280 微笑みの意味するもの
屋敷の主は王都で要職についているらしく、オレイユの郊外にあるこの場所には、滅多に姿を見せなかった。普段ここを管理しているのは、穏やかで美しい「奥さま」だ。
だがカイの見立てでは、彼女は正式な妻ではなくただの愛人だった。夫婦にはない甘ったるい雰囲気が、恋人どうしのそれに似ているし、こんな辺鄙なところに妻を押し込めておくのもおかしな話だと思ったからだ。
そして彼女のもとに主が帰ってくるのは、最高の商品となる娘が手配できたときのみで、そのときにはいつでも、客となる複数の紳士たちを同伴していた。
高過ぎる参加料を支払うことのできる、選ばれし人々による狂乱の宴。秘密保持の誓約書と、大金とともに交わされる契約。
カイを含む少年たちはそれらのすべてを見ていたが、それでいて肝心なことは何も知らされていなかった。主の正体も、腐った紳士たちが何者かも、詮索することは一切許されない。
言われた通りに動くだけのゼンマイ仕掛けの人形になれば、衣食住は完全に保証された。過酷な環境に身を置いてきた奴隷たちにとって、それは思考を奪う単純で甘い罠だ。
しかしカイは、息をするだけの人形にはなりたくなかった。彼の心には消せない炎がある。
そんな勇敢なカイに連れられ、マリアは在るべき場所に戻るために進んでいった。永遠に見える廊下には、絵や壺といった高価そうな美術品が飾られている。
「あそこから下に行くんだ」
カイが突き当たりを指差して、マリアを見た。
「順調ね」
「あ、ああ」
(こんなに上手くいくものなのか?)
いつもなら、廊下を歩いていれば他の使用人とすれ違うのに、今日に限って誰もいない。いざというときのため、この時間に不在の部屋の位置もあらかじめ全て確認しておいたが、必要なかったようだ。
いや、そんな努力は徒労に終わるべきなのに、素直に喜べないほどひねくれてしまった自分を反省すべきなのか。
一抹の不安を抱いたまま、階段にさしかかったときだった。
「あら、新入りのメイドさん?」
「「!」」
そこにいたのは、たおやかな美しい女性。優しい笑顔に、子守唄のような心地よい声音。地味なドレスがかえって彼女の美しさを引き立てる。その女性は眉尻を下げ、華奢な手を頬に当てた。
「何だかホールが騒がしいのよ。一緒に見に行ってくれるかしら?」
カイはさりげなくマリアとその女性の間に割って入ろうとしたが、女性が階段の踊り場のところで急に立ち止まったので、それは叶わなかった。そこにはマリアが両手を広げたくらいの大きさの、立派な油絵が飾られている。
「すてきな絵でしょう?」
神の御使いである我が子を抱く聖母の絵。マリアも似たような宗教画を教会で見たことがある。
「私はね、この絵が大好きなの」
女性がマリアの腕に自分の腕を絡ませた。温もりが直に伝わってくる。とても温かい。とても温かいが……。
「ごめんなさい。余計なことを話したわね。さあ早く行きましょうか?」
小さなほくろがある口元を、まるで何かの痛みに耐えるようにひきつらせた。慈悲深い聖母子画の笑みと、その女性の笑顔が重なって見えたその後で、マリアは名状しがたい違和感を覚えた。
次で再会できますヽ(・∀・)ノ




