78 とんでもないこと
マリアの部屋の前で、彼女がそのまま「おやすみなさい」と言って別れようとすると、ルーファスに引き止められた。
「ルーファス……さん、どうしたの? 髪を切ることなら、私も納得して決めたことだから大丈夫よ」
そう言ってマリアがもう一度部屋に入ろうとドアノブに手をかけると、ルーファスは彼女のその手を大きな手で包み込んだ。
「マリアに髪を切らせる決断をさせてしまったのは、俺が頼りないからだと思っている……。すまなかった」
ルーファスが辛そうに謝る姿を見て、マリアも心が痛んだ。しかしすぐに彼の態度が一変し、扉の前にマリアを追い詰める。
「でもさっきから、その『ルーファスさん』っていうのは何なんだ? 今は確かに夫婦のふりはしていないが、急に他人行儀になるのはおかしいだろう」
先程までの殊勝な態度はどこへやら、ルーファスはマリアを高圧的に見下ろした。身長が違いすぎるので、マリアが顔をあげないと、彼の胸のあたりを見ることになる。彼女は顔を上げられないまま消え入りそうな声で答えた。
「ルーファス……さんに恋人がいるのなら、馴れ馴れしくしてはいけないと思って」
「恋人? ……まさかデリシーか?」
マリアが頷くと、ルーファスは呆れたように言う。
「あいつにつまらない遠慮をするくらいなら、突然『大人のキスから教えてほしい』とか、とんでもないことを言い出すのを何とかしてもらいたい。マリアは結婚まではきれいな身体でいたいんだろう? こっちは我慢するのも大変なんだ」
マリアは確かに彼の言う通りだと思い、恥ずかしくて堪らなかった。何をどう我慢するのか、彼の真意を聞くこともできない。
「確かに結婚まではきれいな身体でいたいとは思うけれど……。でも、あなたになら何をされてもいいんだもの」
「……そういう発言をやめてもらいたい」
「あ……!」
彼から指摘され、またマリアは自分がとんでもないことを言ってしまったことに気がついた。慌てて自分の口を手で塞ぐ。
「えっと、今のは……忘れてください……」
「……そう都合よく忘れられると思うのか?」
あまりにばっさりと切り捨てられ、思わず顔をあげたマリアとルーファスの視線が至近距離で絡んだ。恋人がいるルーファスに自分の気持ちを悟られてはならないと思っている彼女は、非常に焦った。
「マリア、本当に俺のものになる覚悟ができてから、そういうことは言えよ」
ルーファスはマリアの耳もとで囁く。処女を失ってしまった未婚女性は幸せな結婚はできないとされているが、恋を知ったマリアは、神様の祝福よりも彼と結ばれる幸せの方が大きいのではないかと思うようになっていた。でも、愛するルーファスには恋人がいるのだから、他人の幸せを壊してまで自分が幸せにはなりたくない……。
「よそよそしいのは望んでいないから、とりあえず呼び方を戻せ」
「うん……」
マリアは結局ルーファスには逆らえず、彼がなぜか上機嫌で食堂に戻っていくのをぼんやりと見送った。
普通ならもう誤解だと気づきそうなものなんですが、まだわからないマリア……。彼はデリシーのことを恋人とは一言も言っていません。




