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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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調教

 茨城県美浦トレーニングセンター。通称、美浦トレセンには東京ドーム四十八個分の敷地を有する。設備は、南北にトラック調教施設が二つ、名物の千二百mの坂路調教場、競走馬スイミングプールや森林馬道などが整備されている。


 トレセンには百の厩舎が軒を連ね、常時二千頭を超える競走馬がレースに出るための調整を続けている。


 僕は実に一年ぶりに、美浦トレセンにやってきた。僕が顔を出すと、調教にやってきていた何人かが声をかけてくれたくらいで、僕が不在だったことについては見向きもしていなかった。


 僕はトレセンの最奥に厩舎を構える先生のところへ向かった。トレセンの中は広い。移動は専ら自動車だが、僕は入り口で貸してくれる自転車を利用している。調子よく車輪を転がしていると、トレセンに特有の勝負前の張り詰めたような空気が漂ってくる。


 僕は現在、先生と専属契約を結んでいる。もっと稼いでいる騎手はフリーになって、色んな厩舎からの騎乗依頼を受けているが、僕は全くといっていいほど騎乗依頼が来ないので、先生の専属となって、お給料をもらっている。なので、騎乗ではなく調教として呼び出されることも度々あった。


 自転車を十分ほど漕いで、ようやく殿上厩舎の赤い屋根が見えてくる。一つの厩舎には大体二十頭分くらいの馬房があり、管理している馬が入れ替わり立ち替わり、競馬場や、牧場からやって来る。


 時刻は早朝三時半、未だ太陽は顔を出していないので、先生は厩舎の前のベンチに座り煙草を片手に、蛍光灯の明かりを頼って競馬新聞を覗いていた。僕が声をかけると、手を上げて新聞を折りたたむ。


「おうおう、来よったか。久々のこっちはどうや?」


「雪もないですし、とても暖かいですね」


「やろう。今日は特にコンディションも良いから乗りやすいんやないか?」


「ですね。右手の調子もいつもより良い感じがします」


「よかよか、軽い追い切りなら出来るんやろ? 何頭か単走で追ってほしいのがおるんよ」


「あの……紫都は?」


 紫都はフリーランスだが、先生の調教には率先して乗ることが多い。今回は僕のリハビリのために譲ってくれたのかと思うと、少し心配になったのだ。


「ああ、あいつは最近忙しいみたいで、まともにうちの調教にはこんのよ。馬の当たりがええけ、色んな調教師から引っ張りダコなんやて。ちったァ、親父に気を遣ってくれてもええと思うんやけどなァ。まあこればっかりは……しゃァないな」


 先生はがりがりと困ったように頭を掻くと、煙草を灰皿にもみ消し、「こっちや」と馬房へ案内してくれた。


 馬房は二十頭全てが埋まっていた。閑古鳥が鳴いている厩舎では、馬房ががら空きなんていうこともあるのだが、先生のところは馬主からの信頼を勝ち得ているのだろう。


「こっちや、こっち……牝馬やが……乗れるか?」


 先生は一番奥の馬房を指さす。馬房のネームプレートにはマジックで蓮華草と書かれており、細かい配合飼料などが殴り書きされていた。


「週末がレースや。クラスは一千万以下で頭打ちやな。逃げて掲示板には載るんやけど、着が拾えんのや。もうええ歳やし、繁殖に上げたってって、オーナーにお願いしたんやけどなぁ、もう少し走らせたいって」


「掲示板載ったら、賞金入りますからね」


「そうなんよ。使い詰めで来とうけ、軽ーく流してくるだけでええけん」


「分かりました」


「おっし、いこうか」


 先生がそう言うと、別の作業をしていた厩務員がさーっとやって来て、蓮華草を馬房から引っ張り出す。このまま鞍を付ける装鞍所まで、引いていってくれるらしい。僕の仕事は跨がるだけ。僕は少しでも右手が動くように、軽くマッサージをしながら、馬に乗るための準備を始めた。


「あーあー。遊馬くん聞こえとるか」


「はい」

 耳の穴に突っ込んだイヤフォンから、雑音混じりの先生の声が聞こえる。先生は調教トラックの隣に建てられた監視塔から双眼鏡を使って指示を飛ばしてくる。


「まずは、ダグ(常足)で内馬場を二周回ってきちょって」


「了解です」


 鞍にがっつりと尻を付けて、踵で蓮華草の腹をぐっと押して合図を出す。がくんがくんと揺れる久しぶりの現役競走馬の背中に少しだけ心が揺らぐ。厩務員の話によると、気性は大人しく、扱いやすい馬だという。だが――。


「おっと」


 前脚を高々と上げて、蓮華草のテンションが一気に上がる。馬場入りすると、スイッチが入るらしく、少しだけ暴れる癖があるらしい。


 僕は予め厩務員から聞いていたので、手綱を短くもってしがみつくが、右手に力が入らず、左の方へバランスを崩してしまった。


「やっば」


 慌てて、両腿で蓮華草の馬体をぐいっと引っ掴み、馬上に踏みとどまる。


「大丈夫か?」


「平気です。ダグ、行きます」


 馬と接していれば、こんなの日常茶飯事である。右手をかばって動揺していては、キリが無い。どうにかダグを終えて、本馬場の方へ蓮華草を促していく。


「良かったよ。右手もまあまあ動いとったな。キャンター(駈足)いけるか?」


 キャンターまでは牧場で練習している。強い追い切りでもなければ、馬にしがみついていることはできるだろう。


「はい、任せて下さい」


「向こう正面では力抜いとってええけ、直線で少しだけ気合いを入れたって。それで、蓮華草はスイッチ入るけん」


「了解」


 先生の注文通りに、まず馬を向こう正面へ厩務員が引いていく。厩務員が引き手を外すと、僕はさっきより強く蓮華草の腹を蹴る。蓮華草の馬体に力が宿り、弾かれたように深いダートの砂地を駆け出す。


 向こう正面はゆったりと流す。一ハロン(二百m)~秒で入って、と細かい指示を飛ばす調教師もいるが、先生はかるーくとか、びゅっと力入れて追ったれなど、抽象的な表現で指示を飛ばしてくるので、どう表現すればいいか悩みどころである。


 とにかく、今日は強い追い切りは指示されてないので、馬の成り行き任せたまま、向こう正面からコーナーを曲がり、直線に差し掛かる。


「遊馬くん、その辺で一発鞭や。右鞭……はまだ無理やったな。左で入れたれ」


 僕は腰に挟んでいた鞭を抜いて、左に一発たたき込む。すると、馬体が一瞬だけ縮こまったように収縮すると、一段ギアが上がったように蓮華草が弾けた。風がびゅんと切り裂かれ、あの速度が戻ってくる。


「……」


 少しだけ怖かった。加速したあの瞬間。砂塵は脚を壊したのだから。右手が強ばる。手綱を握っている手が少し緩む。そのとき、何かを察した先生が檄を飛ばしてきた。


「気張れ。最後まで、馬を止める瞬間まで、怖じ気づくなや」


 はっとして、僕は手綱を再びぎゅっと握った。やがて、ゴール板が過ぎて蓮華草がスピードを落とし、やがて止まった。


「上出来、上出来、よう頑張った。後二頭、お願いしたいんやけど、出来るか?」


 問いに、僕は少しだけ痺れを感じている右手を見て、逡巡して、歯をぐっと食いしばると、はっき

りと言った。


「やります」


 騎手免許の更新試験は実技と面接共にあっさりとパスした。先生の調教と紫都の教えの賜物だと思

うと頭が上がらなかった。それからというもの、僕は石井牧場を拠点としつつ、美浦トレセンに頻繁に調教に行くようになった。レースにはまだ乗れる自信はなかったが、少しでも訓練を重ねて、来るべき白夜と影縫デビューの実戦に備えようと考えていた。


 そんな矢先の出来事だった。


 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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