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武装商人と海賊は紙一重・熊野の反乱と八尾別当顕幸との再戦

 さて、水銀や辰砂や黒辰砂、砂金、干し椎茸なんぞという高価な品物を運んでいればそれを奪おうとするバカが出てくる。


 だから、俺たちは武装する必要性が有った。


 もっともこれは平安時代半ばくらいの行商人や馬借からずっと同じで、この時代でも鎌倉幕府は商人を守ってくれる存在ではなかったから当然の措置だな。


 武士は自分たちを守るだけの存在だったから民は皆各自で武装した。


 これが悪党と言われる武装商人系の武装集団を発展させることになるわけだ。


 鎌倉時代は東国はともかく畿内より西の地域では、百姓も農業のみをしていたわけではなかった。


 まあ、これは当たり前で機織りや木工品づくりなどの手工業を副業にしている人間も少なからず居たわけだ。


 最も二毛作などをしてる場所はそんな余裕もなかっただろうけど、雨の日などは畑仕事も休みだからそういうときは内職をしていたわけだ。


 この時代米・絹・麻などは貨幣のような物々交換の対象として用いられていた。


 古代の奈良時代から平安時代にかけては市は国家が管理していたので、都に東西の市が設置されてそれは市司という監督官庁が管理していた。


 藤原京・平城京・難波京・長岡京・平安京などの都市では市場は正午に開き、日没に閉じ、品物の価格はすべて市司が決定していた。


 しかし平安時代末期以降に律令制が崩壊し役所が力を失うと大きな街道の沿線で交通の要所など人が集まる場所にも定期市が形成されるようになった。


 定期市の立つ日(市日)としては「四の日」「八の日」が多く、それぞれ4・14・24と8・18・28日に市が立つことになる。


 四日市市や八日市市と言った市名はその名残だな。


 で、平安時代には平安京の東西市以外ではほそぼそとした行商が行われるくらいだったが、鎌倉時代になると西國では市庭いちばも各地に多数できて日用品である鍋や釜、農具の鋤や鍬等の鉄製品、桶などの木工品、お椀などの漆器、器としての陶磁器、その他衣類や武器である刀や弓なども売られるようになった。


 もっとも、大鎧や胴丸のような具足はとんでもなく高価なので市で売られるようなことはなかったがな。


 で、市庭は流通の経路になる河口の湊や津もしくは川の半ばであれば川原や中州などにたつことが多かった、物を運ぶには船を使ったほうが楽だからな。


 坂が多く雨も多い日本では馬車が発達しなかったから、馬で運ぶ場合は馬の背に直接載せるしかないがそれでは大きな荷物や多い荷物は運ぶのは難しい。


 そうなるとそこに定住する人間も増えることになる、商業都市がこうやってできたわけで、堺なんかはこうやって発展していくことになるわけだな。


 平清盛が始めた日宋貿易により質の良い銅で鋳造された宋銭は日本で鋳造された質の悪い銭を駆逐して市場で流通するようになり、市が開かれる日に様々な種類の商人が集まって、店を開いて周辺の住人と商売をすることになる。


 さて、西国において、鋳物師は天皇家に直属していた。


 寺社の鐘や仏像のような鋳造品を作っていたのは彼らだからな。


 またこの時代の油売りの多くは岩清水八幡宮の神人で、市・渡・津・泊と言った場所の通行税を免除される特権を持っていた。


 そしてこういった神人や延暦寺の下級僧侶や、熊野三山の山伏などは借上という金貸しになる連中が多かった。


 で、人が集まる湊や浦・浜・渡・津・泊・宿と言った港町にはには寺社が建てられ、そこを入港・通過する船は神仏への上納を関料として支払うことが義務付けられた。


 あんまりにもこういった関が増えすぎたので流通に齟齬をきたしていたことを知っていた、後醍醐天皇は即位後、関を新たに作ることを禁じたくらいだ、色々失敗も多かった建武の新政だが旧来の慣習を打ち破ろうとしたことは認められなくもない。


 だが、御家人と寺社のどちらも敵に回して政治がうまくいくと考えていたのは甘すぎたな。


 そして、こうした港や交通の要所を防備するため岬や丘陵に城が設けられていくことになる。


 鎌倉時代までほとんどなかった城が南北朝時代には増えるのはこういった理由だな。


 そしてその土地の領主やそれに従う領民は関料の納入を怠った者に対し、武力を行使して徴収したわけだ。


 こうやって人の行き来が活発になると宿が成立するようになる。


 実は平安時代には宿というものはなく、旅をした場合貴族や僧侶などは宿坊に止まり、一般の平民は野宿だった、それはかなり危険なことだったからまあいい方向になってるんじゃないか。


 そして得宗の専制が極まった今年延慶2年(1309年)、源平合戦で源氏方に味方した熊野水軍は、鎌倉時代を通して海賊行為を繰り返していたが、今年大規模な反幕府一斉蜂起を起こた。


 その鎮圧のために15カ国の兵が動員されたとされるから結構な内乱なんだが現代ではあんまり知られてないな。


 交通の要所を抑えている北条氏による海上交通の支配と商人への弾圧に対する反抗だが、結果としては幕府の大軍の前に鎮圧された。


 俺達は便乗して動き出した八尾別当顕幸の討伐を命じられ、それを成功させた。


 因みに別当というのは寺の長官のことだ。


 しかし、これによって不満はさらに高まり海賊はさらに跳梁することになる。


 更に徳政令で損をしたことによって京都・奈良などの寺の衆徒や神社の神人の強訴も頻発することになるわけだ。


 まあ、今の朝廷に強訴したところでなんの権力もないんだが。


 そして、今俺達は俺達の船に乗り込んできた連中と戦闘中だ。


「ったく、今度はどこの連中だ?」


 俺は鎖分銅の付いた薙鎌を振るって乗りこんできたやつをなぎ切る。


「さあな、なんせ俺たちには敵が多いからな」


 神宮寺が太刀で切り倒しながら答えた。


 やがて乗り込んできた連中はだいたい切り伏せ逆に相手の船を制圧してやった。


 楠木は河内に送り込まれた代官の御内人だから周辺の反幕府の勢力とは仲が悪い。


 俺達が運んでいる荷物をただ狙う連中だけでは無いのが面倒なところだ。


 まあ逆にこっちが相手の積荷を奪うこともあるからお互い様だがな。

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