第九話
血の花が、月光を受けて鮮やかに咲く。
アスファルトの小道に着地した俺は、ゆっくりと立ち上がると崩れ落ちる廃屋へと振り向き、刀を払った。
「お前、その傷っ!」「あ、秋奈さん、早く治療を!」
百合さんと佐久埜ちゃんの驚く声が聞こえる。
まあ、仕方あるまい。ぱっくりと骨が見える程に切り裂かれた左腕を見れば、そうもなる。
慌てて駆け寄って来た佐久埜ちゃんが、アルマーナを使って懸命に治療を施してくれる。
血で汚れるのも構わず治療を続けてくれるその姿に感謝の言葉の一つも掛けたい所だが、今はちょっと無理そうだ。
何せ少しでも口を開けば、痛みによる悲鳴と呻きが漏れてしまいそうなのだから。
正直、もの凄く痛い。当たり前だ、これだけの傷で痛く無い訳が無い。
今すぐのたうちまわりたい所だが、生憎そうもいかないのが現状だった。女の子の前で無様な姿は見せたくないし、何よりまだ戦闘中だ。
だから俺は、我慢するあまり鋼鉄のように固まった無表情で、炎の向こうから来る『奴』の姿をじっと見詰めた。
「久しぶりに、傷を負った。アルマーナの力と主の加護が無ければ死んでいた、かな」
「なっ……! あの、傷で!? 奴は本当に人間か!?」
百合さんが悲鳴染みた驚嘆を漏らす。
軽い足取りで歩いてきた男、エーベルケインの首は半ば程まで斬り裂かれていた。
しかし、血は垂れる程度にしか流れていない。アルマーナと主の加護とやらで止めているのだろう。
「良く、そんな首で喋れるな」
「アルマーナで塞いでいるから、空気は漏れないんだ」
佐久埜ちゃんの治療のおかげだろう、大分痛みが引いてきた。
それでもまだじくじくと腕は痛んだが、もう猶予はあるまい。そっと踏み出し、刀を構える。
後ろから、心配そうな視線が突き刺さるのを感じた。二つある辺り、どうやら思ったよりは嫌われていないらしい。
大鎌をゆらりと揺らし、エーベルケインが口を開く。
「やめておこう」
「佐久埜さんを、諦めるのか?」
「いや。一旦退く、という事だ。別段主の復活を無理に急ぐ必要も無い。傷を治してから、また出直すとしようかな」
この痛みもまた、悪くは無いがね。
そう言って、エーベルケインは去って行った。
俺は、追う事も止める事もしなかった。今のままでは、戦っても勝てるかどうかは微妙な所。
仮に相打ちにでもなれば、残った教団員や邪神の眷属によって、佐久埜ちゃん達が追い詰められてしまう。
「猶予がどれだけあるかは分からないが、腕を磨くしかないか」
ついでに、新しい模造刀も用意しないと。
頑強な凶器とまともに打ち合ったせいで大きく欠けた愛刀を見ながら、俺はそう呟いた。
~~~~~~
早朝。自宅の庭で、俺は丁度良い長さの棒を振り回し、鍛練に励んでいた。
左腕の傷は、昨夜の内に佐久埜ちゃんが懸命に治療してくれたおかげで、もう大分良い。
まだ完治という訳では無いが、こうして少々木の棒を振るう程度ならば、大した問題も無かった。
本当ならば刀を振るいたい所なのだが、そうもいかない。こんな誰に見られるか分からない場所では下手に刀を抜けないし、かといっていつもの場所に行こうにも、あまり佐久埜ちゃん達から離れる訳にはいかないからだ。
ブン、ブン、と静謐な朝の空気を切り裂いて棒を振るえば、左腕に鈍い痛みが走る。が、この程度ならば十分許容範囲内。
続けて振るう。何度も何度も、時に踏み込み、時に引き。飽きる事無く、繰り返す。
一時間ほど経った頃だろうか。家の中から人の動き出す気配を感じ、俺は首を傾げた。
多分、母では無い。この気配は――
「佐久埜さん?」
「っ! 秋奈さん?」
気になったので鍛練を中断して見に行ってみれば、台所でうんうん悩む小さな人影を発見。
声を掛ければびくりと肩を震わせて、驚いた表情で振り向かれた。
「こんな朝早くから、何を?」
「あ、えっと。実は、朝食を作ろうかと思いまして」
朝食? と俺は再度首を傾げる。
「はい。私は大した事も出来ないですから、せめて家事のお手伝い位はと思って。でも、勝手に台所や食材を使ったら悪いな、と」
「それで悩んでいたのか」
成る程、良い子だ。見習いたい位である。
「そういう事なら、良いんじゃないか」
「え? でも、お母様の了承も得ないで……」
「母さんなら、二つ返事で頷いてくれる。別に、料理が出来ないのに無理して作ろうという訳では無いんだろう?」
「はい。帰光楼の施設に居た時は、皆でご飯を作っていましたから」
ならば、是非も無い。
せっかく美少女の手料理が食べられるチャンスなのだ。逃すのは、あまりに無粋というものである。
「汗を流してくるから、少し待っていてくれ」
「え?」
「俺も、手伝うよ。何処に何があるのか、佐久埜さんだけじゃ分からないだろう?」
「あ、はい。ありがとう御座います!」
嬉しそうに微笑む彼女の笑顔に、心が癒される。
幸せな、朝が来た。
~~~~~~
差し込む朝日に目を覚ました私は、眠気で再度閉じようとする目蓋を擦って無理矢理開け放つ。
カーテンの閉まった薄暗い部屋。そこそこの広さと少ない家具を持つこの部屋が、私に与えられた広野家の一室だった。
布団から這い出ると、畳の独特の匂いが鼻を突く。施設に居た頃を思い出して懐かしい気持ちになりながら、ふらふらと揺れながら立ち上がる。
「服……服……あ痛っ!?」
着替えようとして、タンスに小指を強打した。
痛む箇所を押さえ、暫く蹲る。一瞬だけ頭が覚醒するが、痛みが引いてくるとまたぼ~っと靄が掛かり始めた。
「ん……う……」
のろのろと寝間着を脱ぎ捨てて、昨日買ったばかりの私服を身に纏う。
着替え終わると、顔を洗いに――行く前に一度、愛刀を手に取りその鞘に額をつけて目を閉じた。
ピン、と空気が張り詰める。数秒そうしてから目を開けば、眠気はもう飛んでいた。
「佐久埜? 起きているか?」
洗面所に行くついでに、隣の部屋の佐久埜へと声を掛ける。
が、返事は無い。まだ寝ているのかとも思ったが、念の為様子を見ようと障子戸を僅かに開けて中を窺う。
「佐久埜?」
カーテンの隙間から注ぐ朝日に照らされた布団は、無人だった。
もう部屋を出たのか、と判断してそのまま洗面所へと向かう。
すると耳に入って来たのは、台所から響く調理の音と、楽しげな声。
それが探していた少女のものだと気付き、私はひょっこりと顔を出して、
「佐久、埜?」
困惑した。
覗いたその先では、エプロンを着けた佐久埜が、同じくエプロンを着けた秋奈と一緒に朝食を作っていたのだ。
秋奈の方は相変わらず表情が分かり辛いが嬉しそうであるし、佐久埜はといえば露骨に分かる程楽しそうな表情を浮かべている。
まるで新婚の夫婦のようだ、何て考えが頭を過ぎって、直ぐに打ち払った。
あの子はとても純粋で優しい子だ。だからきっと、食事を作るのが楽しいだけなのだ。
そう自分に言い聞かせ、私はこっそりと洗面所へと足を進める。
あの空間に入り込む事は、何だか憚られた――。