硝子の小鳥
帝国に嫁ぐことは、産まれた時から決まっていた。有り体に言えば順番制だ。帝国の庇護下にある国から、一代ずつ妃が選ばれる。母は私を産む前に8人の兄を産んだが、それでも子を成し続けなければならなかった。皇帝陛下の正妃となる娘を産むために。
そして、9番目にようやく生まれた女児である私は、繊細な硝子細工のように扱われた。壊れては困る貴重品のように、できるだけ触れず汚さぬように。
「ナターリエ様」
両親も、兄達も、敬称をつけて私の名を呼んだ。その名すら帝国から与えられたもので、彼らにとって私は家族ではなく、帝国のモノだった。
帝国から送られてきた役人の指示で計算された、健康的な食事。妃としての教育。帝国の古語など、この国に産まれた人間で話す者はいない。教師はもちろん帝国の人間だった。産まれた国の人間で私のそばにいてくれたのは、侍女のマリエッタだけだった。美しく優しいマリエッタ。私と同じ蜂蜜色の目をした彼女のことを、密かに姉の様に慕っているのに、きっと彼女は気づいていたのだろう。専用の部屋で指導を受ける私の耳に遠く響く、家族団欒の笑い声。その声が聞こえるたびにそっと窓を閉めてくれたのは、マリエッタだった。
輿入れは12歳になる年の春と決められていた。ともに帝国につれていく侍女を選別するようにと両親に告げられた私は、迷わずマリエッタの名を告げた。
「マリエッタ、無理を言う私を許してくれる?」
選ぶのに悩む必要はなかった。私が心を許せるのは、物心つく前からずっと一緒にいてくれたマリエッタだけだったから。
「何をおっしゃるんですか。マリエッタは姫様から決して離れたりいたしませんわ」
マリエッタ、忠実なる侍女。女神のように美しい彼女の、優しげな微笑を忘れられない。きっとそう言ってくれるだろうと思いながら確認した私を、赦すような笑顔だった。
「ありがとう、マリエッタ」
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「小鳥のような娘だな」
それが、私を見た皇帝陛下の第一声だった。
「私の小鳥」
低く響く声でそう呼ばれた時のこそばゆい心地。まだ子を産むことのできる体ではない私を、言葉通り小鳥を愛でるように慈しんだ。25歳の皇帝陛下にとって、私はただの子どもにすぎなかったのだろう。慈しんではくださっても、その目に熱はなかった。例えば国の名前を背負ってさえいなければ、彼の目にとまりすらしなかったはすだ。子猫よりなお矮小で非力で、何の価値もない女。
比べて、そんな私の後ろに常に仕えていた美しい彼女は、さぞ魅力的に映ったことだろう。何の装飾もない侍女服を着ていてすら、彼女の魅力は隠せなかった。輝くような月色の髪、女性として完璧な曲線を描く体。私と同じ蜂蜜の色の目は、とろけそうに甘い。マリエッタ、忠実なる侍女。祖国から伴った、唯一心を許した人。
最初の違和感は、マリエッタの指だった。整えられてはいるものの、仕事におわれ少し乾いていた指先が、柔らかくなったのだ。白い指先で私の頬に乳液を塗りこむその時に、爪が少し伸びているのが感じられた。
次は化粧。彼女はあまり色を使う化粧品を好まなかったが、いつのころからか肉厚な唇に赤い色をまとうようになっていた。
そして香り。甘い香りを好まないと聞いていた陛下から、懐かしさを感じる花の香りがするようになったのだ。祖国でよく作られていたポプリの香りに似ていると気づいたのは、私の部屋を訪れた陛下にマリエッタが寄り添いたった瞬間だった。陛下は、なんてことのない顔をして、マリエッタの腰を抱いていた。
あの日マリエッタが着ていたドレス。彼女の月色の髪を引き立てる、夜空のような深縹。全面に施された金糸の刺繍は気が遠くなるほど細かく、首元のレースは細い彼女の首筋を繊細に彩っていた。帝国で流行っていたのは限界まで引き絞った細いウエストのドレスだったが、彼女の着ていたドレスは胸の下に切り替えがあった。ゆったりとした腹部分を、マリエッタの手がなでる。整えられた、やわく白い手が。
「わたくし、皇帝陛下の御子を賜りましたの」
あまい、あまい声が、毒のように耳を犯す。まだ薄い腹を優しく手で包み込んで、女の顔をした侍女が嗤う。
陛下の従僕が入れた紅茶が、波打って零れた。白いドレスに、一点のシミがじわじわと広がっていく。彼女が私に向ける嘲る様な、憐れむような目。
「わたくしを、愛妾として召し上げて下さると。初めての御子の母親が侍女では……お立場もございますし、もちろん姫様はご理解くださいますわよね」
マリエッタの蜂蜜色の目。私と同じ色の瞳。その奥の、冷たい憎悪から、目をそらせなかった。
愛のない結婚と、理解していた。
それでも幸せになりたいと、そう夢みていた。
きっと、彼を愛せると、彼に愛される日が来るのだと、信じていたかった。
けれど、姉の様に慕った彼女の悪意に気づいたその瞬間、私の信じた夢はあっけなく砕け散ったのだ。
「……ふふ」
いつからだったのだろう。いつから私にあの悪意を向けていたのだろう。
最初からだったのだろうか。初めからこうするつもりで、私のそばにいたのだろうか。
だとしたら、私が唯一与えられていると信じていた情は……すべて。
「……愛しているわ、マリエッタ」
呟いた私の声は、硝子の割れる音に似ていた。
書きたいと思っている長編の、書きたいところだけ書いたダイジェスト。
いずれちゃんと書きたいです。