2-3
憧れの人物の対面。
そして、明かされるリーゼンラールの別の顔。
シエルは嬉しさと衝撃の間を行ったり来たり……。
「シエル! 遅いよっ!」
通廊を曲がった先、いつもの場所に、手を振るアリと微笑むリーゼンラールがいた。
「ご、ごめんなさいっ! 遅くなって!」
「仕方ないよ。びしょびしょだったんでしょ? また失敗したんだって? 皆、笑ってたよ」
「し、失敗じゃないわ。だって、急に押すんだもの」
「シエルは、軽すぎるんだよ。もうちょっと太らないと、風で飛ばされちゃうよ? ね、リージェ?」
「そうだな。もう少し、健康的に太ってもいいだろうな」
「男の人は、ちょっと太めが好きだもんね!」
いきなりマセたことを言い出したアリに、ユーリシエルの頬が熱くなる。
リーゼンラールは、頬を紅潮させて固まったユーリシエルの手から自分の外衣を取り戻すと、いつものように二人を促して歩き出す。
「今日はどこへ行くの?」
アリは、わくわくした様子で、黒い瞳を輝かせてリーゼンラールを見上げる。
「城内で、短時間で自由に出入り出来るところは殆ど案内したが……残っているのは、少々黴臭い書庫くらいのものか」
書庫と聞いた瞬間、ユーリシエルの脳裏から、たった今遭遇した出来事や、あられもない姿を目撃された気まずさや恥ずかしさのすべてが吹き飛んだ。
「書庫って、たくさん本があるんですかっ!?」
「ああ。王立の蔵書庫があって、古い文献やラーゼルで発刊されたすべての本と、異国のものもいくらか収蔵している。専門の技官を置くぐらい、広くて大量の書物がある」
「大量ってどれくらいですかっ!?」
ユーリシエルは、きっと世界中の書物があるに違いないと目を輝かせて、リーゼンラールに詰め寄る。
「一万は下らないだろうな。書棚が入り組んでいるから、下手をすると迷子になるぐらいだ」
「絶対、行きたいですっ! 見たいですっ! 読みたいですっ!」
他のことなどどうでもいいと言わんばかりの勢いで迫るユーリシエルに、リーゼンラールは笑い出した。
「わかったから、そう興奮するな」
書庫は、城の西側にある王立学院の傍にあるのだと言いながら、リーゼンラールは二人を促して歩き出す。
「シエルって、文字が読めるもんね。だから、本が好きなの?」
アリは、自分は文字が読めないし、本を読む習慣なんかないと肩を竦める。
ユーリシエルは、アリにも読書の楽しみを知って欲しいと、張り切ってその魅力を説明した。
「私が本を読むのが好きなのはね、例えどこへも行けなくとも、色んな国のことを知ることが出来るからなの。見たことや聞いたことがないものでも、色んなことを想像して楽しめる。それに、違う国の言葉を覚えたりも出来るから、旅人とお話することが出来るようになるわ」
「ふうん? シエルはそうやって、ラーゼルの言葉も覚えたの?」
「そうよ。辞書ってものがあって、アリアバードの言葉からラーゼルでは何と言うかを探したりも出来るのよ」
「それって、シエルが持ってた本のこと?」
道中、時折辞書を見ていたことを覚えているとアリが嬉しそうに言う。
「ええ」
「じゃあ、それを使えば、ラーゼルの言葉で書かれた本も読めるんだね?」
「そうね。まずは文字の形を覚えなくちゃならないけど、読めるわ」
「話すだけかと思っていたが、文字も読めるのか。相当勉強したんだな?」
リーゼンラールが感心したと褒めてくれたので、ユーリシエルは嬉しくなる。
王宮の中で、籠の中の鳥のように暮らしていたユーリシエルは、毎日が退屈で仕方がなかったが、本を読んでいる時だけは、大空を飛ぶ鳥のような気分を味わえたと、今では遥か昔のことのように感じる日々を思い出す。
「俺も本を読んでみたいなぁ」
アリがそんなに楽しいものなら、自分もやってみたいと言うので、ユーリシエルは文字を教えると約束した。
「シエルは、ラーゼルの言葉以外も話したり出来るんだろう?」
リーゼンラールは、そんなに本が好きならきっと異国のものもたくさん読んでいるに違いないし、話したりも出来るのだろうと、尋ねる。
「はい。殆どが、カタコトですけど」
「ラーゼルの言葉は特に勉強したのか?」
「いえ、そういうわけでも……」
アリアバードにいた頃、ラーゼルの言葉が特別話せるというわけではなかった。
リーゼンラールと会話するようになって、伝えたい、理解したいと思えば、色んな単語が必要になり、毎夜寝る前に辞書を引いて、ああ言えばよかったのだとか、今度はこう言おうと考えていると、自然と語彙も増えた。
「リージェと話すようになって、上達したんです」
「あ! それ、他の侍女たちが言ってた! 異国の人を好きになると、あっという間にその人の話す言葉を覚えるんだってさ!」
アリは、ユーリシエルの急激な上達もそれだろうと、得意気に指摘する。
「えっ! ちちちち、ちょっとアリっ!」
何を言い出すのだと慌てふためくユーリシエルに、リーゼンラールは微かに眉を引き上げて、見たこともない笑みを浮かべた。
「それはちょっと違うな、アリ」
濃紫の瞳が艶を帯び、耳元で聞いたら卒倒しそうな低くて甘い声で、呟く。
「え? 何が違うの? だってさ、好きな人とはたくさんお喋りしたいでしょ?」
「それはそうだが、最終的に言葉はいらなくなる」
それはどういう意味だ。
リーゼンラールが匂わせた意味をあれこれ思い巡らせて、ユーリシエルは、不規則な鼓動を刻む心臓の辺りを握り締めた。
「どうして?」
「どうして、か。その問いに答えるのは難しいな」
リーゼンラールは真面目に考え込み、やがて自分にも言い聞かせるかのように、呟いた。
「ただ……一つだけ言えるのは、相手に気持ちを伝える方法は、言葉以外にもあるということだ」
その内容まではどうか説明しないで欲しいと、ユーリシエルは心の底から祈った。
どこかちぐはぐにマセたアリに、これ以上とんでもないことを言われては身がもたない。
「それって、魔法みたいなもの?」
今度は、子供らしい言葉を口にしたアリに、リーゼンラールは優しい笑みを浮かべた。
「そうだな。ある種の魔法だな。その魔法にかかると、二つの心が一つになったかのような気持ちになる。ただ、その魔法は大人以外には効かないものなんだ。アリも、あと十年くらいすれば体験出来る」
「ふうん? そっか。じゃ、楽しみにしてる!」
あっさり納得したアリに、ユーリシエルは安堵のため息を吐く。
そんなユーリシエルの心労は理解しているとばかりにくすりと笑ったリーゼンラールは、木陰の向こうに見える建物を示した。
「あれが蔵書庫だ」
城内の喧騒とは別世界のように静まり返った緑生い茂る一角に、二階建ての赤い煉瓦造りの建物が現れた。
重い鉄の扉を押し開けると、更なる静けさが広がっていた。
「うわ。なんか出そう……」
アリが、恐いというようにユーリシエルの手を握る。
「まぁ、度々、目撃されているのは確かだな」
「えっ!」
リーゼンラールの呟きを聞いて青ざめたアリは、中へ入りたくないというように後退りする。
「そうやって、あらぬ噂を流すから、誰も近寄らなくなるんじゃないか」
いきなり暗がりから響いた声に、アリは悲鳴を上げてユーリシエルにしがみついた。
「うわぁっ! 出たぁっ!」
「きゃっ! ち、ちち、ちょっとアリ! く、くるし…」
ぎゅうぎゅうと締め上げられ、ユーリシエルはもがく。
「アリ。幽霊じゃない。文書官のエルウッドだ」
リーゼンラールが笑いながら紹介したのは、ふわふわした白金の髪と琥珀色の瞳をした線の細い青年だった。
「へ?」
アリは、恐る恐る片目を開けて様子を伺い、目の前にいるのが人間だと分かると、ようやくユーリシエルを解放した。
「初めまして。僕は、エルウッド。この蔵書庫の整理をしている文書官だ。二人は、アリアバードからのお客様かな?」
優しげな顔立ちのエルウッドは、アリとユーリシエルの目線の高さにあわせるため、少し屈み込んで微笑んだ。
「は、初めまして。シエルです。こちらは、アリです」
「ラーゼルの言葉が話せるんだね?」
「はい」
「文字も読めるらしい」
「それはまた、随分と優秀な従者だね。ファティマ王女は全く喋れないとカーライル王子が嘆いていたけど……」
「そうだな。でも、喋れなくとも構わないと思っているんだろう。あまりこの縁談に乗り気ではないようだし……」
「へぇ? 珍しい。カーライル様でも、その気にさせられないってことか」
「どうも、好きな男がいるんじゃないかと思われると言っていた」
リーゼンラールの言葉に、アリと一緒にキョロキョロと辺りを見回していたユーリシエルは、息を呑んだ。
ファティマが好きな相手と言えば、イスファールに違いない。
「おっと……これはまた、小説にでもなりそうな話だな?」
「ああ」
エルウッドは、書庫を一通り案内しようと言ってくれ、先に立って歩き出す。
ファティマの話題はそれで打ち切りとなったが、ユーリシエルは息苦しくなって来た。
アリアバードでは、王族が身分ある貴族に降嫁することもなくはないが、それは政略的なものであって、恋仲だからということはあり得ない。もしも、カーライルとの縁組が上手くいかなかった理由が、イスファールにあると知れたら、大変なことになるに違いない。
そんなことを考えて内心心穏やかではなかったユーリシエルだが、初めて目にする本の山に驚き、興味津々といった様子でキョロキョロするアリが何かしでかさないかと心配で、物思いに耽ることも出来ない。
書庫の中は、天井まで届く書棚が通路の左右に立ち並び、天井付近にある小さな窓から差し込む光で、辛うじて書名が読める程度の明るさしかなかった。
その薄暗さと古い紙の匂いが、アリには少々恐いものらしく、ずっとユーリシエルの袖を掴んだままだ。
エルウッドは、書庫の奥へと案内しながら、その分類について簡単に説明してくれた。
書庫に収められる書物はまず、内容によって分類され、更にその分類によっては年代別、著者別に分けられている。
文書官はどこに何があるかすべて頭に入っているのはもちろんだが、四人いる文書官を纏める文書官長ともなると、書物の内容まで頭に入っているのだという。
「どんな本を収集するかは、毎年の事業を話し合う会議で説明し、国王の許可を得て決めているけれど、ラーゼルに関する歴史書に関しては新旧を問わずに収集している。もちろん、王国の歴史を編纂する係があるんだけど、そちらは都合のいい歴史しか書かないからね」
文書官は、あくまでも公正に収集する立場を取っており、蔵書の中には王族を批判する内容の書物もあるのだと、エルウッドは片目を瞑って見せた。
「書いた本人たちは、気が気じゃないだろうけどね」
「まったくだ。だから、サイレルは自分の書物を寄贈したがらないんだろう」
リーゼンラールが何気なく口にした名に、ユーリシエルは思わずはっとして、振り仰いだ。
「あの、サイレルって人の本は、書庫にありますか?」
ユーリシエルは、期待に胸を膨らませたが、リーゼンラールとエルウッドは顔を見合わせて首を横に振った。
「残念ながら、城の蔵書にはないんだ。サイレルは、自分と親しい人間にしか著作を渡さないし、絶対に王立の蔵書庫へは収めるなと誓約させるんだよ」
エルウッドは、申し訳ないというように説明した。
「そうなんですか……」
では、どうあっても他の著作は読めないということかとがっかりしたユーリシエルに、リーゼンラールはやや間を置いて信じられない言葉を呟いた。
「読みたいなら、貸してやろう」
「えっ!?」
「城下の館にあるから、今直ぐ渡すことは出来ないが…」
「ど、どうして持ってるのっ!?」
ユーリシエルは思わずリーゼンラールに掴みかかってしまった。
「王立学院という、騎士や行政官を養成するための学校で一緒だったんだ」
「一緒? あの、サイレルって、いくつなんですか?」
「向こうは三つ下だから、確か二十一のはずだ。そうだよな? エル」
「ああ。女性として一番美しい時期なのに、政争に明け暮れるオヤジどもと毎日顔を合わせるだけの毎日を過ごしているなんて不毛だと、文句を言っている」
リーゼンラールの年が、思った以上に若いことにまず驚いたユーリシエルだが、サイレルの年齢と性別には更に驚いた。
「二十一……若いじゃないですかっ! しかも、女性なんですかっ!?」
ユーリシエルはそのまま座り込みたい気分になった。
ラーゼルは、本当にアリアバードとは大きく違う。女性でも勉強出来るし、女性でも本を書ける。そして女性でも、多くの人から尊敬されるのだ。
「もしかして、サイレルの本を読んだことがあるのかな?」
エルウッドは、ユーリシエルの興奮ぶりが尋常ではないと思ったらしい。
「はいっ! ラーゼルの商人から譲って貰って読んだんですけど、とても興味深くて、だから是非他のものも読んでみたくて……」
サイレルの本に出会わなかったら、ラーゼルに興味を持つこともなかったかもしれない。ユーリシエルは、それ程衝撃を受けたのだと熱弁を振るい、出来れば本人にも会ってみたいのだと訴えた。
「そんなに会いたいのか?」
会いたい、と目で訴えるユーリシエルに、リーゼンラールは難しい顔をする。
「出来れば会わせてやりたいが……相当に偏屈モノだからな」
二階部分には近現代の著作が収蔵されているのだと石階段を上りながらエルウッドは微笑んだ。
「愛想があんまり良くないのは否定しないけど、別に偏屈ってことはないだろう?」
「あれを偏屈といわずに、誰を偏屈というんだ」
「そうは言うけど、昔に比べればマシだよ。でも、ちょうど良かったよ、実は……」
エルウッドが笑顔でユーリシエルに何かを言いかけたとき、女性の声が響いた。
「おまえに言われたくない、リゼ」
階段を上りきったところには執務用と見える机がいくつか並んでおり、その奥に応接用と思われるソファがある。
机はどれも空だったが、ソファの上に人が寝転がっていた人物が、仰け反るようにして首を曲げ、文句を言った。
「いっつも仏頂面で偏屈なのは、そっちじゃないか」
「サイレル」
リーゼンラールが呟いた名に、ユーリシエルは目の前にいるのが、会いたいと願っていたその人であることを知る。
金交じりの赤みを帯びた茶色の長髪を無造作に纏め、ゆったりとした灰色の服を着た人物は、面倒くさそうに起き上がり、焦茶色の瞳でリーゼンラールを一瞥するとにやりと笑った。
「仏頂面が、随分にやけてるじゃないか。可愛い子だな? 西方のアリアバードの姫君が来ているとか言ってたから、その従者か。いや、でも……もしかして、リゼの隠し子か?」
章立てをしようかと思い、変更を加えました。
お話の流れは変わりませんので、この先もお楽しみ頂ければ幸いです。