第十三話
……さん ……さん
声が、聞こえる。
優しく温かいその声と、微かに感じる体を揺り起こされる感覚に、俺の意識はゆっくりと浮上した。
「おはよう御座います、秋菜さん」
目蓋を上げて一番に目に入ったのは、此方を覗き込む佐久埜ちゃんの可愛らしい笑み。
二・三度目を瞬かせてから、応える。
「おはよう、佐久埜さん」
「朝ごはん、出来ましたよ。早く起きて来て下さいね」
窓から差し込む朝日に照らされる佐久埜ちゃんは、より一層綺麗に見えた。
俺の心臓は激しく鳴動しっぱなしである。
朝、女の子に起こされる。それだけでもう胸一杯だ。
ぱたぱたと軽い音を鳴らして部屋から出て行く佐久埜ちゃんの背を見送ってから、呟いた。
「まるで、結婚したみたいだ」
馬鹿な少年の妄言である。
~~~~~~
エーベルケインとの戦いから数日。
俺は、学校を休んで毎日百合さんとの鍛練に励んでいた。
母は何か事情があるのだろうと了承してくれたし、学校にはインフルエンザに掛かったと言ってある。
これで後、数日は持つだろう。そしてきっとその間に奴は来る。
確信だった。幾ら急ぐ必要が無いとは言っても、敬愛する主を早く復活させたいと思うのは当然の事だろう。
幸い、既に腕の痛みは無い。代えの模造刀も届いた。万全の状態である。
「はあっ!」
汗だくの百合さんが長刀を思い切り振りかぶる。疲れと焦りのせいか隙だらけだ。
その隙を突き、長刀をかわしながら懐に潜り込むと、首に模造刀を添え当てる。
ぴたり。両者の動きが止まった。
「俺の勝ち、だ」
「……ああ。そう、だな」
決着がついた事を確認し、百合さんは大きく後ろに倒れると、地面に大の字で寝転がる。
ふわりとミニスカートの裾が舞い、俺はさり気無く目を逸らした。
動きやすいからだと言うが、それならばズボンを履けば良いだろうに。百合さんの可愛いもの好きにも困ったものである。
「お疲れ様にゃ、ご主人様っ!」
観戦していた白玉が飛びついて来る。
同時、その手に持っているペットボトルを差し出して来た。
良く冷えたお茶だった。スポーツドリンクの方が良かった、とは言わないでおこう。
蓋を開け中身を一気に煽れば、冷えた快感が喉を通る。あまり身体には良くないらしいが、やはりこの感覚には叶わない。
半分程一気に飲み干した所で、ようやく口を離す。
「どうかにゃ、鍛練は上手くいってるかにゃ?」
見計らったように問い掛けて来た白玉に、肯首で返した。
「相手が居る、というのは良い」
「にゃ~、今までずっとご主人様、一人だったからにゃ~」
失礼な。まるで友達が居ないような言い方だ。
しかし確かに、剣を交わせる相手が居なかった、というのは事実であった。
一人での鍛練も悪くは無いが、やはり相手が居なければ対人戦の経験は積みようが無い。
そういう点で、特に百合さんとの鍛練は非常に充実したものである。
同時に、百合さんもまた少しずつ強くなっていると感じてもいた。
別段指導している訳では無い(というかそもそも、他者に教えられる程の腕は俺には無い)のだが、どうやら俺との鍛練で得るものがあるらしい。
何とも嬉しいことである。磨き続けたこの剣が誰かの役に立つというのは。
「本当に強いな、お前は。一体どうなっているんだ」
身を起こした百合さんに拗ねたように言われたが、さて。
「どうなっていると言われても。理由なら、以前に話したと思うが」
「刀を振るっていれば自然と強さも付いてくる、だったか? どんな人物なんだ、お前にそんな無茶苦茶を教えたその破天荒な師匠は」
今度は呆れたように言われた。
師匠、師匠についてか。
「名前は知らない。ただ昔、迷い込んだ竹林の先で、一度出会ったのみだ」
あれはもう、十年は前だったか。
「まだ俺が幼い頃。探検と称して、近隣の竹林に分け入った事があった。暫く歩いた先で開けた空間に出てな。そこにぽつんと一軒、古臭い平屋の家が建っていた」
まるで国語の教科書に載っている昔話に出てくるような、藁葺屋根の家だった。
すわ竹取の翁でも住んでいるのかと、子供ながらに心躍らせたものだ。
「興味津々で近づいてみれば、開けっ放しの縁側から中の様子が窺えた。静かな空間に相応しい、殺風景な畳の部屋だ。そこに布団が一枚。寝息も立てず老人が一人、眠りに着いていた」
「それがお前の師匠か?」
そうだ、と頷く。
話に合わせるように皆で縁側に移動しながら、俺は二人に続きを語る。
「あまりにも静かに眠っているものだから、てっきり死んでいるのかと思ってな。急いで上がりこんで声を掛けたんだ。そうしたらゆるやかに目蓋を開けて、澄んだ水面のような瞳と目が合った」
幼くても分かった。ああこの人は、そこいらの大人達とは違うのだ、と。
「勝手に家に上がった事を謝罪しながらも、それから幾らか話をしたよ。師の声音は弱弱しく、今にも息絶えてしまいそうだったが、人を呼ぼうとすれば直ぐに大丈夫だと断られた。それからどれ位経っただろうか、日も傾きかけた頃、ふと部屋に置いてある一本の刀に目が行った」
厳かに鎮座するそれは、一目で分かるほど美しい日本刀であった。
黒き鞘に刻まれた紅の模様、雪のように真っ白な柄。鍔は輝く金色で、実に芸術的な一振りだった。
「興味を抱き問い掛けてみれば、師はかつて名を馳せた剣術家なのだと言う。そうして嬉しそうに何事か呟くと、俺にその刀を自身の元まで持って来させ、布団から出て立ち上がり、外に向かって歩を進めた」
当然止めた。寝ているべきだと、そう訴えた。
が、師は優しく此方を制するのみで、決して立ち止まろうとはしなかった。
「草履を履き外に出た師は、狼狽する俺に言った。どうかこの老いぼれの剣、最後に一度見てくれないか、と。俺はただ頷いた。そうするべきだと、漠然と思ったからだ」
猫の姿になった白玉が膝に乗ってくる。
優しくその背を撫でながら、続ける。
「鞘から刃を抜くと、師は静かに構えを取った。美しい、構えだった。先程までとは違い体は全く震えておらず、ぶれも無い。曇り一つ無い白刃と相まって、その姿は俺に武士という言葉を連想させた」
ちなみに構えは下段。今の俺の基本にもなっている構えである。
「そこからの一連の光景は、今でも昨日の事のように思い出せる。吹き抜ける風、舞う笹の葉。空気は鋭く張り詰め、しかし不思議と息苦しくは無い。ただ食い入るように、俺は師の一挙手一投足を見詰めていた」
竹林のざわめきが耳を打つ。その、刹那。
「師が、刀を振るった。速く、強く、鋭く、そして何より心を惹き付ける剣だった。見た目を重視した華美な剣ではなく、何処までも研ぎ澄まされた実直な剣だからこそ出せる、魅力があった」
言葉は、出なかった。思考の全てが師の剣に占有されていた。
「都合、十度。たったそれだけで、しかしそれで十分だった。俺という人間の心を掴むには」
それからだ、鍛練を始めたのは。それからだ、刀を振るうようになったのは。
「鞘に刀を仕舞った師は、縁側に腰掛けると俺を手招きした。そうしてまた幾らか話をしたよ。先の言葉も、その時に貰ったものだ」
百合さんも白玉も、何も喋らない。聞き入ってくれているのなら、嬉しい事だ。
「それから辺りが暗くなって来たので、もう帰りなさいと言われた。躊躇う気持ちはあったが帰らない訳にもいかないので、俺は素直に家に帰った。その時に見た、小さく手を振る師の姿が、俺が最後に見たあの人の姿だ」
その日の夜は、感動と興奮と何故か感じた寂寥のせいで眠れなかったのを覚えている。
また明日あの人の所へ行こう、と思った事も。
「次の日その場所に行った時には、もう師もその家も、影も形も残っていなかった。人に聞いてもみたが、誰に聞いてもそんな場所に人は住んでいないと言われたよ。以降どんなに調べても、それらしい存在を見つけられた事は無い。残っているのは、俺の記憶の中だけだ」
しかしそれが決して夢や妄想の類では無い事を、俺は知っている。
実際にあの光景を見た俺だけが、あれが現実だと知っているのだ。
全てを語り終え、俺は再びペットボトルに口をつける。お茶の匂いと、あの時の竹林の匂いが重なった気がした。
「……その人は、死んだのか?」
「分からない。そしてきっと、それは重要な事じゃ無い。大切なのは俺があの剣に届くかどうか、だ」
勝手な事だが、俺はあの剣を受け継ごうと考えている。
あの人もそれを願っていると、そう感じたから。
だから俺は、あの人を師と呼んでいるのである。あの時の剣が、会話が、俺に全てを授けてくれているのだから。
「届きそうか? その目標には」
「いや、まだまだ遠い。だが、いつかは」
決意と共に模造刀を握り締める。そう、その高みに到達する為にも。
「勝たなければ、いけないな」
恐らくは、今夜。
戦いの気配を感じ、俺は僅かに目を細めた。