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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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招待状

 真っ赤な太陽が真西に傾き始め、羊蹄山の山肌を赤々と照らしていた。僕は一日の牧夫の作業を終えて夕食を採り、一息吐いてから、厩舎へと向かっていた。服装は久々に袖を通した叔父さんの勝負服に、ジョッキーパンツ、ブーツを身につけている。


 ふっと息を吐く。何度も馬に乗るイメージは繰り返してきて、リハビリを行ってきたが、実際に馬に乗るのは事故があったあの日以来初めてだった。厩舎の前には、ポニーテールに髪を結い上げ、きちんとメイクを施した紫都の姿があった。


「準備は良い?」


「右手以外はね」


「上々ってことね」


 紫都はくるりと踵を返すと、厩舎の中へ入って行き、やがて一頭の馬を引き連れていた。青鹿毛の立派な馬体がぬっと姿を現した。競走馬を引退して三年半を過ぎたが、まだ存分に走ることができる。彼女の名前はドラ。繁殖牝馬として叔父さんが所有している馬だが、体質に問題があるのか仔っこを胎むことができず、今は専ら叔父さんの乗馬用として活躍している馬だった。


「ドラには昔、私も乗ったことがあるわ。女の子らしい、乗り味の良い馬だった。仔っこを残せないのは残念ね」


「でも、こうやって、僕のリハビリを手伝ってくれるんだ。感謝だよ」


 紫都は手早く馬装を整えると、鞍をぽんと叩く。


「さあ、乗って」


 ふっと、息を吐く。身体の奥底からじんわりと汗が噴き出す。大丈夫だ。僕なら乗れる。


 鐙に足を掛けて、鞍に尻を付ける。視界が一気に騎手の目線になる。左手で、しっかりと手綱を握

り、身体を安定させる。


「おっ、良い感じじゃない。もっと、びびって乗れないかと思ってた」


「舐めんな。これくらいは片手でもどうにかなるさ。問題はここから先だよ」


 僕はドラの横っ腹を、踵で軽く押す。すると、ドラはまるで僕を気遣うような足取りで、ゆっくりと脚を前に伸ばした。並足で、ゆっくり、ゆっくりと、厩舎の前の路から放牧地へと進んでいく。


 思ったより怖くなかった。右手は手綱に這わせるように添えているだけだが、ここまでならどうにかなった。問題は速歩からの駆け足。これは手綱の微妙な操作が要求される。


 僕は合図を送るために、手綱を引き絞ろうと右手に力を入れた。


 しかし、力は入らない。脳から送り出された信号が肘の辺りでぴたりと止まる。そんな感覚だった。


「焦らない」


 ドラと併走するように、少し小走りになっている紫都が声をかける。馬は敏感な生き物だ。僕の動揺なんてすぐに察するだろう。精神を集中させる。右手に力を漲らせるようなイメージを作り、指先へと送り込む。


 すると、少しだけ指先に感覚が戻ったような感じがした。


 満足に握りこむことはできないが、指先に手綱を引っかけることなら、できる。僕のほんの僅かな努力に、ドラは応えるように並足から速歩、駆け足と切り替えていく。


「上々じゃない」


 放牧地の入り口で、追いつけなくなった紫都が声を張る。


「どうにか、まだ微細なコントロールは難しいけれど、形にはなりそうだよ」


「毎日続けないとね。せめて、追い切りくらいまではできるようにならなくちゃ」


 追い切りとは、施設で馬を併せる調教のことだ。六十キロ程度まで速度の上がった馬を操るのだから、こんな不自由な手では到底御せない。


「あとは心理的な問題だけらしいからね。毎日、やって少しずつ克服していくよ」


「私も付き合うわ」


 付き合う。そんな言葉に、僕ははっと紫都の方を見やる。ぐいっと手綱も引いてしまい、ドタッとドラが脚を止める。彼女は赤い夕焼けを背景に、不思議そうな顔で、小首を傾げた。


「何よ」


「いや、別に」


「気になるじゃない。何か言いたげだった」


 僕は首を振った。紫都は追求するかのように、僕の方を見ていたが、そんな空気は陽奈の声で吹きとんだ。


「おーい。おっ父ぉがもう暗くなるから止めておけだってさ……って、なんかあったか?」


「別に何でも無いよ。さあ、ドラを厩舎に戻そう」


 僕はひょいと馬から下りると、そそくさと厩舎へ急いだ。


 八月。北海道も猛暑日が続き、馬も人もやっていられなくなる季節の到来だった。アブラゼミは鳴き喚き、馬にはアブがまとわりつく、馬たちは尻尾を振って少しでもアブを追い払おうとするが、その間をかいくぐり、かぶりと血を吸いに来るのである。こればかりは、外で暮らす野生動物の宿命とでも言うしかない。僕らにできるのは、早めに放牧地から、厩舎に入れてやることくらいだった。


 そんな僕らの牧場に便りが届いたのは、八月も半ばを過ぎてからだった。僕は、今日も懸命に騎乗練習に励んでいた。


 小高い丘の上にある放牧地からだと、その様子がよく見えた。一台の小型バイクが、駅の方からやってきて、うちの郵便ポストに封書を入れたのである。A4サイズのやけに大きな封書だった。僕は、放牧地の入り口のすぐそばにドラを繋ぎ、ポストに手をかけた。


「僕宛か」


 自分宛の封書なんて、母親くらいしか考えられない。それにしてはずいぶんと物々しい。封書を破ると中から、四枚のチケットと短い手紙が入っていた。流れるような英語で書かれたその文字は、母屋に戻り、ソファで陽奈と談笑をしていた紫都に訳してもらうと、こう書いてあった。


『競走馬の最前線を見に来るといいのです。最高傑作を見せてやりましょう。アンジェリカ・ヴァンベリー』


「あの女ね。私はあの女の馬には乗れないの」


 手紙を読み終えた紫都はぴしゃりと言った。


「どうしてだ?」


 紫都の脇から覗き込むようにして、手紙を見ていた陽奈が顔を上げる。


「自分の言うとおりに騎手が乗らないと、気が済まない性格をしているからよ。ちょっとでも、違う

乗り方をするとすぐに首を切られる。馬の声を聞きながら、自由気ままに乗るスタイルの私にとって、そんな縛られた騎乗なんて想像するだけでも鳥肌が立つわ」


 紫都はぶるりと身体を震わせる真似をする。


「あの女も海外では騎手なんだから、日本で免許を取って自分で乗れば良いのに。やれ、服が汚れる

とか言って、自分では滅多に乗らないのよね」


「へえ」


 知らなかった。天下のアンジェリカ・ヴァンベリーは馬産家としては名を馳せていたが、よもや騎

手まで自分でこなしているなんて。


「で、このチケットはどうするんだ?」


 陽奈がチケットを摘み上げて、前後に振る。


「私はパス。競り市は馬産家が行くもの。騎手の領分じゃないわ」


「陽奈は行くぞ。だから来夢兄ぃも決定な」


「はァ? どうしてそうなるんだよ」


「だって、おっ父ぉ。競りなんて興味ないもん。自分で育てた馬しか持たない主義だって言ってたし

ぃ」


 俺には俺のやり方がある。堂々とアンジェリカの前で言ってのけた叔父さんの、自信に満ちあふれ

た表情を思い浮かべる。確かに、競り市に行こうと誘っても首は縦に振ろうとはしないだろう。


「わかった。いくか」


 僕がそう言うと、陽奈は飛び上がらんばかりに喜んだ。頬を緩ませ、黒い瞳を爛と輝かせる。


「札幌だァ。ジンギスカンでしょ。ラーメンに、雪印パーラーもある。楽しみ、楽しみぃ」


「こら、そんなとこ行かないからな。あくまで、目的は競り市だ」


「ちぇっ、来夢兄ぃのけちんぼう」


 陽奈はむくりと頬を膨らませる。その耳に紫都が、「今度私がおごってあげるから」と囁くと途端に機嫌を戻した。全く、現金な奴だ。

 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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