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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
18/35

いざ、競走馬の競りへ

 札幌には前日に列車で乗り込み、一泊してから僕らは新千歳空港を目指した。札幌から電車で一本、約四十分の道のりだ。ガタンと電車に揺られていると、久々に人が多くいる場所にやって来たことに気づいた。


 僕が人気騎手であれば、人目を気にして電車に乗り込まなければならないが、現在の僕は絶賛休業中の底辺騎手だ。顔を覚えている奴なんて、ほとんどいないだろう。しかし、ずっと人があまりいない牧場にいたものだから、人混みには目を白黒させられた。


 電車を降りて、改札を出ると、ターミナルの方へ流れ込む群衆に巻き込まれる。僕は陽奈の手を離さないように、左手でがっちりと握ると、流れに逆らうようにして外へ出た。


 札幌も暑い。目下二十五度を超える暑さはへばる。天気予報によると、東京はもっと暑いらしいが……。


「ヴァンベリーファーム行きのバスはまもなく発車しますよ」


 バスが何台も並んでいるロータリーの一番右端で、運転手らしき男性が声を張り上げる。僕は慌てて、手を上げながら、ちまちまとした小走りの陽奈を半ば引きずるようにしてバスに乗り込んだ。


 バスの中は冷房が効いていて快適だった。僕はふっと、一息吐くと周囲を見渡す。ほとんどが競り市を見学しにきた競馬ファンらしい。関係者は車で直接乗り付けるのだ。そんな乗客の中で変な客を一人見つけた。


 大きなサングラスに長いポニーテール。そして顔が見えないようにマスクもしている。こそこそと隠れるように一番後ろに座り、なぜかちらちらこちらを見やっている。


 あれはどっからどう見ても、紫都だった。騎手の領分じゃないとか言っておきながら、結局は来たのである。僕は陽奈にこっそり耳打ちをすると、陽奈はこくりと頷いて、その怪しいマスクの女に近づいて行き、


「紫都姉ぇ。ばればれだぞ」


 と言ってマスクとサングラスをはぎ取った。


 紫都は、ひっと小さく悲鳴を上げてから、顔を赤らめて恥ずかしそうに下を向いた。僕らは空いている紫都の両隣に腰掛ける。


「どうしたんだ。行かないって言っていたじゃないか」


 すると、紫都は口を尖らせながら言った。


「懇意にしている馬主さんから馬の買い付けを頼まれたのよ。でも、あんたたちには行かないって言っちゃったし、だから変装していたの」


「紫都姉ぇは恥ずかしがり屋なんだな。素直に、やっぱり来夢兄ぃと行きたかったのーって言っちゃえばいいのにぃ」


 陽奈がそう茶々を入れると、カアっと紫都の顔が赤くなって、ぶんぶんと首を横に振った。


「絶対、そんなんやないんやからね。違うっちゃ」


 ぱっと飛び出した方言に思わず、口を押さえる紫都。そんなに否定しなくてもいいのにと思った。


   ***


 新千歳空港の側に広がるのは広大な牧草地。東京ドーム三つ分という広大な敷地には約二百頭近い繁殖牝馬と当歳や一歳馬が放たれている。優秀な種牡馬を抱えるスタリオンもあり、トレーニングセンターがある美浦や栗東に匹敵するような調教施設もあり、競走馬の放牧用地としても利用されている。ヴァンベリーファームと呼ばれるこの牧場は日本で最大の総合牧場である。


 その最奥。一般人が立ち入ることが許されない私有地に豪邸はあった。放牧地を一望できる小高い丘の上に建てられた家は、絵に描いたような西洋建築であった。赤煉瓦の壁面に、グリーンの屋根、窓枠はオークの木で縁取られ、玄関から放牧地へと続く路は石畳である。


 そんな家の一角。大広間にアンジェリカ・ヴァンベリーはいた。ブナの大木を切り倒し、しつらえたダイニングテーブルの端っこに陣取り、金箔が貼られた豪奢な造りの四つ足椅子に深く腰掛け、鋭い視線を対面に座る人物へ向けている。


 机の上には夕食が並んでいた。今日のメインは白身魚のムニエル。スープはバジルが浮かぶコンソメで、付け合わせにはポテトサラダに、英国人らしく、紅茶のティーポットが並んでいる。


「お父様。どうして、認めて下さらないのです。わたくしなら、必ず成功させますわ」


 アンジェリカは語気を荒げながら、説得するように白い手袋をはめた右手を胸元に当てた。


 アンジェリカの前に座るのは初老の男性。アンジェリカの父、ローランド・ヴァンベリーだ。御年五十になる。丸めがねをかけていて、頭は金髪混じりの白髪。家の中だというのに、外に出かけるようなダークスーツに身を包み、両手には白身魚を取り分けるナイフとフォークがあった。


「わしは言ったはずだ。あの白い馬と黒い馬を我が物にせよと。それが出来れば、お前の倶楽部とやらの新しいビジネスに喜んで金を出そう。あの馬たちをお前のいう倶楽部とやらに入れても構わん。うちで保有するのと何ら変わりが無いからな。お前も、わしの子であるならば、分かるであろう。あの馬たちは神が遣わせた馬。必ずや走る。種馬になった暁には世界の血統を塗り替えるであろう。それを、我がヴァンベリー家が持っていない。それは、競馬界にとって、最大の損失なのだよ」


「お父様。私には分かりません。あの馬たちが活躍し、種馬になってから引き取っても良いのではないのです?」


「わからんのか? 馬鹿者が。強情な石井の親父のことだ。血統を保全すると言い張り、手放さないだろう。現役時代も、うちの懇意の調教師が扱うわけではないんだ。どういった扱いをされるか分かったもんじゃない。故に、手の内に入れておくことは規定事項なのだよ」


「ですが、お父様。あいつらは強情です。金もないくせに、大金をちらつかせても、転びませんでした」


「それをどうにかするのが、跡継ぎのお前の仕事だろう。うちのモットーは走る馬を集め、金を生み出すことだ。それができなければ、お前は跡継ぎでも何でも無い」


 ローランドは冷たく、突き放すようにそう言うと、傍らにあったベルを鳴らして、メイドを呼び出した。


「夕食は済んだ。今日はムニエルの焼き加減がいまいちだ。料理人に伝えておけ。お前は優秀だから、雇っているのだと。優秀なものを作れないようなら、覚悟してもらうと」


「かしこまりました」


 メイドが慇懃そうに、頭を下げると、ローランドは立ち上がって大広間を後にした。メッキが施さ

れた革張りの豪奢な両開きの扉が閉まるのを、アンジェリカは見送ると、ぐっと握りしめていた右拳を力強く、机に振り下ろした。


 机の食器が音をたてる。そして、アンジェリカの癖である、ぎりりと歯をきしませる音が聞こえた。顔をうつむかせて、長い金髪を垂らしながら、ぼやくように独りごちる。


「悔しいです。悔しいです。お父様さえいなければ、わたくしが競馬界を牛耳れるです。わたくしはお父様より、もっと上手くやれますの。もっと金を、もっと良血を、稼げるのです。そして、いつか必ず、英国に……お母様に……」


 すっと言葉尻が消える。そして、顔を上げ、かっと紺碧の瞳を見開くと、声を荒げる。


「倶楽部を必ず成功させるです。絶対に、絶対に、絶対にッ……」


 そして、言葉をかみ殺すように、がりりともう一度歯ぎしりをすると、何事もなかったかのようにフォークとナイフを手にとって、食事を取り始めた。

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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