第二話
「貴方、は……?」
呆然と、私は呟きました。
邪悪な気配を感じ、その先で出会った妖魔とこの雑木林で戦闘を開始してから、一刻程。力及ばず追い詰められたその時、突如飛来した何かが鬼の横面を叩き、その動きを止めたのです。
ざっ、と雑草を踏み締める音に目を向ければ、そこには少年が一人、立っていました。首元の緩められたYシャツに、学生服であろう地味なベルトの付いた黒いズボン。
放課後を楽しむ男子学生と言われれば信じてしまいそうな格好で、しかし決定的に違う点が一つ。
少年は、その手に飾り気の無い真っ黒な鞘の刀を一本、握っていたのです。
少年が、静かに歩を進めました。同時、何かを呟いて、鞘からその刃を解き放ちます。
顕れたのは、鈍く光る灰色の刃。武器に詳しくは無い私ですが、それでも恐らく業物では無いだろう、という程度の事は分かりました。
――後に、あの刀が単なるネット通販で買った安物の模造刀であると知った私は、大層驚愕する事になります――
少年が、邪魔そうに鞘を投げ捨て、両手で刀を構えました。地に着きそうな程に下げられた切っ先は下段の構えに見えましたが、同時に見たことの無い独特の構えでもあります。
鬼と相対する少年の姿を見て、私は思わず叫んでいました。
「危険ですっ! 逃げて下さい!」
何故なら少年からは、妖魔と戦う者が扱う力――即ち『陰陽の気』を、全く感じなかったからです。あれがなければ、とても常人を越えた力を持つ妖魔達とは戦えません。
刀を解き放った瞬間に放たれた、鋭く研ぎ澄まされた気配に本当に一般人であるかどうか疑ってしまった私ですが、それでも『守人の巫女』として無関係な一般人を巻き込むわけには行きません。
体を打たれたせいでしょう、脚に力が入らず立ち上がれない私は、再度少年へと呼びかけました。
「逃げて下さいっ! 早く!」
けれど、少年は止まりません。恐れた様子も無く、鬼へと距離を詰めていきます。
そんな少年を見た鬼は、まずは邪魔者を排除しようと思ったのか、彼へとその豪腕を振り上げました。
――いけないっ!
焦る私ですが、思いとは裏腹に体は動いてくれません。ただ手を伸ばす事しか出来ない私の前で、空気を叩くような轟音と共に鬼の右腕が真っ直ぐ少年へと突き出され、
「――温い」
呟きと共に、少年がその丸太のように太い腕の下を、潜り抜けていました。
同時、ごとりと音を立て、半ばから落ちる鬼の腕。背後に切り抜けた少年は、痛みに叫ぶ鬼の姿を視界に入れる事も無く、軽く刀を振るうと僅かに付着した血を払います。
「え……?」
思わずそんな、呆けた声を出していました。
これが、終生深く関わる事になる少年――広野秋奈さんと、私の出会いだったのです。
~~~~~~
血を払った剣を、再び下段に構える。
拍子抜け、というのが正直な感想であった。あの巨躯に化け物の身体、さてどれだけ強いのだろうかと思えば、てんで隙だらけ。
確かにその太い腕と隆々とした筋肉に相応しいパワーはあったようだがそんなもの、中てられないのであれば然したる意味も無い。豪腕なればこそ、中てる為の工夫をしなければならないというのに、あの鬼にはそれが理解出来ていないらしい。
少々落胆。が、それで帰れば少女が死にかねない。ならば最後まで処分するのが、道理というものだろう。
「アガアアアアアアア!」
鬼の絶叫が、そのまま咆哮へと変わる。背後より迫る左腕を感じ、俺は振り向くと同時、脚を地から離す。
くるり、視界が反転。手を上に伸ばせば、下を通る鬼の腕へと手が着いて。
振り切られたその大木に片手で着地を決めると、逆さまの鬼と目が合った。怯えている気がする。恐れられている気がする。
が、まあどちらでも良いか。
左手から、力を抜いた。するり、鬼の腕の横を紙の様に落下する、その間際。
身体を捻り、右手の刃を奔らせる。
「秘技・首落とし」
すとん、体勢を整え、今度こそ地面に足から着地する。
瞬間。一拍遅れるように、鬼の首がごとりと落ちた。
倒れる頭無き身体から、血が噴き出す。草木を濡らす水音を聞きながら、刀を一振り。
刹那の斬撃であったが故に、初撃と違い刃に血は付いていなかったが、癖のようなものだ。
「さて」
薙刀少女の容態を見る為、俺は放り投げた鞘とケースを回収しながら彼女に近寄った。
倒れた鬼を、警戒する必要は無いだろう。首を落とせば死ぬ、これは最早道理である。
或いは例外も居るのかもしれないが、少なくともあの手の鬼にそんな特性があるなどという話は聞いた事が無い。吸血鬼であれば別かもしれないが。
そんな、最近読んだ漫画や小学生時代に聞かされた童話の鬼を思い出しながら、刀を鞘へ、そしてケースへ仕舞う。蓋を閉じる頃には、薙刀少女は目の前だ。
「怪我は、大丈夫ですか」
「え、は、はい。あの、貴方は……」
「動けそうですか」
「え? あ、はい。大丈夫、です」
戸惑う少女に、矢継ぎ早に質問を繰り返す。意識もはっきりしているようだし、彼女の言う通り、怪我も大した事はなさそうだ。
ならばもう、良いだろう。
「では、俺はこれで」
「あ、そうですか。ありがとうごさいました……って、え?」
ポカンと口を開け硬直する少女を置いて、俺は颯爽とその場を去っていった。
あの少女が何者かは知らないが、あまり人に見られながらの鍛練は好きでは無い。今日は、此処での日課は諦めるべきだろう。
ついでに言うと、
「あれは、俺には刺激が強すぎる……」
戦いの中で切れたのか、大きく根元近くまで裂けた袴から覗く少女の艶かしい脚は、思春期男子には目に毒だ。
頬を赤らめるは広野秋奈、健全なる高校二年生。女性と接するのは、大の苦手である。
~~~~~~
変わらぬ夕焼けの沿道を歩きながら、どうしたものかと自問する。
せっかく日課の鍛練をしようと気合を入れて出てきたのに、それがおしゃかになったのだ。このまま何もしない、というのも何だか癪である。
「家の庭で、基礎練習でもするか」
筋トレ位は出来るだろう。基礎は重要なものであるし、その程度ならば誰に見つかっても咎められる事は無い。
いかんせん、庭で刀など振るっていれば誰に見つかるか分かったものでは無い。特に母の目に入れば、一体何と言われるか。
自分の子が庭で模造刀を振り回している様を見て、何も感じない親は居ないだろう。剣道部に入っている訳でもなければ、家が剣術道場な訳でも無いのだから、尚更だ。
そんなこんなで方針を定め、小道に入ろうとした所で、
「ん」
その先に感じた人の気配に、若干歩調を緩めた。
予想通り、小道から人が出てくる。つい数十分前にも見た、あの少女二人組みである。
変わらず長刀を背負った少女に一瞬目を向けながらも、俺は入れ違うように小道に入り込んだ。何処かに出かけるのだろうか、と思いながらも歩を進めようとして、
「この匂い」
鼻が、奇妙なものを捉えた。ふわりと、残滓のように香る不思議な匂い。
あの少女達のものではあるのだが、同時に少し違う。これは――
「死の、臭い?」
何とはなしに、そう思った。特にそんなものを感じ取る力がある訳でも無いので、本当に何となくだ。
一歩、二歩。脚を戻して、遠ざかる少女達の背に目を向ける。
どす黒い死神が彼女達の頭上に見えた、気がした。本当に、気がしただけであるが。
「行ってみよう」
誰に言うでも無く呟き、彼女達の後を追う。会話も聞こえない遠い距離を保ちながら、ずっと。
陽は、暗く落ちかけていた。