ばんえい列車
しばらく黙り込んでいると、紫都は水筒に手を伸ばして水を飲みながら言った。
「うちさぁ、あんたの騎乗。いいなって思いよったんよねぇ。あんたが乗ると、馬の向かうままに、行かせるっちいうんかな。見てて、気持ちいいなっち思う乗り方なんよぉ。他の騎手はよぉ、馬と折り合いが付かんで喧嘩するんよ。それで言うことを聞かせるために、鞭でバンバン叩く。それっち、どうなんって。うちはいつも思いよったけん」
紫都の言葉を聞いているうちに、全身が熱くなった。酒のせいじゃない。雲の上を行くような天下の名騎手が自分の騎乗を褒めてくれたからだ。
だから、自分の欠点も話す気になれたのかもしれない。僕は右手をすっと前に出すと、月明かりにかざした。
「なかなか動かないんだ。落馬して、怪我は治っているはずなんだけどね」
紫都は酒で濁った瞳を僕の右手に向けた。
「そうかぁ。それは、悪いこと聞いたっちゃね」
紫都はそう言うと、急に唇を歪めてにやりと笑った。
「でも、あんた。動かんっち言いよって、まだこっそり乗る練習しよるやろ」
どきりと心臓が脈を打った。図星だった。
「なん、おもろい顔しようと? さっきうちの手、触ったのあんたやろ。それで分かったんよ。あの手は、毎日、毎日、稽古しとう手よ」
紫都は右手を口元にやって、含み笑いを浮かべた。
「ねえ、あんた」
「あんたじゃない。僕は、来夢だ」
怒るかなと思ったけれど、紫都は不服そうに唇を尖らせるだけで、名前を呼んでくれた。
「来夢。うち、またあんたの馬乗る姿見たくなった」
「どうして、僕の馬乗りなんて見たいんだよ?」
「話聞きよって、変われるかもしれんっち、思ったけん」
「変われるって、何がだよ」
「……」
紫都は答えなかった。酒の力で舌が存分に緩んでいるはずなのに、それ以上の力が彼女の中で言葉
を押し止めているように見えた。
無理に聞き出すつもりはない。言いたいときに言えばいい。
「いやー……別にいいけどさ。うーんと、条件がある」
「条件?」
「うん、死ぬの止めてほしい」
「……」
紫都は「うーん」と悩むように、視線を上げて考えこむようにしてから、小さくため息を吐いた。
「まあ、いっか」
あっさりだった。あれだけ死ぬことに思い詰め、深刻な表情を浮かべていたのに、僕と少し喋った
だけで、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、うち、もう寝るけん」
「寝る?」
「騎手は朝早いんよぉ。こんな遅い時間まで起きとぉの久々やけん。ねむねむなんよ」
紫都は細められた瞳をごしごしと擦りながら、ふわあと大あくびをした。それから、さも当たり前
のように、僕の膝の上に頭をのせて、具合のいい場所を探るかのように、後頭部を擦り付けてきた。
「お休み」
そう言い残して、数秒。気持ちよさそうな寝息を立て始めた。
あきれた女だと思った。こんなことをされては、動きたくても動けないではないか。
けれども、不思議と嫌な気分はしなかった。膝の上に乗った紫都の頭はほどよい温もりで、いつまで経っても冷たくなることはなかったからかもしれない。
秒針が時を刻み、時計が四時を指す頃には、空が白み始めてきた。星々が泳いでいた夜の海は潮が
引いていくかのように、西の空へ消えていき、大きな赤い坊主頭が山の裾野から顔をだした。
現実か、夢なのか、分からないくらいの浅い眠りを繰り返しているうちに、馬蹄の音が聞こえてきた。続いて、車輪の回る音。
眠たげなまぶたをこじ開け、そちらへ顔を向けると、遙か彼方まで続いている線路の向こうから、三頭の輓馬が疾駆してくる。
輓曳列車だ。
帯広にある輓曳競馬を引退した輓馬たちの再就職先として、最近始められた試みだった。輓馬は引退すると良い成績を残した馬以外はほとんどが肉になる。サラブレットより更に厳しい境遇に、あんまりだという馬主たちが主体となって、運行されている。羊蹄駅と最寄り駅はさほど離れておらず、輓馬の馬力だけでも列車として運行することができることから、最近では東京の方からも観光客がやって来る名物になっていた。
輓馬の図体はちょっとした小屋ほどもあり、強烈な蹴りは硬い岩をも容易に踏み砕く。表皮に張り巡らされた太い血管、はち切れんばかりに発達した筋肉、金属よりも固いと言われる頑丈な蹄を持っている。輓馬の後ろには御者台に座り、長い鞭を振るう車掌と、一両の旅客車両が繋がれていた。
輓曳列車は駅に近づくにつれて少しずつ速度を落とし、やがて僕らが足を投げ出している場所の手前にある停止線で止まった。輓馬は一仕事終えたと言わんばかりに、高らかに嘶き、馬体を振るって、汗を飛ばした。
「若いの。そんなところにいたら、危ねえぞ」
御者台から下りた車掌が、困った表情を浮かべながらそう言った。
「すみません。今、退きますので」
そうは言ったものの、気持ちよさそうな寝息を立てる紫都を起こすのは気が引けた。すると、車掌
は口元に蓄えた顎髭を撫でながら言った。
「いんや、そのままでもええよ。馬を休ませて、出発は二時間後だし。切符はあるかい?」
「いや、乗らないんです」
乗らない。きちんと決めたわけではないのに、僕はいつの間に乗らないことを選んでいた。
車掌はそんな僕らの方をじっと見やると、笑った。右の前歯が一本欠けていた。
「そうかい、そうかい。ようわからんが、そっちの方がええ。良い選択をしたな。若いの」
それから車掌は「若いねえ」と呟きながら、車両の中から桶を取りだし、輓馬の汗を流すために井戸へ水を汲みに行った。
この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。




