お別れ
ハクの尻から飛び出した二本の肢は白かった。まるで、靴下でも履いているかのよう。とにかく、早く引っ張りだしてハクを楽にさせてあげたい。でも、あまりにも出血が酷い。どうやら、仔っこが胎内で暴れたせいで、太い血管を傷つけてしまったらしい。
どうしていいか分からなかった。引っ張り出した方が良いのか、それとも、このまま安静にしていたほうがいいのか。時間ばかりが過ぎて、流れ出る血の量が多くなってくる。
やがて、大慌てで駆けてくる音が聞こえ、馬房の柵が勢いよく開け放たれると、叔父さんが真剣な面持ちで入ってくる。
「来夢ッ! 強く押さえろ」
言われるがままに、左手で傷口を押さえつけた。
叔父さんは手早くハクの出血を止める薬を準備し始めた。真っ黒に日焼けし、無骨な右手には透明の薬液が入った小瓶があった。目つきはいつも以上に険しく、些細な変化も見逃さないと言わんばかりに、しきりにハクの馬体に視線を走らせている。
もっと、強く。
僕は手に体重をかけた。止まれ、止まれ。
「私も手伝うわ」
紫都は両手を僕の手に重ねて、強く力を込めた。
それでも夕方に敷いたばかりの新しい寝藁が、どんどん血で赤く染まっていく。
「叔父さん! 早く」
焦りのあまり、声が裏返る。体重をかけた手が何度も血と汗で滑りそうになる。
「集中しろ。絶対に助けるんだ」
叔父さんは救急箱から注射器を取り出した。馬の分厚い筋肉も貫けるように作られた注射器の針は、人間が使うものよりも太くて長い。叔父さんはその注射器で薬液を吸い上げ、ハクに打った。効果はすぐに現れるはず。叔父さんはそう言ったが、出血は一向に弱まる気配を見せない。
「……駄目だ。出血が多すぎる」
「叔父さん。もっと薬を打ってよ」
僕は懇願するようにそう言ったが、眉間に皺を寄せた叔父さんは首を振った。
「無理だ。これ以上やるとハクの心臓が止まっちまう……」
「そんな……」
思わず、押さえていた手が緩んでしまった。どろりとした血はすぐに膨れあがり、指の間から溢れ
出す。慌てて、力を込め直した。ハクが死んでしまう。動揺が頭の中を掻き乱す。鼻の奥がつーんと痛くなり、のっぴきならない想いが胸の奥底から滾々と湧き上がってくる。
息子を殺してしまった罪悪感、素っ気ないハクの態度、牧柵が壊れていたことを教えてくれたこと、一緒の馬房で眠ってなんとか心を通わせようとした日々。
仲良くなって、これからだった。一緒に仔っこを育てて、仔っこが競馬場で活躍する姿を一緒に見守りたかった。右手が治れば、跨がるのは僕かもしれない。ハクには絶対に見ていて欲しかった。
「来夢。仔っこを引っ張りだせ」
「え、でも……そうしたら、ハクが……」
「いいから引っ張れ」
叔父さんの有無言わせない迫力に押されて、僕は仔っこの肢を握った。ぬるりとした生々しい感触が指先を撫でる。
このまま仔っこを引っ張り出せば、ハクが死ぬ。でも、放っておけばハクも仔っこも死ぬ。
仔っこを引っ張り出すのが最善の選択。でも、それは正しいことなのだろうか。
ハクを殺してしまうことが、本当に最善と言えるのだろうか。
そう考えると、仔っこの肢を握った両手が、凍り付いたように動かなくなった。
「どけ、来夢」
痺れを切らした叔父さんに突き飛ばされて、僕は尻餅をついた。
鈍い痛みが身体の芯を揺さぶる。涙と汗でぐちゃぐちゃになった視界がぐるりと回転する。
訳が分からなかった。
こんな唐突で、あっさりとした終わりがあるなんて理解できなかった。
僕と代わった叔父さんは仔っこの肢を掴むと、一気に引きずりだした。
ぶちっ――。
何かが千切れる音が耳を穿つ。
途端に、ハクの馬体がぶるぶると震えだし、おびただしい量の血が馬房の床や壁に飛び散った。見ていられなかった。けれども、目を背けることは……もっとできなかった。
やがて、ぬらぬらとした粘液に包まれた仔っこが、ぼとりと血だまりの中に滑り落ちた。やがてもう一頭、後を追いかけるように滑り落ちる。その毛色は血で濡れていたが、最初に出てきた方は驚いたことに耳の先から蹄まで真っ白だった。もう一頭はまるでハクと瓜二つの真っ黒な馬体を持ち合わせている。その額にはハクと同じ小さな流星があった。
「駄目だ。白いほうが息、してやがらねェッ」
叔父さんの悲痛な叫び声が馬房に響く。黒い方は甲高い鳴き声を上げて、四肢をばたつかせているが、白いほうはぐったりとして、動く気配すら見せない。
叔父さんは、くしゃくしゃに歪めた顔を躊躇いもせずに仔っこの口元へ近づけて、息を吹き込んだ。仔っこの小さな馬体が叔父さんの息で少しだけ膨らみ、数秒おいて、また息を吹き込む。やがて、けほっけほっと咳き込むような音が聞こえて、白い仔っこが生まれて初めての息を吸い込んだ。
「よし、よーし。大丈夫。大丈夫だ」
叔父さんが白い小さな馬体をぽんぽんと優しく叩いた。そのときだった。まるで、僕を呼ぶかのように「ひひーん」という弱々しい嘶きが聞こえた。
「ハクぅぅ!」
すぐさまハクの名前を呼ぶ。閉じようとしていた彼女の瞼が僅かに開いた。いつも優しげなハクの黒い瞳が何かを訴えかけるかのように、僕を見ていた。
「あとはよろしくね。来夢」
女の人の声がすぐそばで聞こえた。紫都と目が合う。紫都は私が喋ったのではないと言わんばかりに、首を横に振った。僕は勢いが弱くなり始めた血を止めるべく、更に強く押さえながら辺りを見回した。
他には、誰もいなかった。隣で叔父さんが仔っこの介抱をしているだけだった。女の人なんてどこにも……。
「あ」
僕はハクの方へ視線を戻した。彼女の瞳はいつのまにか閉じられ、嘶きも、呼吸音も、聞こえなくなっていた。
「ハク?」
今のはハクの声だ。一度も声を発したことはなかったが、絶対にそうだと思った。
「来夢……もういいぞ」
叔父さんが静かに首を振った。
ハクの馬体はまだ温かった。僕はこの温もりが大好きで、いつも馬房でごろんと寝転がるハクのお腹に頭を乗せて寝ていた。見回りにきた叔父さんには潰されても知らんぞと言われたけれど、ハクは僕が目を覚ますまでずっと、ごろんとしたまま身じろぎもせずにじっとしてくれていた。そして、僕が目を覚ますとそのぱっちりとした瞳は僕をずっと見つめていて、長い舌で僕の頬を舐めてくれた。
幸せだった。
すぐそばにいる。手を伸ばせばまだ届く。僕はハクの心臓の辺りに手をやると、動かない右手も無理矢理組み合わせて押し込んだ。
止まってしまった鼓動を呼び戻すために。
ハクのお世話をもっとしたい。もっとたくさんお話をしてみたかった。いまならば、ハクがどれだけ特別な馬だったか、よく分かった。
心臓を押し続ける。頼む。動け。動いてくれ。
「やめろ、来夢。もういい。もう、いいんだ」
叔父さんが僕の両肩に手を置いた。
「嫌だ。絶対に諦めない」
叔父さんの手を払いのけて、更に押し込む。いつの間にか血は止まっていた。
いや、止まったわけじゃない。
もう、無いのだ。
分かっていた。
それでも僕は続けた。
叔父さんはもう僕を止めなかった。汗だくになって、息が上がって、両腕が痛くなっても僕は続けた。掌の向こう側で、ハクの馬体がどんどん冷たくなっていくのが分かった。
この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。




