258 恋人の日
赤い屋根の小さなケーキ屋に足を踏み入れると、甘い香りがマリアたちを迎えてくれた。
扉に嵌め込まれたガラスは、賑やかな通りの様子を切り取っていて、こじんまりとした店内は優しく素朴な雰囲気だった。
自分に向けられる視線の多さに、マリアはすっかり疲れてしまっていた。しかしその視線の中に、件の人さらいのものが含まれている可能性がある以上、耐えなければならないのが、また辛い。
だからせめて少しだけ、休憩したかった。
「何か買うのか?」
至極尤もな質問がマリアの頭上から降ってきたので、彼女は店主の姿を探しながら答える。
「人混みに酔ってしまったの」
ほかに客のいない店内は、静かで話しづらかった。
「……そうか」
自信に満ちた女なら、他人からの注目を集めれば集めるほど、その輝きを増すこともできるのだろうが、マリアは生憎そういうタイプではない。
「でも、せっかくだから何か買いましょう。ほら、とてもおいしそう」
ショーウィンドウに並ぶ宝石のようなケーキや焼き菓子は、マリアを強烈に惹き付けた。
サクラからも沢山菓子はもらったけれど、あれはあれ、これはこれだ。どちらも美味しくいただけるなら、これ以上幸福なことはない。
「いらっしゃーい」
そのとき、奥から白髪のお爺さんパティシエが顔を出した。ほかに店員もいないようなので、おそらく彼が店主だろう。
魅力的な商品にすっかり目移りしていたマリアは、決めかねて尋ねてみた。
「どれがおすすめですか?」
「恋人の日のお祝い? 彼氏にあげるの?」
マリアは正式な婚約届を出すときにルーファスがそのようなことを言っていたのを思い出した。たしかにハートを象った商品がいくつかある。
「恋人の日? へー、聞いたことないな」
エドは初耳だったらしく、身を乗り出して聞き返した。
「ああ、君たちは外国の人か。その日は、好きな相手や恋人にお菓子をあげるんだよ。本当は昨日なんだけど、忙しいと日付をずらしてお祝いすることもあるから、てっきりそうなのかと」
店主はショーケースを指差して、柔和な顔をさらに優しくした。
「このあたりがその商品だ。もうあまり残っていないのが申し訳ないね。……彼氏は何が好きかな? 」
「彼氏って俺のことですか? そう見えますか?」
「見えないこともない」
「……なんか、微妙ですね。実際、残念ながら違うんです」
「おや、やっぱりそうかい」
「俺はそうなりたいんですけど……な、マリア? って、おい聞けよ!」
マリアは商品を教えてもらった辺りで、ショーウィンドウに釘付けになってしまい、彼氏云々の話は聞いていなかった。ただ可愛らしい菓子にテンションが上がり、よそよそしさが消えていた。
「私、これ買おうかしら。この可愛いハートの!」
うれしそうにマリアは声を上げるが、エドは冷ややかだった。
「……まさか、この俺の前で、ルーファスさんへの贈り物を買うつもりか?」
前回の後書きで週末更新って言ったのに、平日に更新してすみません。
これからもよろしくお願いいたします(´・ω・`)
なるべく頻繁に最新話を投稿していきたいと思っています。




