184 時計の針は戻らない
「逃げるのを邪魔してしまったみたいだね」
侯爵の低音の声を、マリアは絶望的な気持ちで聞いていた。頭の中で反響して、耳鳴りが止まらない。
「このタイミングで侯爵様に見つかってしまうなんて思いもしませんでした……」
すっかり萎れてしまったマリアは生気なく答えた。しかし彼女はすぐに、侯爵の言葉を肯定するような返答をしてしまったことを後悔する。まだ逃げるチャンスはあるかもしれないのに、その芽を自分から潰してしまったようなものだからだ。
それでもマリアは自分の置かれた状況とは別に、侯爵の体調も気にかかった。倒れそうになった彼女を力強く支えてくれたのは彼で、病み上がりの身体を急に動かすのはかなりの身体的負担だったはずだ。
「あの……侯爵様……。急に立ち上がったりして、大丈夫でしたか……?」
「マリアは優しいね。少しずつ身体を動かしていたから、まったく問題ないよ」
心配を払拭するように、侯爵ははっきりとした口調で答えた。
「そうですか、それなら安心しました」
彼女は安堵に胸を撫で下ろすが、すぐにその内容に違和感を覚える。少しずつ身体を動かしていた、と彼は言ったのか。
たしかに侯爵には起きている時間もあると、コウゲツたちから聞いてはいたが、ベッドから立ち上がれるほど快復しているとは知らなかった。マリアは愕然として、侯爵の嫌味なほど整った顔を見つめる。
「そんなにお元気だったんですか? 私がいるときはいつも寝ていらして……。まさか寝たふり……」
彼女は胡乱な目で、彼を見た。
「人聞きが悪いな。ただ目を瞑って色々考え事をしていたんだ。今までと、そしてこれからのことについて……」
そこでマリアはようやく、医師の診察のときに聞こえてきた声の中に、侯爵のものが含まれていたことに気がついた。
(私は決断するのが遅すぎたのかもしれない……)
時計の針を巻き戻せたらと、彼女は後悔の海に沈んだ。