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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
19/35

札束で殴り合う

 競り会場は異様な空気だった。参加者のほとんどが業界の名うて名士揃いで、高そうなスーツやドレスに身を包んでいる。僕はポロシャツとスウェットで行ったので、入り口で何度も係員にチケットの提示を求められた。


 会場の広さは端から端まで、大きな声を出せばギリギリ届くほどの広さで、中央には上々される馬の情報を映す巨大モニターが備え付けられている。モニターの前には競り鑑定人がハンマーを振るう机があり、そこから一段低い位置にウッドチップが敷き詰められた馬見せと呼ばれる半円状の空間がある。半円の先端はどちらも外へ直接繋がっており、言わばベルトコンベアのように、馬を引き連れては流していくという作業ができるようになっている。僕は指定されたパイプ椅子に腰掛け、入り口で配られていた上場する馬のカタログに目を通す。


「すげえな」


 陽奈がじっとカタログを覗き込む。


 一頭、一頭カラー写真で丁寧に撮影された馬たちが、軽やかにポーズを決めている。傍らには名馬が居並ぶ血統表と近親からどんな活躍馬が出ているか、生産者からの簡単なコメントが印刷されていた。


「どの馬もよく見えるなあ。馬は結構見てきたつもりだけど、ぱっと見じゃ分からないよ」


 紫都の方へカタログを渡すと、ぐっと顔を近づけて写真をチェックしている。


 そういえば、懇意にしている馬主に競りの代行を頼まれたんだっけ。紫都ほどのトップジョッキーならば、その相馬眼を期待して、競り代行の仕事なんて引く手数多だろう。


 と、紫都の手がぴたりと止まった。視線がまるで吸い寄せられるように写真を凝視している。僕も写真に目をやった。


「――――」


 息を呑んだ。青鹿毛の牡馬がそこにはいた。緑の芝生に青空を背景にして、優雅にポーズを決めている馬体は誰が見ても整っていた。がっしりとした両肩に、乗り心地の良さそうな背中、発達したトモ――後ろ脚にはみっちりと筋肉が詰まっていて、飛節もぴんと伸びている。血統表に目をやると、父親は米国の種牡馬ハロー。母親の名前は聞き覚えがないが、近親に何頭か活躍馬のいる血統だった。


 海外からの輸入馬というわけだ。誰かがわざわざ海外の牧場に出向き、この馬を見いだし、競りにかけたということになる。


 生産者は――。


「アンジェリカ・ヴァンベリー。あの女よ」


 紫都が苦々しい口調で言った。


 アンジェリカ。彼女がチケットを贈ってまで、僕たちに見せたかったのはこの馬なのだろうか。


「この女からは買えないわね。石井さんから怒られるわ」


「って、紫都姉ぇ。おっ父ぉの代行なのか?」


 ぽかーんと口を開けたまま、馬の写真を見入っていた陽奈が素っ頓狂な声を上げて、紫都に訊ねる。


「そうよ。石井さんから、ハクに代わる新しい繁殖を見越した牝馬を導入したいって言われたのよ。

騎手の領分じゃないって断ったんだけどね。来夢が心配だからって……」


 紫都はそこで言葉を切ると、そっぽを向いて、実に作り物っぽい素っ気ない口調で、


「別に私が心配したとか、そんなんじゃないんだからね」


 とぼやいた。隣で陽奈がにやにや笑う。全く、ガキの癖してからかってやがる。


「おっ父ぉが競りに興味持つって珍しいからな。なんかあったのかな」


「この間の、アンジェリカに触発されたとか?」


「そうかなぁ。おっ父ぉは結構頑固で、耳を傾けないんだけどねぇ」


 陽奈がしみじみ言うと、紫都がまとめるように、割って入る。


「とにかく、この馬は買わない。牝馬じゃないし、というより、買えないのほうが正しいわ。きっと

億超えの物件だから」


 海外産馬で億超えはかなりのリスキーだ。父親は米国のチャンピオンサイアーだが、日本での実績

はほとんどない。馬場が合わずに、凡走で引退なんていうことも平気で有り得るのだ。


「アンジェリカが出品したってだけで、有力馬主がこぞって目を付けているはずよ。噂では、ドバイ

の王様も購買に人を寄越しているらしいし、これは白熱した競り合いになりそうね」


 紫都の言うとおり、競りが始まると、会場の空気はがらりと変わった。競り鑑定人が壇上に立つと、母仔がセットで係員に連れられて裏のバッグヤードからやってくる。血統や売り口上が簡単に述べられ、小気味良く呷りながらセッションがはじまる。


 熱を帯びるというのはこのことだ。大の大人が、血眼になって馬の善し悪しを見極め、入札をしていく。始めの金額も桁違いで、一千万から始まる馬がザラにいた。それでも、テンポ良く手が上がっていく。


「まあ、予想はしていたけれど、この競りじゃ石井さんの馬は買えないわね。お買い得なのがたまに出るからそれを拾おうと考えていたけれど、この感じじゃ無理そうね」


 繁殖の質を上げるのはこういったグレードの高い競りで、血統の良い牝馬の仔っこを買うのが一番安上がりなのだが、石井牧場の施設のおんぼろさを見ると、紫都の言うとおりこの競りで仔っこを買うのはずいぶんと難しそうだった。


 競りの中盤。場も温まり、億超えの馬が数頭でたときだった。


「来るぞ。来夢兄ぃ」


 陽奈がぐいと僕の袖を引っ張って、バックヤードの方を指さした。目の前の電光掲示板には米国のチャンピオンサイアー、ハローの現役時のレース映像が流れる。


 やがて、青鹿毛の母仔が姿を現した。当歳というのは、母親にまだまだ甘えたい盛りだというのに、仔っこは非常に大人しく、悠然とあたりを見渡すように首を動かすと、その立派な好馬体を惜しげもなく、観衆に晒した。


「上場番号百七十二番。ウィッシングラブの二〇××。牡、青鹿毛、四月五日生まれ。父ハロー、母ウィッシングラブ。母の父アンダーソンであります。父は米国のチャンピオンサイアー。産駒の輸入は本邦初でございます。では――――八千万円から」


 周囲が一気にざわつく。八千万円スタートは今までで最高額のスタートだ。


「八千二百!」


 正面に陣取っていた男性の声を皮切りに、ぽつぽつと手が上がる。最初は百万刻みでちまちまとした値動きだったが、


「一億!」


 著名な冠名を持つ大手馬主がぽんと金額を飛ばすと、負けじとターバンを巻いたドバイの王様のバイヤーらしき人物が手を上げる。


「一億五千!」


「二億!」


「二億五千!」


 五千万単位の競り合いに会場がどよめく。大手馬主とドバイの王様のバイヤーとの競り合いは激し

さを増していく。


 だが、その競り合いも五億を超えた当たりで、ぴたりと止まった。どうやら、ドバイの王様に軍配

があがったようだった。大手馬主の男性は悔しそうに、顔を歪めて首を振っていた。


「さあ、五億。次は五億一千万円はありますか? 五億一千。お父さんは米国のチャンピオンサイア

ー、ハロー。五億にハンマーが落ちます。五億一千、ございませんかッ!」


 競り鑑定人のハンマーが振り下ろされる。まさにそのときだった。


「六億です!」


 甲高い声が会場に響いた。競り会場の最前列に陣取り、華やかなパーティドレスに身を包んだ金髪の女性。いままで一度も競りに参加しなかったその人、アンジェリカ・ヴァンベリーがいとも簡単に値をつり上げた。


 これにはドバイの王様のバイヤーも手が上がらず、会場の空気はどっと盛り上がった。


「これは、六億。正面のお客様。さて、六億一千ありますか? このまま、ハンマーが落ちます。ございませんか?」


 ハンマーが落ちる小気味良い音が聞こえると、会場中から自然と大きな拍手が巻き起こる。しかし、その様子に納得の言っていない人物がいた。僕の隣に座る殿上紫都だ。


「おかしい。あの女、自分で馬を出品しておいて、自分で落札? 自分で所有したいなら、競りに出す必要なんてないのに、どうして……」


 そんな紫都の疑問に答えるように、競り鑑定人がアンジェリカに名乗るように促す。


「わたくしはアンジェリカ・ヴァンベリー。この馬の出品者ですが、値段に満足がいかず、主取りというわけではないです。今日はヴァンベリーサラブレッド倶楽部の代表として落札しました」


 ヴァンベリーサラブレッド倶楽部――――とはなんだ?


「サラブレッド倶楽部。それは競走馬の新しい所有方法です。一頭の馬の持ち分権を分担し、多くの人に競走馬を所有する楽しみを味わってほしいという思いから、本日発足しました。今回の競りは言わばお披露目と、この馬の値付けを兼ねていたのです。今回、落札額が六億。募集口数は二百口。一口三百万円で馬が所有できます。たったの三百万円で海外の超良血が所有できます。同好の士よ、申し込み待っていますよ」


 アンジェリカの提案ともいえる言葉に、会場中が静まりかえり、競りは一端中断となった。今まで、馬は金持ち一人が所有するものという考え方が一般的だった。そんな競馬界において、庶民が手に届くものに下ろしてきたアンジェリカの提案は非常に魅力的で、多くの競馬ファンの心を打つことになるだろう。


 僕も、その新手法には唖然とした。金持ち同士で馬の権利を分け合うなんてことはあったが、まさか二百等分して誰でも良血に手が届きうる金額にするとは、考えも付かなかった。


 冗談ではあろうが、紫都も笑いながら、私も一口持とうかしらなんて言っているくらいだ。


 競り終了後、アンジェリカは僕らの元へやってきた。そして、パーティドレスの裾をちょんと上げると、軽くお辞儀をして口を開いた。


「まあまあ、殿上騎手ですわ。復帰後、上々の成績で復調したようですね。そんな名騎手と一緒とは石井牧場もなかなか顔が広いです」


 称えているのか、馬鹿にしているか。まあ後者であろうが……。


「チケットはどういう意味だ。僕がこの競りに来ても何も買えない。白夜と影縫を買い取れなかった当てつけか?」


 僕がそう言うと、アンジェリカはくくくと小さく笑うと、白い手袋をした手で紅を差した小さな唇を隠した。


「あの強情な石井と、あなたたちに学んで欲しかったのです。走る馬がなんたるかを。まあ、強情な親父は来なかったのですか……それに、白夜と影縫を是非とも我が、ヴァンベリーサラブレッド倶楽部のラインラップに加えたかった」


「倶楽部に?」


「そうです。うちの倶楽部には走る馬しか入れない。わたくしがそれこそ世界中を回って集めてきた一品の馬をもっと多くの人と分かちたい。そういう信念で設立したのです。確実に成功するビジネスモデルです。それには、白夜と影縫がどうしても必要だった」


 アンジェリカがここまでして、欲しい白夜と影縫。あの双子はそんなに走ると言うのか。多くの馬を見てきた僕にとっても、必ず走ると言わしめる名馬を見極める自信はない。だが、アンジェリカは間違いなく、相馬眼をもっている。


「高値で買いましょう。もう一度、あの頑固親父を説得するのです」


 アンジェリカはずいっと僕の方へ詰め寄った。


 一瞬だけ、その道もありなのではないかと思えてきた。白夜と影縫を競りに出し、アンジェリカの名前で出品すれば高値が付くだろう。その金で、石井牧場をもっとよくすることができるはず。長い目で見れば、それもいいのかも……。


 しかし、そんな思考は、僕の様子を見守っていた陽奈の一言で簡単に消し飛んだ。


「約束だからな! あの馬は、石井の手でダービーを目指す。そう誓ったからな。おっ父ぉもその夢に向かって、苦しい牧場経営をやりくりしているんだ。来夢兄ぃ。目を覚ませ! 夢は金か? 違うだろう。ハクを思い出せ。砂塵を思い出せ。夢の続きを潰す気か?」


 そうだ。あの約束。約束があったじゃないか。


「アンジェリカ……さん。君の新しいビジネスは素晴らしい。だけど、僕は僕の路でいくよ」


 俺は俺のやり方で行く。叔父さんの台詞と僕の台詞が被った。


 僕の表情を見ていたアンジェリカはすっと瞳を細めた。少しだけ、期待の光りが灯っていた瞳に闇が落ちる。ツンと鋭くハイヒールを鳴らすと、彼女は踵を返した。これでいい。これでよかったのだ。僕は自分に言い聞かせた。

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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