関ヶ原の借りを維新で返す
西暦1600年10月21日(旧暦慶長5年9月15日)
西軍総大将毛利輝元。
東軍総大将徳川家康。
豊臣家の内紛と言う建前の元【関ヶ原の戦い】が起こった。俗に言う、天下分け目の大決戦。この戦いにより、豊臣家の威信も力も衰退していき、大阪冬の陣、大阪夏の陣を経て豊臣家は滅んだ。
この後、日本は1603年に徳川家康が征夷大将軍に任官し1867年徳川慶喜が大政奉還を宣誓するまでの、264年続く徳川幕府の手によって支配させる。
この時、西軍に所属していた、総大将の毛利輝元は長州藩藩主。長宗我部盛親は土佐藩藩主。島津義弘は薩摩藩元藩主。
それぞれが徳川家に手痛い仕打ちを受けている。
毛利家と島津家は、領地を減らされ。長宗我部盛親は、土佐を東軍に所属していた、山内一豊に取られた。
特に土佐藩では、長宗我部家家臣の冷遇が酷く、長宗我部家由縁の家臣達を【郷士】山内家由縁の家臣達を【上士】とし差別化していた。
毛利家、島津家、土佐の郷士達は徳川家に強い恨みがあっただろう。そして時は幕末。
桂小五郎、高杉晋作など長州藩の人間。
西郷隆盛、大久保利通など薩摩藩の人間。
坂本龍馬、武市半平太など土佐の郷士。
彼等の活躍により、徳川幕府に終止符が打たれた。
正に、関ヶ原で受けた屈辱を、幕末に返した、264年越しの敵討ちとも見えるだろう。
このように、歴史を学ぶ事で面白い側面も見えてくる。
学校で習う歴史は歴史ではない。あれは、歴史と言う名前を借りた暗記学だ。
学校で習う歴史が苦手な人、嫌いな人も、歴史を知れば、こう言う面白い解釈も取れるようになる。学校で習う歴史じゃなく、本当の歴史を好きになって欲しい。
こう言う解釈も出来ると言う話であり、維新が起きたのは様々な要因があって起きた事だろう。