174 決断
「侯爵様が……重い病気……」
マリアは残酷な現実に頭がついていかなかった。侯爵の疲れた様子が脳裏に浮かぶ。
「今、ここシュバルツで病が流行っているのはご存知ですか? ご主人様はそれにかかっておいでです。感染力が強いので、ご主人様は意識のあるうちに、かかったことのない使用人たちはすべて里に帰らせました。私たちはこの屋敷の最低限の維持とご主人様の看病で手一杯で、マリア様のことまで手が回りません。私たちは大切なご主人様のお世話に集中したいのです」
感情を抑え、滔々と説明してくれるサクラが、マリアにはとても痛々しく見えた。
「ですから心配なさらなくても、マリア様は堂々と帰ればよろしいのです。今ご主人様のお世話をしてるコウゲツも、マリア様を逃がすことは知っています」
侯爵がマリアにしたことは、たとえどんなに彼女に優しかったとしても、鍍金を剥がせば、それはただの欲望にまみれた監禁だった。簡単に許せるものではない。
しかし彼は今、重い病と闘っているという。それに乗じて逃げることこそ、人として許されないことではないのだろうか。父ギルバートの尊い命が奪われた悲しい記憶が甦る。その一方で今なら確実に逃げられるのも、また事実だった。
そのときマリアの中から、何かがスッと分離していく。そこに立っていたのは幼い日の自分だった。敬愛する父だけを死出の旅へと行かせてしまった、罪悪感と孤独に苛まれた、あの頃の自分。
マリアは自分の心の内を知り、決断を下した。知ってしまったからには見捨てることなんてできない。
「あの……私にも看病を手伝わせていただけませんか?」
サクラは零れそうなほど目を見開いた。信じられないようなものを見る目でマリアを見つめる。
「以前、私と父は侯爵様と同じ病にかかり、私は助かりましたが、父は亡くなってしまいました……。微力ですが、看病のお手伝いなら少しはできると思います」
「マリア様……!」
サクラはマリアの手を取って涙を流した。マリアは父を奪った病に、これ以上尊い命を刈り取らせたくなかった。




