心なしか軽い足取りで坂路調教場から、厩舎へとモーアを引き連れて帰っていった。


「ちょっと、来夢。あんな勝負受けて大丈夫なの?」


 アンジェリカの姿が見えなくなると同時に、紫都が駆け寄ってきて、僕の胸元を掴み、強く揺さぶる。


「ちょ、止めて……勝てるか分からないけど、作戦を立てればどうにかなるかなと思って」


「作戦?」


 紫都が手を離し、小首を傾げる。


「うん。先生とちょっと話そう。先生、聞こえてました?」


 雑音がイヤフォンに走り、先生の暢気そうな声が聞こえる。


「聞いちょったよ。燃えるねぇ。調教のやりがいがあるっちゃ。相手はヴァンベリー家の秘蔵っ仔。こりゃあ、厩舎力が試されるねえ」


「他の馬の調教が終わってから、厩舎で話しましょう。白夜と影縫はほぼ実戦に近い形式でやったので疲れているかもしれません。早めに休ませるように厩務員に伝えて下さい」


「了解」と声が聞こえ、無線が切れる。僕は影縫に跨がると、坂路で順番待ちをしていた馬に場所を譲り、厩舎へと引き上げた。

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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