寝ずの番
覚悟を決めて牧場に戻ると、待っていたのは叔父さんの軽い拳骨だった。心配したんだぞと言った後、叔父さんは浅黒い顔をくしゃくしゃにして、僕をぎゅっと抱きしめてきた。どうやら、自殺しようとしたとでも思われたらしい。
全く大げさな話だった。僕はどこかの死にたがりとは違う。ちょっとした家出をしたまでだ。
まあ、その死にたがりは叔父さんに事情を話し、しばらく牧場に置いてもらうことになったらしいが……。
結局、ハクの仔っこをつぶす話はうやむやになった。叔父さんは話を持ち出そうとしないし、陽奈もその話題に触れようとしない。ただ、獣医がやってくることはなかった。僕の意図が働いたのは間違いなかった。仔っこをつぶさないことを選んだ道は正しかったのだろうか。僕はハクの馬房の前でだらりと座りこんでずっと考えていた。背中を壁に預け、蒲鉾状の馬房の窓からぼんやりと空ばかり眺めていた。今夜は恐らく徹夜になるだろう。
そう、ハクの出産が目前に迫っていた。
いつも通り、夜の見回りをしていると、苦しそうな嘶きが聞こえてきたのだ。それは何度も寝泊まりしたハクの馬房からだった。
幸いなことに、ハクは出産の兆候を見せていただけで、まだまだ時間がかかりそうだった。僕はハクのために納屋からストーヴを持ってきて、薪を入れ、火を付けた。
繁殖牝馬は仔っこを産むと、急激に体温が下がる。体力を使い果たしてしまうというのもあるし、仔っこに熱を奪われてしまうということもある。だからこうして、暖めてやるのだ。
揺らめく炎に手をかざし、膝を抱えて身体を小さくした。
うとうとと、目蓋が落ちそうになる。
大丈夫だ。まだ生まれそうにないし……ちょっとだけなら……。
「来夢!」
慌てて目を醒ましたせいか、俯いていた頭を背後の馬房の壁にしたたか打った。
その音に驚いたハクが重そうなお腹をゆっくりと揺らしながら、馬房から顔を出した。
「ッ――――痛ってぇ」
「ふふふふ。大丈夫?」
「なんだよ。紫都か」
「何よそれ、私じゃ気にくわないの?」
「いや、そうじゃなくて、ちょっとびっくりしただけ」
「寝てたでしょ」
「いやばっちり起きてたよ」
「どうだか」
紫都は、両手に乳白色のマグカップを持っていた。どうぞと言わんばかりに突き出されたそれを、僕は礼を言って受け取った。カップには黒い墨を流し込んだような珈琲が並々と注がれ、たなびくような湯気が芳しい豆の香りを振りまいていた。
「お酒のお返し。一人で飲もうと思ったんだけど、作り過ぎちゃって……」
苦いのは苦手だったが、紫都の好意を無下にすることはできず、僕は口を付けた。平常心を装っていたつもりだったが、舌を焼くような苦みに思わず顔をしかめてしまう。
すると、紫都の吹き出すような笑い声が聞こえた。
「ぶっ――ふふふ」
「な……なんだよ」
「珈琲、苦手なんでしょ」
紫都はそう言いながら、懐から銀紙に包まれた角砂糖を取り出した。
「ああ! 隠していたな」
「ふふふ……そんなことないわよ。今から出そうと思っていたの」
紫都はそう言いながら、いたずらが成功したと言わんばかりに、満足そうに微笑んだ。
僕は悪態の一つでも吐こうかと思ったが、紫都の幸せそうな笑顔を見て矛を収めた。それから、受
け取った角砂糖を珈琲に溶かし込んだ。珈琲は今まで飲んだどんな珈琲よりも甘かった。
「いつ生まれるの?」
隣に腰を下ろした紫都が、馬房を指差して訊ねる。
「まだかかるかな。下手したら、明け方になるかも」
「じゃあ来夢は徹夜ね」
「笑い事じゃないよ。眠くてさ、仕方ないし」
「だから、珈琲持ってきてあげたじゃない」
「おかげで、今はばっちり目が覚めているよ。紫都も生まれるまで付き合ってくれるの?」
「嫌よ。徹夜なんて肌に悪いし」
「徹夜で、線路に寝っ転がろうとしていたくせに……」
「何か言った?」
「別に……」
パチパチと薪が弾ける音が聞こえて、炎から零れた明かりが地面を舐める。それらは、僕らが寄り
かかる馬房の壁まで這い寄っていた。
明るいところに影ができる。髪の長いやつと、短いやつだ。影はくっついて寄り添っているように見えた。実際にはこぶし、みっつぶんくらい離れている。
それに本当にくっついたら殴られるだろう。つまりは、そんな関係。
それくらいが丁度良いのかもしれない。こんな時間が延々と続けば良いのに。そんなことをぼんやりと考えていると、奇妙な鳴き声が辺りに響いた。苦しみを孕んだ馬の嘶きだった。
「ハク?」
馬房を覗き込むと、黒味がかった赤褐色の馬体から、どす黒く濁った血液が止めどなく溢れてい
た。むっとするような生臭さが湧き上がる。蛍光灯の灯りが、はっきりと丸々膨らんだ胎を照らし出している。滴らんばかりに吹き出した汗は白く泡立ち、荒々しい呼吸に合わせて大きな胎が重そうに上下している。
股の間からは、棒きれのような二本の肢が飛び出していた。仔っこの肢だ。
「ど、どうしよう」
頭の中が真っ白だった。情けないことにがくがくと膝が笑い出す。
「何をやっているの。馬房に入りなさいよ」
事態に気づいた紫都が馬房の扉を開けて、僕の袖を引っ張った。だが、動けなかった。足はまるで根っこでも生えたかのように、頑としてその場に張り付いていた。
「バカ! 早くしないと、出血多量で死んじゃうわよ」
死んじゃう。その言葉で、魔法が解けたみたいに足が動いた。砂塵の姿が頭に浮かぶ。二の舞にだけはさせたくなかった。
「私、龍造さんを呼んでくるわね」
紫都はそう言うと、馬房を飛び出して、母屋へと駆けだした。
この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。




