277 大男と狂犬と鈴と
マリアがもし1人で逃げ出したりしたら、監視役のカイはただでは済まないだろう。だから逃げるなら2人がいい。彼もまた不正な人身売買取引の犠牲者だ。
しかしマリアの提案に対して、カイは端から否定的だった。
「いや、2人で逃げるのは不可能だよ。屋敷内は化け物みたいな大男2人が常に巡回しているし、屋敷外には狂犬が何頭も放し飼いにされているんだ。俺も今まで何度か、仲間と逃げようとしたことはあった。でも……無理だった」
少年らしかった瞳が、何かに耐えるようにそっと伏せられた。そしてすぐに彼はにかっと白い歯を見せて笑う。不安な先行きをこじ開けてみせるというような、わざとらしい笑顔が悲しい。
「俺が引き付けるから、マリクだけでも逃げてほしい。時間がない。今のうちにお前は……」
「そんなこと、できるわけないじゃない。一緒に逃げましょう」
今度はマリアが拒否する番だった。人を踏み台にした幸せなんて有り得ないと、彼女は信じていた。カイを説得するために誠意をもって言葉を紡ぐ。
「大男だって休むときはあるでしょう? 人間なんだもの。それに狂犬だって、襲われない方法がきっとあるはずよ。そうしないとお庭の手入れもできないじゃない。そもそも、このお屋敷の人が用事で外に出たいときはどうしているの?」
マリアは優美な格子窓から、人目を楽しませる程度に庭が整えられていることを確認していた。狂犬の姿は見えないが、どこかで鋭い牙を剥き出しにして潜んでいるとしたら、安全に外に出る方法がなくてはならない。
庭師はもちろん、あの豊富な食材がすべてこの屋敷内で賄える訳はないのだから、それなりに人の出入りがあるはずだ。
「大男は頭はあまり回らないかわりに、体力が無尽蔵なんだ。眠らないし、休まない。さらには力も強くて、図体のわりに機敏だ。だからはっきり言って、俺たちが敵う相手じゃない」
カイは、天井に背が届きそうなほど大きくて、戦闘に特化したあの化け物を思い浮かべた。さらに続ける。
「狂犬は鈴をもっている人は襲わないんだ。人間には聞こえない音域だから、どちらが持ち歩いているかわからないけど……」
「どちらが? その言い方だと、鈴を管理している人を、カイは知っているの?」
マリアの問いにカイは大きく頷いた。そのことが逃げるのを困難にする、絶対的な理由だったからだ。
「鈴は、大男2人のどちらかが、肌身離さず持っている」
つまり大男たちの目を盗んで外に出れば狂犬に襲われ、狂犬を何とかしようとすれば大男たちから鈴を奪わなければならない。言うまでもなくどちらも非常に難しい。
だからカイは大男との対決は避け、狂犬をできるだけ多く引き付けて、マリアを逃がすつもりだった。
今まで見て見ぬふりしてきた己の罪が、マリア1人を救うことで償えるとは到底思えないが、それでもやらないよりはずっとマシだろう。カイはマリアに、ひったくりをしたうえ、傷を手当てしてもらった負い目を、未だ捨て切れずにいる。
「じゃあ、大男を何とかして、その間に鈴を借りればいいのね」
マリアにとって、カイと行動を共にすることは決定事項だった。彼は話の通じない目の前の美しい少女に苛立ち、眉間に皺を寄せて吐き捨てた。
「だから無理なんだって! そんな簡単に何とかできるなら、俺だって当の昔にこんなところ、オサラバしてるさ」
「カイ、聞いて。私、とっておきの物をもっているの」
カイの動きが一瞬止まった。そして聞き返す。
「とっておきの物?」
そこでマリアは秘密のポケットから、例の小瓶を取り出した。
ついに叔父さんの魔法の薬が……!




