167 愛を乞う
しかしせっかくの好機にも関わらず、マリアはなかなか逃げ出す決心がつかなかった。侯爵の眠りを妨げてしまうのを、気の毒に思ってしまったからだ。
それでもマリアは心を鬼にして、侯爵の頭を少しずつ持ち上げると、自分の身体を横にずらしながら、そうっとベンチに寝かそうと試みた。
けれど実際やってみると、人の頭というものは意外と重くて、これがなかなかに難しい。途中、彼が小さくうめき声をあげたのですぐに断念して、マリアは一番手近だった自分の膝の上に彼の頭をのせた。
予期せずして恋人でもない男性を膝枕することになってしまったマリアだが、また彼が深く寝入ったらタイミングを見てベンチに下ろせばいいかと思い直した。しかし気持ち良さそうにこんこんと眠り続ける侯爵の姿を見ると、そのまま何もできずに時間が経過してしまう。
侯爵が目が覚ました頃には陽は沈みかけていた。膝枕されていた彼はマリアと目が合い、思わず彼女の頬にそのまま手を伸ばそうとして、すぐにハッとしたようにその手を止めた。彼は宙にさまようその手を誤魔化すように、そのまま起き上がり、額にかかる自分の前髪をかきあげた。燃えるような夕陽に目を細める。
「なんだか久しぶりによく眠れた気がする。マリアのおかげだな」
侯爵は茜さす空を背後にマリアの方を見た。一方の彼女は逆光で彼の表情がよくわからない。
「マリア……なぜ逃げなかった?」
「侯爵様を起こしてしまいそうだったからです」
「……そうか」
彼は何か考えているようだった。そしてしばらくの後、マリアの頭を優しく撫でた。
「長い時間寝てしまって、重かっただろう? 部屋でマッサージをしてもらうと良い」
侯爵は使用人を呼ぶと、隠れて控えていたらしい使用人がただちに現れた。ほかに人がいたとはまったく知らなかったマリアは驚いてしまう。彼はそんな彼女の様子に苦笑いをせざるを得なかった。
「念のため、人払いはしていないんだ」
マリアは侯爵を起こさずにベンチに下ろせたところで、ほかに監視役がいたことにようやく気がついた。2人きりで過ごすほどには、まだ彼女は信頼はされていなかったのだ。なぜだか悲しみや諦めがごちゃ混ぜになったような複雑な気持ちがしたが、どうせ逃げられなかったのなら、疲れている彼を無駄に起こさなくて良かったとすぐに思い直す。
侯爵はマリアの葛藤もすべて見抜いていたようだった。彼はベンチに座るマリアの足下に膝をついて、愛を乞うように彼女の手に触れた。
「本当に、君を離したくないんだ。逃げられたくない」