170 侯爵家の異変
あるときを境に、ぱったりと侯爵はマリアの前に姿を見せなくなった。そしていつの間にか、マリアの世話をしてくれるのも、メイドのサクラと家令のコウゲツの2人だけになっていた。
サクラはエドの母親ドリーと同じくらいの年配の女性で、コウゲツはマリアの祖父と言っても通じるくらいの、高齢男性だ。
2人ともマリアにかまけている暇など無いようで、必要なときだけ彼女のもとを訪れていた。監視役もおらず放置されるようになったのは、彼女に自殺の危険性がないと判断されたためかもしれないが、それでも鍵だけは外側からきっちりと閉められていたので、逃げることもできない。
侯爵家の異変が気になったマリアがやんわりと何かあったのか尋ねても、彼らは曖昧な笑顔でお茶を濁すだけだった。マリアもあまり深く追及しなかったので、この家に何が起こっているのかはわからない。
貴族の家は往々として複雑な事情を抱えているもので、必要以上に詮索するのは下品なことだから、マリアは部外者の自分が教えてもらえないのも仕方のないことだと思っていた。
すっかり与えられた本も読み終えてしまい、話し相手もおらず、マリアは時間を持て余してしまう。時間があるとついついルーファスのことばかり考えてしまい、彼恋しさにマリアの口から切ない吐息が漏れた。
(ルーファスに早く会いたいわ……。ネックレスのことも謝らないと……)
マリアがベッドに膝を抱えて踞っていると、扉がノックされた。その音とほぼ同時にサクラが部屋まで入ってきて、マリアのいるベッドの前に立つ。サクラの低い位置で結んだ髪は解れて頬にかかっていて、窶れて老けてしまったように見えた。
しかしマリアの受けた印象を裏切るように、サクラは静かだがしっかりとした口調で話し出した。
「マリア様、正直にお答えください。このお屋敷から逃げたいですか?」
「え……」
マリアは予想外の質問に、呆けたように答えられなかった。サクラは若干の苛立ちを声に含ませて、今度はもう少しゆっくりと、マリアの肩をしっかり掴んで再度同じ問い掛けをした。
「ここから、逃げたいですか?」
マリアは慌てて頷いた。サクラが何を考えているかわからないが、この機会を逃してはならないと直感した。
サクラはマリアが頷いたのを見て、鏡のように頷き返す。
「それでは、このままマリア様を解放してさしあげます」




