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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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復帰にむけて

 羊蹄山に初冠雪を記録したのは十月の後半であった。富士山に似た優美な形をした山は美しさに磨きをかけて、見るものを魅了している。僕の右手は僅かずつだが、動くようになってきた。毎日、手すりに結んだタオルを引っ張る練習を続け、握力は戻っていないが、なんとか手綱が握れるような状態にもってきたのである。


 今日も、ドラに跨がり、騎乗練習を進めていた。紫都はレースで東京に帰っており、陽奈は小学校。叔父さんは近所の畜産組合の会合に出席しに、隣町まで出かけている。一人だった。雪原での騎乗は緊張する。下手をすればつるりと滑って、馬の下敷きにもなりかねない。なので、僕は念入りに放牧地の雪かきをして、ある程度の広さの馬場を作っておいた。


 速歩、駆け足、と繰り返していると、放牧地の入り口から「おーい」と人の呼ぶ声がした。振り向くと、いつの間にか軽トラが一台止まっており、カーキー色のコートに、緑色のニット帽を被った先生――殿上調教師が咥え煙草をしたまま手を振っていた。


 僕はドラから下りて、そのまま牧柵に繋ぐと、先生に頭を下げる。


「先生、ご無沙汰してます」


「元気しよったか?」


「おかげさまで、復帰に向けて少しずつ頑張っています」


「よかよか。うちの紫都は迷惑かけとらんか?」


「そんな。迷惑だなんて。学ぶことがたくさんありますよ」


 僕がそういうと、先生はガハハと豪快に笑って、煙草を吹かすと、ポケットから取り出した携帯灰

皿に押し込んだ。


「紫都の指導はきつかろうに。さぞ、遊馬くんも苦労しとんやろうね」


 流石は親子、娘の性格を熟知している。僕は適当な薄ら笑いを浮かべて、ごまかしておいた。


「それでや。今日の用事は他でも無い。双子馬を見に来たんちゃ」


「あれ、先生もご存じで?」


「知っとるわ。紫都からよう聞いとるし、アンジェリカの買い取りの打診を断ったって有名やけんな。石井さんも恐れ多いことをしよる」


 そうか。業界にはそんなに広がっているのか……。田舎の石井牧場に引きこもってからは、競馬関係の人とは連んでないので、こういった情報はありがたい。


 僕はドラを厩舎に戻しつつ、白夜と影縫の馬房に案内した。


 白夜と影縫はいつも一緒にいた。片時も離れることなく、引き離そうとすると、影縫の方が嘶き、激しく抵抗するのである。仕方なく、叔父さんが馬房の改修工事を行って、二頭が一緒に入れるようにしたのだ。


「ほう、これが噂の。本当に、オセロみたいやな」


 馬房の柵越しから覗き込む先生の目が、きらりと光る。暖房は入れているのだが、白夜と影縫は寒さを感じるのか、寄り添って、寝藁に丸くなっていた。


「どうです?」


「そう、言われてもなァ。こない小さかったら、走るも走らへんもわからんよ。ただ……」

「ただ?」


 僕がそう聞き返すと、先生は顎の青ひげを右手でぞりぞりと撫でながら言った。


「手がけてみたいっち思う。なんか、こう……わからんのやけど、二頭を見とると、こない風に調教したいなって、プランっちいうんかな。湧いてくるんよ。こういう感覚になる馬はめったにおらんけん」


「叔父さんに聞いてみなければいけないですが、デビューするときは、是非とも先生のところでお願いしたいと思っています」


 紫都も、将来は白夜か影縫のどちらかの跨がることになるだろう。そのときに、気心の知れた先生のほうが、騎乗もスムーズに行くはずだ。


「遊馬くん。石井さんの許可はもらっとんよ。遊馬くんさえ良ければっち話やった」


「僕さえ良ければ?」


「ああ、こう言っとったな。自分が選択しよったら、この結果は生まれんやった。あの子たちが切り開いた道ならば、最後まで面倒見らんとなっち」


「……」


 先生は馬房から離れると、厩舎を出た。僕も後ろから付いていく。どんよりとした鈍色の雲から小雪が舞い始めている。先生はポケットから煙草の箱を取り出し、一本つまんでライターで火を付けた。


 紫煙が一筋空に向かって、たなびいていった。



 暖炉の中でたき火が爆ぜる。赤々と燃えさかる炎が、じんわりと身体の奥まで温かさを届けてくれ

る。僕はたき火の前に濡れた手袋と防寒具を広げた。時刻は午前五時を過ぎたばかり、この時期はまだ日の出は遠いが、起床時間は夏に比べて早くなる。


 冬国には付きものの雪かきだった。道は役所が重機を入れて綺麗に整備してくれるが、私有地はそ

うはいかない。叔父さんは毎日のように、母屋や厩舎の屋根に登って雪を下ろす。足を滑らせないかと冷や冷やものだが、僕に代われと言われても、高所恐怖症でできない。


 僕の仕事は母屋から厩舎や放牧地に繋がる道の雪かき。新雪が降り積もった日にはスコップでさくさくといけるが、冷えこんで氷が張ると、つるはしで割ったりしないといけないので、大変だった。


 今日も一段と冷え込んでいたので、午前三時からつるはしを振るっていた。厩舎業務もあるかと思うと、少しげんなりとするが、仕方が無い。


 赤い煉瓦に囲われた暖炉の上には、カレンダーが掛けられている。二月も後半。もう少しで春になる。僕はカレンダーを一枚めくると、三月二十六日に赤いマジックでぐりぐりと丸印を付けた。


 この日は、騎手免許更新試験の日。通常ならば、簡単な面接だけで更新することができるのだが、半年間レースでの騎乗がないと、実技検査が課せられるのである。試験官の指示に従って、馬を操れるか。常歩、速歩、駈歩、三頭による併せ馬もある。


 特に、併せ馬はやっかいだった。先行する二頭の間を縫って、全速力で追い切らなければならない。騎手としては当たり前のことだが、右手が不自由な僕にとってはなかなか辛いものがあった。

 稽古を本格的にやらなければならない。石井牧場では設備もなく、出来ることは限られている。


「よし」


 僕は意を決して、電話をかけた。相手は先生だった。


 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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