ホームズやポアロ≦
「確かここにあったと思ったけど」
戸棚を漁るも、目的のものは見つからない。それを最後に見たのは先週くらいのことだったと思うが。まあ、なくて困ることはないのだが。
「にーーーちゃーーーん」
妹の声が聞こえる。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
これは何かを探している時の呼び方だ。彼女はそそっかしいというかいい加減というか、よく物を失くす人間である。何かを探すことに費やす時間を考えると、ちゃんと片付ける方が絶対に時間効率がいいはずなのに、それを学ばない。学ばないというか気づかない。
考えてみると、もしや失くしたことにすら気づかないままになっている失せ物さえありそうだが。さておき今日は何を探しているのか。
「ハンチングなら頭にかぶってるぞ?」
「? 知ってるけど」
「そうか」
服は寝間着。でも頭にはハンチング。意味が分からない。可能性としては、今日この後で外出するから、それを先にかぶっているのか。そして今日のファッションに欠かせない何か、例えばアクセサリーを探していると考えられる。この仮説はいい線いってそうな気がするが、彼女が本当に何かを探しているのかが不確定なのが論理の穴だ。
さておき彼女の用件を聞こうじゃないか。
「兄ちゃん、事件知らない?」
「さて、風呂場か玄関か……事件!? 事件って何!?」
「ほら、私って探偵でしょ?」
「初耳だけど!?」
「言わなくても知ってると思ってた。なぜなら私の知性は隠したところで溢れ出してしまう、まるで夕飯のカレーライスのようなものだから」
「うちのカレーライスが溢れ出してきてるとこなんて見たことないけど」
ついでに言うと隠されているところも見たことない。
「要は私が知的であるといいたいの! 知的でしょ?」
こいつが、知的……?
「…………知的かどうかはさておき、その理屈だと知的な人間はみんな探偵だってことになるぜ?」
「知的でない探偵なんていないじゃん。まだまだだね、兄ちゃ…ワトソン君」
「『探偵が知的である』ことが真だとしても、その逆は『知的なら探偵である』わけじゃない」
「どういう意味? 全然わかんない。小難しく生きるのはやめよう?」
知的が聞いて呆れるぜ。
それより気になったフレーズがある。俺を「ワトソン君」と呼んだことだ。
一見して意味のないハンチング。そして唐突に事件がないかと俺に訊ねた。さらには「ワトソン君」ときた。謎は解けた。
彼女は昨日見た探偵モノの映画に影響されている! QED!
「事件というか、行方の分からない物があるんだけど」
「そういうの自分で探して。私が求めているのは密室殺人クラスの事件だから」
「選り好みすんなよ探偵! ……というか殺人なんてそうそう起こるもんでもないだろ」
「それは見つけようとしないからじゃないかな。目を凝らして探してみれば、意外にも身近にあるものかもしれないよ?」
「小さな幸せを見つけよう、みたいに言われても」
探したらそこいらで殺人が起きているなんて怖いよ。もう引っ越すよこの町。
「家の中に大きな事件なんて起こりっこないぜ。外にでも出て探してみたら?」
「えー。それじゃまるで事件を求めて歩き回ってるヤバイ人みたいじゃない。嫌だ」
「嫌も何も。まったくそのとおりだから仕方ないだろ」
「兄ちゃ…ワトソン君が探してきてよ。助手として」
「それだと俺が事件を探して徘徊するヤバイ人だ」
しかもやっぱり俺は助手だったのか。なんとなく気づいてはいたものの。
「ところで兄ちゃん、私、事件のほかにも探しているものがあるんだけど」
「お前もかよ。で、何を探してんだ?」
「この間買ったメガネなんだけど」
「メガネ? お前、メガネいらないだろ」
「違うの。ダテのやつだよ、おしゃれ用の」
「いや、見たことないけど」
「ののちゃんと一緒に買って、ちゃんと片付けておいたのに」
買ったのに失くすとは。意味がない。
「ちゃんと片付けてたならあるはずだろ。俺は見てないぞ。それより、俺がいつも使ってるマグ知らないか?」
「知らないよー。あー、メガネどこ行ったんだろ」
彼女は嘘をつくような性格ではない。それだけは確かだ。それなら知らないのだろう。
「もしかしたらお母さんが使ってるのかも! お母さんは?」
「ああ、いないよ」
「そうなの? 事件の香りがするね」
「香っちゃった!? 一体どこから!?」
「だってこれは誘拐事件だよ。さりとて誘拐事件だよ、これは」
「なんで二回言ったんだ……普通に出かけただけだろ。書置きもあったし」
俺はテーブルに置かれていたメモ紙を彼女に見せた。すると彼女に激怒される結果を招いた。
「バカ! 証拠品に素手で触るやつがあるか、このスカポンタン! 貸しなさい」
「やっぱりお前は素手で持つのかよ。やるとは思ったけど」
「これは……ダイイングメッセージ!」
「違うわ! 強いて言うならダイニングメッセージだよ!」
ちなみにその内容は「夕方には戻ります。母」というものだった。これがダイイングメッセージだとしたら、うちの母は黄泉の国から現世に帰ってくることになる。地獄旅行なんて、ゲゲゲの鬼太郎じゃあるまいし。
「にぃ…ワトソン君、これは事件だよ」
「俺には事件性ゼロに見えるけど」
「まだまだだね。ここにおかしな点があることに気づかないの?」
「おかしな点?」
彼女はこれ見よがしにその文面を俺に向けて、指を立てて説明を始めた。
「この手紙には肝心な『なにが』戻るのかが書かれていないのさ!」
「常識的に考えてお母さんだと思うけど」
「最後の『母』というのも、いったい誰の母なのかが書かれていない」
「常識的に考えて俺たちの母だと思うけど」
「極めつけにどこに行ったのかも書かれていない!」
「書くほどでもない用事なんだろうね!」
なんだろう、彼女の指摘は確かにその通りなのだ。事実としてはそうなのだが、だからといってどうということはない気がしている。そんな俺を置いてけぼりにして、彼女の推理ショーは続く。
「これらを統合すると……こうなるね?」
彼女の推理が始まった。
夫のための女になって、そして人の親になって。それまで日々を駆け抜けてきたのに、今では日々の方が駆け抜けている。ふと、そんな気がする時が彼女にはあった。
不満なんてないはずだ。旦那は少し怠け者だが優しい人だし、その家族も自分をちゃんと認めてくれている。彼の稼ぎで子ども二人を育てるにはやりくりが必要だが、たまに旅行に行くことくらいはできる。子どもたちは体こそ大きくなっても、やっぱり子どもだ。
充実しているはずだ。毎日やることは多いし、日々には小さな喜びが隠されている。だから充実しているはずなのだが……。
「…………」
立ち止まると心に吹く風。じわりと冷たい、夜のような風。それを言葉にできないままに、幾年かが経った。眠れぬ我が子を抱いて、眠れぬ夜が続いた時とも違う。ふと鏡を見て、肌に老いを感じた時とも違う。
それを言葉にできないままに、幾年かが。
「…………」
例えばひとり、里帰りで乗った新幹線で過ごした夜に。あるいは夫も子どもたちもいない、静かな夜に。もしくは「今年も」「いや今年は」と思うも、夫が自分の誕生日を祝ってくれなかった夜に。
「…………さみしい」
気づいてしまうと、もうダメだった。
一緒にいる家族がとても、手を伸ばしても届かないように遠くにいるように感じられた。いつも通りにしているはずなのに、なぜかそれがよそよそしくて、気持ち悪くて。
そんな時だった。
中学生の時の同級生に会った。陸上部だった男の子で、今は外資系の会社で働いているとか。陸上のウェアばかり着ていた当時の雰囲気とは変わって、スーツがよく似合う紳士的な男性になっていた。
同窓会の後、二次会は彼を追いかけた。話を聞くと、付き合っている女性はいないそうだ。高校の時に留学を経験し、大学は名門大学に通った。その時にインターンや、時には商社の社長との対談などもして、それでレポートを書いたりしていたそうだ。
なるほど、世の中にはそんな人もいるのか。
彼への好奇心を止めることができるものなどなかった。
「君の家まで送るよ」
タクシーに乗り込んでも、会話は途切れなかった。ところが自宅が近づくと、妙に口が重くなり始めた。
「ほら、そろそろ君の家だよ」
「……ねぇ、もう少し一緒にいさせて?」
「駄目だよ、君には家庭があるんだろ」
彼の腕に手を伸ばし、そして言った。
「もう少し、いさせて?」
不思議なものだった。月に二回くらい彼に会うだけで、心が軽い。毎日が充実して、輝きを取り戻した。こんなことは良くないと思う時もあったが、彼に会うのをやめようとは思わなかった。そうすることに何のメリットも感じなかった。
彼の方も、渇きを癒すように自分を求めてくる。久しい感覚。自分を求めてくれる。自分のために尽くしてくれる。自分と一緒にいることを喜び、そのために気を使ってくれている。自分が一緒にいることで、相手が満足している。
心に顔があったなら、きっと恍惚の表情をしていただろう。
「最近なんだか、出かけることが多くなったな」
ある休日、夫がそう言った。
「ピラティス始めたの。言ってなかったかしら?」
これは用意していた言い訳だ。
「初めて聞いたな。月謝とかはどうしてるんだ」
「趣味の集まりみたいなものだから、お金はかかってないわ」
「そうか。まあ、好きにするといい」
てっきり、子どもたちの面倒をちゃんと見ろとか、文句の一つでも出るかと思っていた。尤も、家庭に不手際を残すようなヘマはしないが。
子どもたちもだいぶ大きくなって、手がかからなくなってきたというのも、自身の余裕に一役買っていると思う。そう、子どもたちもだんだん、自分の手を離れていく。
「…………」
そう考え始めた時、先の夫の言葉が耳に残った。きっと意図としては、自分のやりたいことをすればいいと思いやってくれたのだろうが、まるで突き放すような温度に感じた。
しかし今夜も彼に会いに行く。お洒落して、電車に乗って、いつもの場所へ。
ちょっと早い時間にディナーして、彼のマンションで二人の時間を過ごす。それがこの日のデートプランだった。
「ん?」
それに気が付いたのは、マンションに向かうタクシーの中でのことだった。
『妹が風邪ひいた』
息子からのメッセージが入っていた。送信された時間を見ると自分が食事をしている頃だった。
「どうかしたの?」
「え、う、なんでもない」
きっと優しい彼は、娘が風邪をひいたと知れば引き下がるだろう。それを考えた時、彼女は彼の方を選んだ。後ろ髪をひかれつつも。
「ただいまー……」
小さな声で、暗い家に入っていく。帰り着いたのはもう夜も遅くのことだった。足音は立てないつもりだったが、息子が顔をのぞかせた。
「おかえり」
電気もつけず、すぐに姿を消した。怒っているだろうか、失望しているだろうか。短い声からではわからなかった。
娘の部屋に行くと、寝込んでいる彼女がいた。近づいてみると、枕元にコップや体温計が置かれているようだった。
眠っているのだろうか。そっと彼女の額に触れてみると、少し熱い。
「熱はまだあるみたいだけど、少しは楽になったって」
後ろから息子が入ってきた。その手には氷枕を持っている。彼が近づくと、娘は頭をよけ、枕を交換してもらった。
「平気か? 飲み物は?」
「うん。だいじょーぶ」
いつも元気な彼女の声が弱々しい。
「……おかあさん?」
呼ばれたが、咄嗟に相槌が打てなかった。代わりに顔を近づけた。すると娘が手を伸ばし、手を握ってきた。
「ちょっとだけ、こうしてて」
言われるままにしていると、彼女は安らいだように眠り始めた。手を少し握っただけで、繭にでも包まれたような顔をするのだった。
「お母さん。もう少しそうしててやってくれよ。洗濯とかは終わってるから、お風呂入ったら休んでくれていいから」
息子が労わってくれた。今までは自分が妹の風邪の具合を見ていただろうに、家事まで終わらせてくれていて、そのうえで母を気遣うのだった。
不意に涙が溢れてきた。
それが渇いた時、彼女の決意が固まった。
『夕方には戻ります。母』
前回の逢瀬から二週間後。
置手紙を残し、彼女は家を後にした。
今日はテーマパークで遊んだ。まるで学生時代にでも戻ったかのような気持ちで、彼と腕を組んで歩いた。絶叫マシンを楽しんだ。お化け屋敷で絶叫した。キャラクターと写真も撮った。観覧車の天辺でキスもした。
日が傾きだす頃に夢の国を出て、海辺のカフェテラスで歓談に入った。橙に煌めく水面が、暮れゆく恋の色のようだった。
「話があるんだ」
珍しく彼が、緊張した面持ちで切り出してきた。
「うん。わたしもお話があるの。でも先にいいよ」
「俺、今の会社をやめて、起業しようと思うんだ」
素直に驚いた。仕事ぶりは優秀ぶりで、このまま出世の目もあると聞いていたのだが。
「今の会社でも、上は目指せると思う。けど、俺は自分の会社をもって、自分のやり方でやりたいんだ」
「そう、なんだ」
「それで、実は留学の時にできた友達と、アメリカで起業しようって話してて……それで……一緒に、来てくれませんか」
彼の精いっぱいの告白だったのだろう。思えばどちらからともなく付き合い始めていたから、改めて、ということになろうか。
ほとんどプロポーズだ。
でも。
「どうかな。お返事はすぐじゃなくても……」
「あのね、私からのお話っていうのはね。……終わりにしましょう、私たちの関係」
「えっ?」
「私はやっぱりあの人の妻で、子どもたちの母親で、いつまでもあなたと一緒にはいられないよ……だから、ごめんなさい」
ふっと力を抜いたように笑う彼女を見て、彼はその言葉に嘘はないと知る。
「で、でも。俺は君がいないとダメなんだ。だから、どうか一緒に……」
「ううん。そんなことない。あなたは私がいなくても大丈夫だよ。ね?」
その時間は、彼が現実を受け入れるまでの時間だった。
「君を拐おうと思ったけど、やっぱりダメなんだね」
「うん」
まるで引導を求めるかのようだった。彼女の意思は変わらない。それが決定づけられた。
「私ね、置いてきたの。『夕方には戻ります』って書いて」
「?」
「だから、そろそろ」
海の向こうの夕日は、もう半分以上が沈んでいた。暮れの色に染まる彼女の笑みは、それはまるで……。
「戻らないと。あの子たちのお母さんに」
憂いも悲しみも、恋も喜びも。叶わないワガママも責任も。そういったものを全部引き受けて、そして子どもたちを包み込める。そんな愛情を湛えた「母」の表情だった。
子どもたちは大きくなっても、やっぱり子どもたちだから。だから彼女は「母」だった。
「――ということになるね?」
「ならないよ! ならないけどむしろそうなってほしいと思ったよ!」
俺ちゃんと親孝行しようと思った。なんというか、こいつの回想シーンの俺はすげーイケメンだったんだけど。身につまされる思いがしたんだけど。
「俺、美化されすぎて現実が負けてたんだけど」
「そうかなぁ。私にとっては兄ちゃんって、あれくらい優しくて頼れるかっこいいお兄ちゃんだけど」
「えぇー? 嬉しいこと言うなぁ……今度なんか奢ってやるよ」
「ほんと!? やっほい!」
彼女の中の俺が三割増しくらいで美化されているのは何故だろうかと思案すると、まさかこういう餌付けが効いているのではないかという考えに至った。そうだとしたらちょろすぎる話だが。
「さて、誘拐事件をひとつ解決したところで、次の事件に行こうか」
「え、解決したのか今の」
「事件は待ってはくれないよ」
「待て待て待て。お前が待て。矛盾している点がいくつか見受けられたが?」
「どこだというんだい、ワト……にいちゃ……ワトソン君」
「名前分からなくなってきてるじゃねーか!」
「そんなことはいいの! それより私の推理の矛盾点ってどこなのさ! 証拠はあるの、証拠は!?」
「なんで急に犯人みたいになるんだよ。いいか、まず一つに、うちのお母さんはここ最近で同窓会に行ってない」
「お忍びだったんだよ」
「そして次に、ここ最近でお母さんは定期的に遅く帰ったようなことがない」
「気づかなかったんだよ、私たちを欺いていたんだ」
「そして最後に、これが一番大きな矛盾なんだが」
「ごくり」
「お前は風邪をひいていない」
「がーん!」
今のはどういう感情で出た「がーん」なのだろう。というか口で言うやついるんだな。初めて見た。
崩れ落ちた彼女は、ちらっと俺の方を見ると「げほげほ」とこれ見よがしに咳をし始めた。
「これは風邪っぽい。これは風邪っぽいや。まさに風邪の時のナウシカだよね」
「そんなシーンなかった」
「ぐぬぬ。でも犯人は現場に戻ってくるもん!」
「そりゃ戻るだろうね! 夕方には戻るって書いてあるもん!」
「ていうか私の推理が間違っているというなら、君の推理を聞かせてもらおうかワト兄ちゃん」
「混ぜてきやがった! いいだろう、聞かせてやるよ。俺の推理をな!」
俺の推理が始まる。
この世界のすべては均衡の上に成り立っている。遠心力と重力が均衡して、惑星は回る。晴れの日と雨の日が均衡して、作物が育つ。昼と夜が均衡して、日々になる。権利と義務が均衡して、規範になる。生と死が均衡して、人は儚い生き物になる。
そして、温度と速度が均衡して、アイロンはシャツのしわを伸ばすことができる。
「ふんふーん、ふふっ、いい感じね」
今日は天候がいい。シャツの乾き具合がナイスなら、アイロンがけもグッドなのだった。きっとかけ終わるころにはグレートなシャツが出来上がるだろう。そして明日それを着て仕事に出かける亭主はアメイジングにかっこよく決まることだろう。
「……む?」
体内に埋め込まれたナノマシンが、警報の着信を告げた。応答モードにすると、上官からの声がした。
「コードイエローだ、ラスタ。ポイントKS-153に向かってくれ」
「せっかくのアイロン日和なのに。了解」
彼女はアイロンがけを中断し、立ち上がった。
この世界は均衡の上に成り立っている。
正義と悪が均衡して、人々は平和を生きる。
悪の秘密結社「ネストオブヴィラン」は、高層ビルの日陰で今日も勢力の拡大を目指す。ひいては社会を牛耳るために。
それに対して、政府の非公式特殊部隊「N.I.T.E(Necessary Interigense Tecnic for Expert)」もまた、人知れず目標のために戦う。
この世界を守るため。
その組織の全容を知る者はいるのかいないのか、それすらも不明確。彼女もその組織に属していながら、他に誰が所属しているのかを数人しか知らない。その知っている数人というのも、エージェントとしての側面を知っているだけで、普段どこに住み、どんなことをして暮らしているのかは知らない。
ただ、戦い方なら知っている。自分が誰かも知っている。表の顔は家庭を守る二児の母、そして裏の顔は世界を守るN.I.T.Eのエージェント、コードネーム「ラスタ」なのである。
「変身!」
胸元のペンダントを少しひねり、そして押し込む。するとそこから黒い繊維が身体を這い、それが細かく分裂してやがて体を覆うバトルスーツとなる。自室に隠しているスーツケースを開くと、そこには多量の武器が仕舞われている。二か所に手のアイコンがあり、そこに手を重ねると、その装備がスーツに装着される。
最後にヘッドアップディスプレイになっているグラスをかける。これで戦闘の準備は整った。
「おっと、忘れてた」
彼女はそのまま部屋を出ると、まだ眠りについている子どもたちの部屋のドアをそっと開けた。安らかに眠る子どもたちを見て、今日も自分が守るべきものを確認した。
そして台所へ行き、メモを残した。
『夕方には戻ります。母』
家の床下からつながる通路で、空へと飛び出す。脇の下や背中に小さな帆があり、スーツは空を滑るグライダーになる。
今日の夕飯の献立のことを考えながら、彼女は今日の戦地へと翔けた。その途中で仲間と合流し、軽い挨拶を交わす。
「今日の献立、なにがいいかしら」
「たまには外食でもしてみたらどう?」
「でも、今月も厳しいのよね」
敵の存在を確認すると、銃に手をかける。
「それならお豆腐料理なんてどう? 駅前のスーパーで安くなっていたわ」
「そうなの? それじゃあ――」
敵がこちらに気づいた。敵より早くトリガーを引く。迷いはない。心は決めているのだ。
「今日はお豆腐ハンバーグにしましょ」
品切れにならないうちに、カタをつけようと気合を入れなおす。
子どもたちに美味しいご飯を作らなくては。なぜなら彼女は世界を守るエージェントであっても、やっぱり母だから。
「――とまあ、こんなところが妥当だろう」
「妥当……なのかな、それ」
「妥当も妥当、大妥当だろう」
「ていうかそれ、推理じゃなくて妄想じゃん! ワト兄ちゃんは推理をわかってない!」
「お前がそれ言う!?」
「これじゃあ万年助手だね」
「カレーライス並みの知性のくせに」
「なんてこと言う!」
「お前こそ!」
いがみ合っていると、玄関の戸が開いた音がした。
「これ、お母さんなんじゃない?」
「たぶんそうだな」
なんとなく母の帰りは分かる。これは子どものころからだ。俺と妹で玄関まで出迎えてみる。
「ただいまー。ふぅ、荷物重い」
俺たちで荷物をリビングへ運ぶと、妹が質問を投げかける。
「お母さん、どこ行ってたの? 逢引?」
「合い挽き肉なんて買ってきてないわよ?」
「むぅ。私の推理は外れみたい」
今度は俺の番だ。
「ご苦労様。今日も世界を救ってきたんでしょ? まあ、何も言わなくていいぜ。秘密結社だもんね」
「え、ええ? うん」
「あ、これは俺も違うっぽい」
訳が分からないよって顔をされた。
「それで、母さんはどこ行ってたの?」
「待って! もう一度、もう一度推理させて! チャンスを!」
妹が粘った。泣きの一回というやつだ。
「なあに、推理って。探偵ごっこでもやってたの?」
「まあ、そんなとこ」
「ふーん。それであたしがどこに行っていたかを推理していた、と」
「完全にそんなとこ」
「それじゃあ教えてあげる」
「待って、待ってってば!」
妹が制止するが、母の答え合わせは中断されない。
「そう、あたしは一人でデパートに向かったの」
「待ってよおおおお!」
母の答え合わせが始まった。
目的のビルは駅から徒歩五分。休日とあって、かなり人が多い。休日でなかったら人が少ないのかというと、そんなこともないが。
自動ドアをくぐると、煌びやかな空間が彼女を出迎えた。
高級なお店。宝石や時計を扱うテナントが集まっている。駅から直結したルートで入ってきたが、ここはそういうエリアのようだ。
「あら、素敵」
思わず目を奪われるが、とても手の届く値段ではない。これを手にするには宝くじを当てるか、旦那を乗り換えないことにはまず無理だろう。
「そんな勇気はないけどね」
今の生活に不満などない。全くないかというとそれは嘘になるが、人生リセットするほどではない。それにここに飾られている本物なんて、持たなくてもいい。例えイミテーションでも身に着ける人間が本物ならば、それに見合った輝きを放つのだ。とか思ってみる。
それよりも目的の場所へ行こう。今日は自分へのご褒美にと思って、こっそりと評判のスウィーツを食べに来たのだ。でも食べて終わりというのも寂しいから、やっぱり気になるお店はチェックしておく。
ここにあるものは何もかもが輝いている。今使っているバッグもそういえばだいぶ古いものになる。いつだったか、旦那が結婚記念日に買ってくれたものだった。なんとなくずっと使っているが、別に捨てようと思えばいつでも捨てられる。これといってピンとくるものと出会うことがなく、そのまま使っているだけで。
上品なものに、可愛らしいもの。はてさて、今の自分に似合うのはどんな一品だろうか。眺めながら歩いて、手に取ってみたりもするが、買うほどでもないかと元に戻す。同じように靴や服も冷やかして通ってみると、いい感じにお腹も空いてきた。そろそろ目的のお店に行ってみようかなと思っていると、ふと、思い出した。
「そういえば……」
子どもたちの次のシーズンの服がなかった気がする。兄の方は育ち盛りだし、妹の方はあまり背が伸びないが、それでも同じ服をずっと着られるような具合でもない。服というと、旦那もそうだが、靴下がよれてきていたっけか。同じ時期にまとめて買うものだから、だいたい同じ時期に傷みが出始める。
男たちはそういうのを自分からは言わない。パンツにしろ靴下にしろ穴があくまで穿くつもりでいるようだが、あれはどういう神経なのだろう。「そろそろ変えたら?」と言うと「まだ穿ける」とか言うが、穿けるかどうかなんか訊いちゃいないのに。そもそもどうして穿けるか否かの瀬戸際まで穿く必要あるのか。
妹の方はある程度のところで使うのをやめるからまだいいが、勝手に捨てて勝手に衣服を失っていき、果てに困るまで何も言わない。ある日突如として「靴下がない」とか言い出すのだ。バカすぎる。みんなしてバカすぎる。自分がいなくなったらどうするつもりなのか、一家のお母さんというのはほとほと悩みの尽きないものだ。
困らせるわけにいかないから買ってはいくのだが。
「むむむ? これは!」
店頭にあったパーカー。それが目についた。頭の中でそれを妹の方に着せてみる。うん、いい感じだ。買っておこう。ついでに靴下も。キャラものだったり柄物だったり、選んでいて子どもっぽいとは思うのだが、それを着ている姿を想像すると不思議と似合う気がしてならない。他にもよさそうなのがいくらかあったので、それも合わせて買っていった。
そして次は兄の方の服だ。なんとなく最近のマイブームはシャツにベストとか、そういうカジュアルでフォーマルなスタイルのようだ。男心はいつまでもわからないものだが、服のこともまたよくわからない。なんとなく失敗してもいいかなという金額でよさそうなのがあれば買うが。
「およよ!? これは!」
ラックにかけられていたセット物。黒いシャツに白いネクタイ。そして値札にはシールが貼られている。これは買いだ。
次には旦那のワイシャツ。つい後回しにしてしまうが、そろそろ一着分だけでもローテーションさせた方がいいだろう。黄ばみが落ちないし、端々にほつれや傷みがでている。別にそれでもいいかなぁ……とも思ってしまうのだが、せっかくだから買っておこう。そういえばネットとかで買う方が安かったりするのだろうか。
「あいや!? これは!」
一着で九八〇円で、しかも二着目は半額! 二着買っておこう。安く買えた。いい買い物だった。安くても着ている人間が本物なら、それに見合った輝きを放つかも。とか思ってみる。
だいぶ袋の数が増えてきたが、さて、スウィーツだ。疲れてもいるから休みたい。甘いものが食べたい。
「あああ!? これは!」
その途中で遭遇したのは、ワゴンだった。中身は靴下。千載一遇とはこのこと。五足で千円。十足買っても二千円。男たちはなぜか靴下の消耗が激しいので、ここでいっぱい買っておこう。体重の違いなのだろうか。
そういえば高齢化の進む日本の福祉の構図で、支えられる高齢者一人当たりを支える若い世代が、年々減っていくみたいな絵を見たことがある。だからどうしたということもなく、思い出しただけだ。
「あ…………」
さっきの靴下を買ったときに気づいたが、現金の持ち合わせがあまりない。でもキャッシュカードを持ってきているのでお金を卸すことはできる。
……はずだった。
『ATM休止中 ご迷惑をおかけしております』
オーマイキャッシュディスペンサー……。
「いや、でも、スイカの残高がまだ三千円くらいはあったはず」
電車に乗れなくなると困るので、あまりあてにばかりもしないが、今日ばかりは仕方あるまい。かさばる重い袋を手に提げ、目的のお店の前まで歩く。
やはりというかなんというか、お店の前に用意された椅子には人がいた。待ち人数を見てみると、六組だった。多いのか少ないのか。たぶん少ないのだろう。
そこでレジを見た。もしやと思って確認してみたのだ。
「あ…………」
まさかの案の定だった。そこには電子マネーに対応していないらしいことが書かれていた。今どき電子マネー使えないお店ってどうよ。もしも自分がチンピラだったら店員に絡んでた。「こちとらスウィーツを食べてスイカで払いたいんじゃ」とか言って。
帰ろう。
駅まで向かう途中、ふと頭をよぎったものがあった。もう疲れているし、スウィーツも食べ損なった。でもなぜか、それが必要な気がした。
結局それも買ってから、駅まで向かった。
「……と、これが真相よ」
「あ、普通だ」
「うん、普通だったね」
思った以上に普通だった。なんてことのない一日だった。
「ん? てことは俺たちのために服を買ってきたの?」
「そうよ。ほら、これなんかどうよ?」
母が袋の一つを開くと、そこから白いパーカーが出てきた。パーカーというと、妹のためのものだったっけか。
「手触りいいわよー。それにほら、この背中にね」
それを広げると、背中に「妹」と書かれている。
「これはまさに私のために作られたようなパーカー! こんなの欲しかった!」
ようよう気に入ったらしい。
「いっそ私の本名までもが『妹』であればと思うくらいだよ」
「それはない」
妹の本名が『妹』でなかったことに感謝したいところだ。
「お兄ちゃんのはこれね」
なるほど洒落ている。それに体に当ててみると、サイズもぴったり。でもなんで、俺がこういうのが欲しいってわかったのだろう。口に出した覚えはないのだが。
「気に入ったみたいね。よかったわぁ。前に一緒に出掛けた時、そういうの欲しそうにしてたもの」
「え? そうだった?」
「欲しそうにしてたわよ。誰が見ても」
そうだった、のか?
「兄ちゃん、これってあれだよ」
「あれって?」
「些細な視線の動きや、タイミング、それから何気ない会話の中から思考を読み取られていたんだよ。メンタリズムだよ」
「なんだって……?」
母さんはメンタリストだった!? 妹はそんなメンタリストに質問を投げかけていた。
「お母さん、メガネは?」
「は? メガネ?」
「うん。私のメガネがないの。てっきりお母さんがかけていったのかと思ったけど」
「かけないわよ。……脱衣所にあるんじゃないかしら」
「そうなの……?」
すると妹が風呂場の方に駆けていった。少しして戻ってきた彼女の顔には、メガネがかけられていた。レンズのない、おしゃれ用の伊達メガネが。
「お母さん、お風呂場にあるの知ってたの?」
「ううん、知らなかったわ。でもあなたは時計とかイヤリングとか、そういう小物を脱衣所に置いてそのままにする癖があるから、もしやと思って」
「な、なるほど」
「それにお兄ちゃんの方は、そういう小物が置いてあってもその上に服とか脱いだやつを置いたりするから、なおのこと見つからなかったのかも」
「確かに兄ちゃんの寝間着の下にあった! なんて推理だ、まるでホームズかポアロ!」
見てもいないのに場所をぴたりとあてるなんて。これは俺も驚いた。驚きついでに、俺の方も訊いてみようか。
「じゃあ母さん、俺のマグ知らない?」
「あれならもうないわよ。そこのメガネっ子さんがこの間割っちゃってたもの」
「なんだと!?」
犯人は現場に戻ってきていた!
「でもお前、知らないって言ってたよな?」
「知らないよ。確かにマグは割ったけど、兄ちゃんのマグなんて……」
「水色のマグは俺のなんだが」
「じゃあ私が割ったやつが兄ちゃんのだったみたい。ごめん!」
「……ああ、いいよ。怪我はなかったか?」
「私は超平気」
まさか自分が割ったマグが俺のだと気づいていなかったとは。いつも使ってたのに、それを気にもしてなかったようだ。
「そんなことだろうと思って、買って来たわよ。新しいマグ」
「本当に!?」
母さんが箱から取り出したのは、なるほど確かに、新しいマグだ。前と同じく水色を基調として、犬のシルエットが描かれている。サイズ感もちょうどいい。これはいいマグだ。
「ありがとう母さん! 今度は割られないように気を付けるよ」
「気を付けようない気がするけど、まあ、使ってちょうだい」
俺が新品を手に喜んでいると、そこに非難の声が上がった。
「ずるい! 兄ちゃんばっかり! 贔屓だこれは!」
妹からだった。
お前が俺のマグを割ったせいだろうと言いたいが。
「はいはい。ちゃんとあなたの分も買ってきてあるわよ」
「わーい!」
妹用のは俺のと同じ形で、黄色に猫のマグだった。
「うんうん、これは大事に使おう。思えば今まで私用のマグってなかったし」
「そうだっけ? なんか一個なかったっけか?」
「あれねー。外に持って行って、そのまま失くした」
「なんで外に!?」
しかもそのまま失くしたのかよ……本当に物をよく失くす子だ。新しいの欲しいって言えよ。
「それにしても母さん、どうして私がマグを欲しがるってわかったの? 名探偵だから? それともメンタリストだから?」
「どっちでもないわよ。ただあなたたちとは、あなたたちの人生より長く付き合ってるからね。お見通しなのよ」
そう言われると、お母さんってすげぇ。
「さてと、夕飯の支度でもしますかね」
「私ハンバーグがいい!」
「残念。コロッケでした」
「あ、じゃあコロッケがいいや」
なんやねん。
妹は手に入れた服や靴下のタグを切り始めた。そしてマグのシールを剥がすと、俺の方を見て言った。
「これで私たち、おいしい牛乳が飲めるね!」
「牛乳に限らずなんでも飲めるだろ」
なんて会話をしていると、台所の方から声がした。
「そうだ、牛乳も買ってきてあるから、飲みたかったら飲んでいいわよー」
「…………」
え、聞こえてたの? でも俺たちは別にそんな大声で話しているわけでもなかったはずだが。だとしたら、俺たちがマグを手にしたら牛乳を飲むと踏んで……?
「やっぱりお母さんはどんな名探偵よりも名探偵だよ」
「ああ。少なくとも俺たちのことについてはな」
「どんな名探偵も、お母さんには敵わないんだよ」
「かもな」
俺と妹は顔を見合わせてキッチンへと向かった。夕飯の支度をする母の邪魔にならないように、俺たちは牛乳を飲むのであった。
「ぷはー」
「うまい」
飲んでみると体が欲しがっていた感じがする。体に染み渡る。
「おいしい? 実はそれ、けっこういい牛乳なのよねー」
「ああ、どうりでおいしいわけだ」
「やっぱり高かったの?」
「高かったわ。普通の倍くらいの値段したもの」
「ひえぇ」
これは飲み方を考えないと。普段よりも味わって飲まないと、もったいないや。
「あたしにも一口ちょうだい?」
「あー、俺のは全部飲んじゃった。注ごうか?」
「いいわ。あっちからもらうから」
母さんはテーブルに置かれたマグを手にした。妹はなぜか流しの方を向いている。水を飲んでいるようだが……?
「う」
いきなり母さんが咽た。
え? なんで?
「なに? なにこれ? 変な……味が薄い?」
俺も手に取って飲んでみる。まずい。色は白いのだが、味は全く愉快でない。
妹が何事かという表情をした。少し元気をなくした顔で。
「なあ、これってさっきの牛乳だよな? なにかしたのか?」
「お高い牛乳だって言うから、長く楽しめるように水割りしてみたんだけど……失敗しちった。てへ」
「カルピスじゃないんだから」
「牛乳に水を入れて失敗したから、次は水に牛乳を入れてみよう」
「結果は同じだと思うぞ」
そして水を飲んで復活した母が言った。
「あなたたちのチャレンジ精神には感服するわ」
「だってよ兄ちゃん! 褒められた!」
「いや、これ褒められ……待って母さん。『たち』ってのはおかしいんじゃない?」
「いつか何かを成し遂げてくれることを祈っているわ」
「いや、母さん。『たち』ってのは……」
「グッドラックよ」
俺たちの日常に事件は起こらない。
だからどんな名探偵さえも母には勝てない。なぜなら必要とされていないから。
そして俺と妹は、母の作る夕食を楽しみに台所を後にした。