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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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逃げた先に待っていたもの

 大逃げのコツは闇雲に逃げることじゃない。馬群を大きく離して、他の騎手に圧力を与えつつ、正確なリズムを刻めるかにある。


「十二、十三、十四、十五。ちょっと速いか」


 見慣れた周囲の景色や芝生の状態、身体に吹き付ける風圧を読みながら、数えていく。時計とにらめっこをしながら、鍛え上げた自慢の体内時計だ。それを最大限に生かし切る。ふと、馬蹄の音を右の背後から感じた。外枠には逃げを得意とする同型馬がいたはず。競りかけて、ハナ――先頭を潰しにくる気だ。


「させるかッ」


 僕は右手に握った鞭をくるりと一回転させて、砂塵の視界にちらつかせる。見せ鞭。鞭を振るうまでもない。砂塵の脚の回転が僅かに上がり、視界の端に映っていた馬の鼻面が消える。これでいい。このまま少しずつペースを上げて馬群を引き離す。


 手綱を短く握り直し、砂塵が振り上げる前脚に合わせて首筋を押していく。刻むリズムは馬によって違う。だから僕は、騎乗が決まった馬のリズムをきちんと覚えるまで、何度でも馬に跨がる。自分が跨がらない時には出来るだけ側に張り付いて、馬の脚を眺めている。そうすると、馬が喋りかけてくる気がするのだ。「俺のリズムはこうだと。上手く乗ってくれよ」と。僕はそれに従うまでだ。


 夢中になって砂塵を繰っていると、いつの間にか向こう正面に流れ込む。振り返っていないが、馬蹄の音は遠い。ずいぶんと引き離したのだろう。僕はピンと張っていた手綱を僅かに緩めた。吹いていた風が今度は味方になって、背中を押す。気を緩めたくなる場面だが、慎重に。僅かに速度を落として脚を温存させる。全ては、最後の十完歩に賭けるために。


「もっと、抑えなさい」


 ふと、背後から声が飛んできた。振り返ると、遠く離れた馬群の先頭に陣取った紫都がこちらに厳しい視線を向けていた。何が抑えなさいだ。余計な世話だった。砂塵のことは全部分かっている。これは作戦なのだ。先生の娘だからといって、容赦なんてしないぞ。


 僕は右鞭を振るった。紫都の声が聞こえなくなるくらい引き離そうと思ったのだ。

 

 そのときだった。がくんと、砂塵の速度が落ちた。正確に刻んでいたリズムが堰を切ったかのように崩れだす。おかしい。砂塵はこの程度でバテる馬ではない。


 直後、馬体から伝わる振動に違和感を覚えた。きちんと地面を踏みしめていない。前脚と後脚にばらつきを感じた。嫌な予感がした。腹の底がもぞもぞと動き、冷たい汗が全身から噴き出した。


 僕は急いで手綱を引き絞り、砂塵を止めようとした。ここで止めなくては大変なことになる。そう思ったからだ。


 しかし、思い切り手綱を引いた瞬間、その判断は間違いだったと気づく。急に速度を落とすということは、脚に猛烈な負担がかかるのだ。この場合、少しずつ手綱を引き絞り、馬を止めなくてはならなかった。


 ムキになって、そういう判断ができなかったのかもしれない。太い枝が真っ二つに折れるような音が聞こえた。すると、砂塵は走るのを止めて、身を捩り、僕を凄まじい力で振り落とした。


 世界がぐるりと――暗転した。


「……」


 地面に投げ出された僕は、受け身を取ったつもりだったのだが、上手くいかなかったらしく、全身を強く打っていた。口の中は切れて血の味がした。頭はぼんやりとしていて、薄目を開けると、晴れ渡った青い空が面白いようにぐにゃぐにゃと歪んで見えた。いつもなら、落馬をしてもすぐに起き上がれるのに、今日は身体に全く力が入らなかった。


 それでもどうにか視線を動かして、砂塵がいる方向を見やる。音が聞こえた時点で、半ば覚悟していたことだが、その光景はあまりにも残酷だった。


 乗り手を振り落とし、空馬になった砂塵は高々と前脚を振り上げて、悲痛混じりの嘶きを響かせながら立ち上がっていた。その右前脚はぽっきりと折れ曲がっている。栗毛の皮が痛々しくめくれあがり、白い骨が剥き出しになっていて、皮と腱で辛うじてぶら下がった蹄は砂塵が暴れる度に、今にも千切れんばかりに激しく揺れていた。


 砂塵は何度も、何度も、前脚を上げて、痛みから逃れようと宙を掻いていた。物言えぬからこそ、その仕草は目を背けたくなるほど痛々しいものだった。一目で、もう助からないと悟った。完全に折れてしまった脚がくっつくことはない。経済動物だから、人間のように治療にお金もかけられない。レースが終われば係員がやって来て、これ以上苦しまぬように薬を打って殺すのだ。


 僕が殺したようなものだ。僕が……。


 わァっと感情が心の奥底から迸った。馬が死んでしまうところは何度も見たことはある。けれども、自らの手で殺してしまうきっかけを作ってしまったのは初めてだった。


 そのときだった。今まで、暴れていた砂塵がぴたりと動くのを止めた。激痛があるだろうに、折れた右前脚を直接芝生に付け、両耳をぴんと立てて僕らがスタートしてきた方向へ向けていた。


 ――ダダダダダダダッ。


 ターフを揺るがす大きな地響き。置き去りしてきた十七頭の馬蹄が、コース中央に倒れ込む僕らを呑み込まんと駆けてくる音だった。


「退きなさいッ。早く」


 どんどん大きくなってくる紫都の絶叫が聞こえる。レースは続いているのだ。レースには大金が賭けられている。故に、何があろうとも、先頭の馬がゴールするまでは、レースは終わらない。


 肉体的な痛みに覆い被さるように、恐怖がやってくる。逃げの遊馬。そう言われる由縁。それは馬群が怖いからだった。騎手同士の思惑。押し合いへし合い。勝つためにはたたき落としたり、馬をぶつけたりするのを躊躇わない騎手さえいる。


 故に、僕はいつも逃げて勝ちを拾ってきた。馬の脚が持たずに馬群に呑まれてしまったら、邪魔しないようにおとなしくレースを終えていた。でも、今日は駄目だ。芝生のど真ん中で邪魔をしないようにおとなしくしていれば、踏みつぶされてしまう。


 馬の蹴りは人間の身体など、容易く破壊する。馬の尻の方に立ち、後ろ蹴りを食らってそのまま死んでしまった人を見たことがある。


 死にたくなかった。


 僕はうつぶせになって這おうとした。芋虫のように、全身をのたくるようにして、コースの端まで行こうとした。しかし、動かない。意識はどんどん薄れていった。それでも、一歩でも、半歩でも足掻こうとした。


「生きろ」


 ふと、声を聞いた。力強い男の声だった。閉じかけた瞳を少しだけ開ける。すると、砂塵が右前脚を引きずりながら、僕の方へ歩いてきて、ぴったりと寄り添うようにして座りこんだ。温もりとごわごわとした毛並みを身体越しに感じた。彼は顔をしゃんと上げて、迫り来る馬群を見つめていた。


「あ、ああ」


 声をかけたつもりだった。けれども、ぎゅうと押しつぶされたように痛む胸の奥からは、うめき声しか漏れなかった。なんと声をかけたかったのだろう。自分でも分からなかった。それでも、僕はあらん限りの息を吸い込み、声を上げた。


「うううう、ああああ」


 光景は歪んでいった。溢れる涙と薄れる意識によって。

 

 けれども、僕はその姿を刻んだ。頭に深く深く刻みこんだ

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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