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プルスウルトラ  作者: 橋本利一
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逃走劇の始まり

 からりと晴れ渡る空には雲一つなかった。気温はぐんぐん上昇し、昨日まで雨が降ってぬかるんでいた地面の面影は一切ない。僕は額の汗をタオルで拭った。それから、青の騎手帽子を被り、馬が周回を続けるパドック――馬の下見所の方へと視線を送る。一頭の栗毛の馬が周回していた。厩務員が持つ引き手をぐいぐい引っ張るようにして、ウッドチップが散らばる地面を力強く踏みしめている。馬体には好調を示す銭型の斑点が浮かび上がっており、鼻筋には特徴的な白い大流星の模様があった。


「先生、乗り方はどうしましょう?」


「いつも通り、逃げや。ぱァーっと離したり」


 田舎くさい方言に、僕は隣に立つ先生――殿上調教師を見やる。四十代前半にしては若々しく見える短い茶髪に、目鼻立ちがはっきりと整っている。新聞なんかのインタビューではイケメン調教師として紹介されているのだが、口元から覗かせる歯はヤニで黄ばんでいた。


「はい」


「あんまり硬くなるんやないんよ。若いんやけ、気楽に乗ったらええんよ。遊馬くんは前に付けるのが得意やろ」


 先生は任せたと言わんばかりに、僕の肩をポンと叩いた。


「さあ、行ってきぃ」


 促されるまま、僕は鞭を片手に馬に近づいた。馬は動きを止めると、ふしゅうと荒い息を吐き、前肢で地面を掻き込む仕草をした。青地に白文字で『八 砂塵』と書かれたゼッケンは汗で馬体にべったりと張り付き、背には既に鞍が載っている。


「遊馬くん。準備できているよ。今日は調子が良いから勝てるかもしれないね」


 厩務員はそう言いつつ、力強い眼差しでこちらを見た。勝てよという圧力。僕は押しつぶされないように唇を真一文字に結んだ。


「最善を尽くします」


 僕は背を伸ばして一礼すると、鐙に足をかけて、鞍を跨いだ。視線が高くなり、周囲を見やる。パドックをぐるりと、新聞を手にした観客が囲んでいる。皆、真剣な面持ちで、馬を眺めてはああでもない、こうでもないと言い合っている。彼らの傍らには、オッズ――賭け金の倍率を示す電光掲示板があり、数字が刻々と動いている。


 僕は砂塵の首筋を軽く撫でて、厩務員に合図を出した。厩務員は頷くと、引き手を競馬場へと続く地下馬道に促していく。


「来夢兄ぃ」


 ふと、小さな体躯が、煌びやかな正装で話し込む馬主集団の中から飛び出してきた。檸檬色のワンピースに身を包み、肩口ほどの黒髪を左右に橙色のゴム紐で結わいている。従妹の陽奈だ。


「無事に、戻ってこいよ」


 あどけない声は観客のざわめきの中でも際だって聞こえた。


 僕はぐっと親指を立てて合図を送る。砂塵は牧場をやっている叔父さんの持ち馬だ。僕はまだデビューをしてから日が浅く、多くの経験を積ませてくれる貴重な存在だった。いつも、ありがとうと感謝の気持ちを伝えると、叔父さんは恥ずかしそうに頭を掻いて、「来夢は将来大仕事をやってのける騎手になるから、そのときの投資だ」と言って笑うのだ。


 勝たなければならない。勝って名を上げて、良いレースに出る。そして、賞金が欲しい。たくさんのものを与えてくれた叔父さんたちに恩返しをしたい。


「やるぞ。やるしかない」


 奮起の言葉を小さく呟く。僕は二人の方へ一度だけ手を上げると前を向いた。


 先導する誘導馬に連れられて、コンクリートの地下馬道を抜ける。ダートを横切り、青々とした芝生が生い茂るターフへと馬が脚を踏み入れる。


 ここは数々の名馬がドラマを作ってきた東京競馬場。正面には視界いっぱいに広がった人気のまばらなスタンドがあり、パドックから移動してきたらしい観客たちが、ヤジやら歓声やらを上げて、馬場の縁を区切る柵の前に陣取っている。GⅠ開催でもないので、人の入りとしては上々な方だろう。


 僕は、馬上から芝生の状態に目を凝らした。今日が東京競馬開催初日のためか、芝生は綺麗に生え揃い、抉れている箇所もほとんどない。今度は目を閉じて風を感じる。打ち付けるような強い湿った風だ。


「最後の直線で向かい風か。不利だな」


 引き手を持つ厩務員がぼやく。無理もない。逃げを打つ馬は、最後の踏ん張りが要求される東京の長い直線で、この風に晒されるのだ。僕は厩務員に愛想笑いを浮かべつつ、頭の中で練ってきた作戦を思い浮かべる。


 大逃げを打ち、馬群を大きく引き放す。小さな逃げでは他の馬の風よけになってしまうのが関の山だ。大きく逃げて、追い風の向こう正面で距離を稼ぎ、粘り込みを図る。博打のような乗り方だが、切れる脚を持たない砂塵の場合だと、鼻から着を拾いに行く競馬では結果は出せない。


 頭の中で作戦を考えていると、観客たちが一際大きな歓声を上げた。重賞戦ではない条件戦にしては珍しい。視線をそちらにやると、一頭の馬が地下馬道から出てくるところだった。


 一目で良い馬だと分かった。ピカピカに磨き上げられた鹿毛の馬体、しなやかな脚の運び、お尻の辺りはどっしりとした筋肉が付いており、よく仕上がっていた。今日のレースの一番人気、『琥珀』だ。デビューこそ遅れたものの、新馬戦を十馬身ほどぶっちぎりって勝ち上がり、今日が二戦目。ここは通過点と言われていた。


 騎手は同世代の女の子だった。豪腕がものを言う男社会ではとても珍しい。女の子は先生の娘さんだ。先生にとっても、やはり向こうが本命なのだろう。僕には最初に声をかけたきりで、寄りつきもせず、ずっと女の子と琥珀のそばにいる。


 その姿を見ながら、僕は唇を噛んだ。結果が欲しいと思った。砂塵だって悪い馬じゃない。新馬の頃から乗っているが、粘りのある良い脚を持っている。最近は惜しいレースが続いているが、しっかりと策を練ってきた今日は万全。勝ち上がれば、格のある重賞レースを使えるようになるだろう。そうすれば、新聞にも大きく名前が載り、もっと多くの人に僕の名前も売り込めるはずだ。


 手綱にぐっと力が入る。すると、緊張が馬にも伝わったのか、太ももでがっちりと抑えこんでいる腹袋が強ばった。慌てて首筋を撫でて、宥めすかす。焦りは禁物だ。


「もっと肩の力を抜けばいいのに」


 ころんとした鈴の音のような声が聞こえた。振り向くと、女の子が僕のそばで馬を止めてこちらを見ていた。名前は殿上紫都。いつの間にか近くに寄ってきていたらしい。彼女は有力馬主の派手な勝負服に身を包み、白色の騎手帽子と、ゴーグルをかけていた。


 紫都はきらりと光るゴーグルの向こうから、まるでこちらを値踏みするかのような鋭い視線を向けてきた。


「逃げるんでしょう?」


「え?」


「お父さんからそういう指示がでているんでしょ」


「はい、そういう指示をもらっています」


 相手は、僕が稼ぐ賞金なんぞ端金程度の上位の騎手だ。格が上ならば、年齢が同じでも敬語を使わなければならない。


「じゃあ、飛ばしすぎないで、私の風よけになりなさい」


 同じ厩舎の馬が有力馬の前を走り、ペースメーカー兼、風よけになるラビットという役割だ。


 紫都は何もかもお見通しと言わんばかりに、自信たっぷりに言った。余計なお世話だと思った。ペースは僕が決める。勝つ騎乗をするつもりだった。


 僕は視線を戻すと、紫都はこちらを観察するように目を細めていた。


「ふん、生意気ね」


 僕が口を開く前に、紫都は吐き捨てるように言った。それから、馬の首筋を一撫でしてゲートの方へと促していく。


 ぎりりと奥歯を噛んだ。あの態度は何様だ。僕はあいつのラビットにはならない。今日は勝ちに来たのだ。何が何でも逃げ切ってみせる。あいつの鼻を明かしてやる。そんな思いがいつの間にか僕の心を頑なにしていった。


 誘導員の指示に従って、ゲートに入る。砂塵の八番は内よりの位置だ。開催初日のために馬場が荒れてない最内が最も有利な枠ではあるが、スタートの得意な砂塵には関係がない。要は、誰よりも早くゲートを出て、最内に付ければ良い。


「全馬入りましたァァ!」


 誘導員が声を張り上げ、ゲートを操作する係に合図を送る。競馬は目の前のゲートが開くと、スタートが切られる。前兆はゲートが開く機械音。観客の歓声を排除して、その音だけを探り出す。


 ここが大事なのだ。大逃げを打つにはスタートが肝心要。一瞬を見逃してはならない。大事なのはゲートが開く前にぶつかる覚悟で馬を前に押し出すこと。


 ――――がちゃり。


 歯車が噛み合い、回る音が聞こえるや否や、僕は砂塵の横腹を踵でぐいっと押し、手綱を促した。砂塵が俊敏に反応し、駆け出す寸前でゲートが開く。


「スタートしましたァッ! おっと八番、砂塵。好スタートッ!」


 目論見通り、他の馬をスタートで一馬身ほど引き離した。砂塵は出足の良い馬であり、スタートが得意な僕とは手が合っている。吹き付ける風を切り裂き、僕と砂塵の逃走劇が始まった。


 この物語は『インフルエンサーノベリスト』橋本利一の提供によってお届けしております。インフルエンサーノベリストとは自分に影響力を与える物語を自分で書く、影響力は伝播するからきっとあなたにも届くはずをキャッチフレーズとして執筆活動を発信する小説家という意味です。

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