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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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真っ向勝負

 八月十五日。世間ではお盆休みに入り、人々が地元へ帰るために道路は自動車の長い列を作る。そのせいなのか、馬運車の到着はずいぶんと遅れていた。本来なら、朝の十時に引き渡しの予定のはずが、午後二時を過ぎても来ないのである。


 美浦トレセン、殿上厩舎前。せり出した屋根が太陽光を遮って影になっているベンチの上に横になって、僕は首に巻き付けたタオルで額の汗を拭った。早朝の調教で汗を流し、先生が用意してくれた宿舎で仮眠を取った後、十時から延々と馬運車を待ち続けているのである。


「あぢい」


 外は三十度を超す炎天下。こんな日ばかりは、どの厩舎も昼間の暑い時間は避けて、早朝や夜に調教を施すことが多い。今頃、馬はエアコンの効いた涼しい馬房で優雅に昼寝でもしているのだろう。


 僕も先生のように、厩舎内にひっこんで事務作業でもやればいいのだが、馬運車が気になって、仕事が手に付かないのである。


 目を瞑って、ぼおっと寝転んでいると、足音が聞こえた。先生がサボるなと拳骨を落としに来たの

かと、薄目を開けようとして――。


「冷たッ」


 頬にひんやりとした何かを押しつけられた。見ると、ソーダ味でお馴染みの棒付きアイスキャンディだった。


「そんなとこで寝転んでいると、熱中症になるわよ」


 紫都だった。先ほどまで、他の厩舎で調教を行っていて、今頃ようやく戻ってきたらしい。宿舎で

着替えてきたのか、Tシャツに短パンとラフな格好だった。Tシャツの首元がだらんと垂れており、暗くなっている胸元から、白いシンプルなスポーツブラが覗いた。僕は慌てて、起き上がると見えた

光景をかき消すように、頭を激しく振った。


「し、心配じゃないのか。初めての長旅でバテてないかなって。だって、北海道から美浦だぜ。馬運車で何時間だよ」


「馬運車はエアコン完備だし、運転手も馬の運び屋のプロよ。大丈夫に決まっているでしょう。それに……」


 紫都はそこで言葉を切ると、アイスキャンディの封を切って、かぶりつく。きーんと頭に来たのか、こめかみを押さえて、頭を振っていた。


「それに、もし活躍すれば、海外なんていう話も出てくるわ。そのときは馬運車じゃなくて、飛行機

に乗るのよ。競馬の本場イギリスに移送なんて言ったら、十数時間の長旅よ。これくらいでバテてもらっちゃ困るわ」


「紫都はスケールがでかいんだな。ダービーといいさ。僕はまず、一勝できるか不安で不安で」


 僕も紫都にもらったアイスキャンディに口を付ける。懐かしい味だった。子どもの頃はよく小遣い

で買っていたものだ。


「勝てるわよ。影縫はともかく、白夜は大楽勝でしょうね。ゲートも練習したおかげで、すんなり入

るようになったし、あとはトレセンで能力検定とゲート試験を受けて、本番までみっちり仕上げるだけよ」


「影縫、どうしよう。白夜とはレース使い分けたほうがいいかな」


「お父さんと話し合って、決めなきゃね。影縫と白夜はいつも一緒にいるし、離すと白夜が暴れて言

うこと聞かないのよねえ。一緒のレースに出る案が濃厚かも」


「でも、勝ち上がらないと上のクラスに行けないだろう? クラスが違ったら、結局は離ればなれじ

ゃないか」


「そうなのよね。そこが問題」


 二人でそんなことを走っていると、遠くの方でエンジン音が聞こえた。トレセン内は馬優先のため

自動車の速度は制限されているが、それでも、のんびりとした速度でこちらに向かっているのが分かった。


「きっと、白夜と影縫よ」


「迎えにいこうか」


 食べ終えたアイスの棒きれをごみ箱に放り投げ、僕らは車道へと歩み寄る。少し待っていると、目

の前に石井牧場で見送ったものと同じ馬運車が止まった。


「いやあ、お待たせしてすみません。高速、渋滞で混んでまして……あちゃあ、四時間も遅れちゃった」


 運転手がすまなそうな表情を浮かべながら、運転席から降りてきて、馬運車の荷台に手をかける。


「道中どうでした?」


「うん。おとなしかったよ。ストレスもないみたいだし、初輸送としては上々かな」


 運転席からは荷台の様子が見られるようにモニターが設置してある。荷台が開き、スロープが降りてくると、僕は真っ先に荷台に乗り込み、二頭の様子を確認した。


 数時間ぶりに太陽の光を浴びた二頭は、何事かときょとんとした表情でこちらを見ていた。幸いにも怪我もなく、たっぷりと積み込んでおいた飼い葉や飲み水もいくぶんか減っている。どうやら、快適に過ごせたようだった。


「おう、ご苦労さん。どれ、降ろして状態見てみっか」


 馬運車の音で気づいたのだろう、厩舎の奥に引っ込んでいた先生が煙草を燻らせながら、外に出てきた。先生の指示通り、二頭を馬運車から降ろし、引き手を付けて、歩様をチェックする。


「うん、問題ないみたいやね。馬房の準備は出来とうけ、今日はたっぷりと休ませて、明日から調教やな」


 先生は白夜の馬体をポンと叩きながら、にこやかに微笑んだ。僕らは白夜と影縫を寝床となる馬房へと導いていった。


 翌朝、美浦トレセンの馬場開場は午前四時。僕は午前二時には起きて、準備を整え、殿上厩舎へと趣く。厩舎前には、もう紫都が着替えを済ませて、先生となにやら話し込んでいる。


「おはようございます」


「おはよう。あのね、私、今日から他の厩舎の調教を休むことにしたの」


「急に大丈夫なのかよ。予定詰まってんだろ」


「ずいぶん前から調整してきたから大丈夫よ。白夜は私が付きっきりで見たいし、たまにはお父さん

の厩舎も手伝ってあげないとね」


「いやあ、助かる。他の調教助手は雇ってないから、遊馬くんいないと自分で乗らなくちゃいけん

し。これがまた結構腰にくるんよね」


 先生は苦笑いを浮かべながら、腰をさする。


「お父さんも年なんだから、無理しないの」


「じゃあ、もうちょっと紫都もうちの馬に乗ってよ」


「嫌よ。お父さんの厩舎、騎乗手当低いもの」

 

二人のやりとりを見ているとなんだか微笑ましい気持ちになってくる。親父っていうものはいいものだなあと。僕の父親はうんと小さい頃に亡くなっている。生きていれば、僕も父親とこんなやりとりをしていたのだろうか。


「さあ、来夢いくわよ。今日は白夜と影縫の調教だけじゃないんだから、てきぱきやるわよ」


 紫都はそう言って、腕まくりをしながら、厩舎へと入っていった。馬房では厩務員がしっかりと朝

飼いを終わらせており、白夜と影縫は予定通り調教へと出発した。途中で装鞍所に寄って、鞍と鐙を付ける。蹄鉄はトレセンに来る前に、装蹄師を呼んで打ち付けてもらっているので、心配ない。


 白夜と影縫がコンクリートに打ち付ける蹄音が、夜闇に包まれた調教場へと木霊する。まだ馬場開

場まで時間があるので、すれ違う馬の姿はない。


「先生、今日はどうしましょう」


「うーんどうしようか? 牧場ではどれくらい乗り込んできたん?」


「ゆるい登りを何本か。そんなに負荷はかけていないわ」


 紫都がさらりと答える。


「そうか、じゃあちょっと、坂路で負荷かけちゃろうか。二頭で併せてみて、レースのシナリオを考

えてみっか。強度は任せるけ」


 先生とは司令塔の前で別れを告げて、調教馬場入り口の前で開場を待つ。時間が経つにつれて、続々と馬たちが集まり始め、一番乗りしていた僕らの後ろに列を作り始める。その中には、GⅠレースや重賞レースを勝っている馬たちも混じっている。昔はそういう馬を見るだけでも、歓喜していたものだが、今はどっしりと構えて見られるようになった。

 

 開場合図のアナウンスがあり、馬場入りをする。僕たちが一番なので、人気のある坂路は真っ先に使えるだろう。そう思っていたのだが――先客がいた。

 

 一頭の青鹿毛が坂の麓で輪乗りをしていた。二年前の競りで見たときよりも馬体は大きくなり、鍛えられた筋肉が凹凸激しく馬体を彩っているが間違いなく、あのときアンジェリカに競り落とされた沈黙である。


 鞍上には金色の生地にピンクのクロスが入った勝負服をきた人物。依頼があれば鞭一つでどこへでも向かう世界が誇る天才ジョッキー、ロベルト・モーアが跨がっていた。調教のために金にモノを言わせて、彼を呼び寄せ、馬の横にぴったりと張り付いて指示を出すのは調教師ではなく、馬主のアンジェリカ・ヴァンベリーだった。


「ちょっと、ちょっと、どういうことよ。私たちが一番のはずよ。どうして、貴女たちが先にいるわけ?」


 紫都がむっとした表情を浮かべて、抗議の声をあげる。すると、アンジェリカはちっと舌打ちをすると、モーアとの会話を中断して、こちらに振り返った。


 バニラの香りが一段と匂い立つ。泥まみれの調教場だというのに、今日は赤いヒダがたくさんついたスカートに身を包んだロリータファッションだ。


「一番はわたくしたちです。あと一時間は独占して坂路を使えます」


「トレセンはみんなのものだぞ。独占していいはずないだろう」


「アナウンスを聞いていなかったのですか? 今日は坂路の開場時間が一時間遅れると」


 そういえば開場のアナウンスの後に何か言っていたのは聞こえたが、周囲がうるさく、聞き取れな

かったのだ。


「そんなこと、認められていいはずないだろう」


「認められたわ。わたくしには、ここを正々堂々使える権利があります。お前たちは、そこで一時間

指を咥えて……」


 と、馬上にいたモーアがアンジェリカの言葉を遮った。それから、馬から下りるとアンジェリカになにやら耳打ちをする。すると、アンジェリカの顔がパアと華やぎ、そして意地の悪そうな粘っこい笑みに変わった。


「遊馬、殿上、やっぱりお前たちに坂路を貸してやるです。その代わり、沈黙の調教相手になるです」


「調教相手?」


「そうです。沈黙は能力が高すぎてまともに調教を積める相手がいないです。でも、お前たちの馬なら、沈黙にふさわしいです」


「冗談じゃないわ。この仔たちは綿密な調教計画があるの。貴女に邪魔されてたまるものですか」


 嘘だ。綿密な調教計画などない。全ては、先生のなんとなくな調教で決められている。そのときだ

った。耳元に突っ込んでいたイヤフォンから、雑音混じりの声が聞こえてくる。


「面白そうやんけ。やってみたらええやん」


「お父さん! 何を言っているの? 私たちは本気でやっているのよ。こんな見せしめのような茶番に付き合う必要はないわ」


「まあまあ、ええやんけ。強い馬と稽古で当たっとったほうが、白夜と影縫のためにもなるっちゃ。受けたり」


「でも……」


 紫都は渋っているようだったが、僕はやる気だった。紫都のようなトップジョッキーは良い馬とばかり調教をやっているのだろうが、僕みたいな弱小騎手はそれなりの馬としか調教させてもらえないのだ。それに、調教相手は世界的名ジョッキーのモーアだ。トップレベルの技術を間近で見られる良い機会でもある。


「どうです? やりますか?」


 アンジェリカの問いに僕は手を上げた。そして、はっきりと告げる。


「やるよ」

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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