2-2
楽しいだけでは終わらない。
初めて出会う人。初めての感情。
目まぐるしく動き出す運命。
シエルの好奇心はますます大きくなります。
「随分と、よく笑うようになったよね」
「そうさね。やっぱり、恋をすると女は変わるさね」
「だよね!」
「ち、ちち、違うからっ!」
一緒に洗濯物を踏み洗いしている同僚の侍女たちは、ラーゼルへ着いてからというもの、いつでも機嫌がいいではないかとユーリシエルをからかう。
「そりゃ、あんな男前が毎日のように誘いに来てくれたら、あたしだって舞い上がっちゃうね!」
「そうさ! 羨ましい。たまには代わってよ?」
「でも、本当に、本気だと思う?」
「うーん、どうだろね?」
「一時のお遊び?」
「そうかも」
いずれ自分たちはアリアバードへ帰るのだと言う侍女たちの言葉に、ユーリシエルは洗濯物を踏んでいた足を止めた。
ラーゼルの王城へ入ってから、既に五日が過ぎていた。
カーライルは、未だファティマとの結婚式を準備する様子もなく、しかし毎晩のように宴を開いては、色んな人々を呼び集め、異国の姫君を紹介しているようだ。
ファティマが持ってきたアリアバードの国宝『天の光』見たさに、多くの貴族たちが押しかけているようだと、従者たちは噂していた。
でも、そんな華やかな宴は、下働きの従者たちには全く関係ないことだ。夕食に豪華な料理がおこぼれで振舞われるくらいで、夜毎聞こえる音楽を耳に、ぎゅうぎゅう詰めの部屋で眠るだけ。
だが、ユーリシエルは毎日が楽しくて仕方なかった。
着いたその日に知り合ったカーライルの側近だというリーゼンラールは、毎日アリとユーリシエルを誘っては、短い時間ではあるが、あちこち城の中を案内してくれた。
ユーリシエルの好奇心を満たすために寒さや暑さを和らげる建築技法や上下水道の設備、進んだ医療技術などを見せてくれ、アリの好奇心を満たすために舞踏会が開かれる大広間や騎士たちの訓練場、色とりどりの花が咲き乱れる美しい庭園などを見せてくれた。
部外者を連れて色んな場所に出入りするだけで、リーゼンラールの迷惑になるのではと心配だったが、城内で行き会う誰一人、驚いた顔もしなければ冷たい視線を投げかけてくることもなかった。それどころか、すれ違うたび、皆が皆、最低限一礼するし、剣を帯びている騎士らしき人たちに至っては、直立不動で敬礼を送ってくる。
リーゼンラールはそんな彼らに対して気さくに挨拶を返し、一言二言話しかけ、特別親しい様子の相手にはアリとユーリシエルを紹介してくれた。
王子の側近になるくらいだから、貴族に違いないが、少しも傲慢なところなどなくて、侍従や侍女、庭師や下働きの少年少女たちとも気軽に世間話をし、困っているのを見ると手助けしていた。
いつでもお腹を空かせている育ち盛りのアリのために、厨房に顔を出して菓子の余りものを貰ったときも、丸顔に髭をたくわえた料理長に新作料理の試食を頼まれ、奇怪な味に顔をしかめながらも律儀に感想を述べていたし、庭師の老人が、腰が痛いというのを聞いては、花の植え替えを手伝うと言い出し、アリと二人で手を貸した。
城中の人たちと知り合いで、その誰もがリーゼンラールを好いているようだった。
アリアバードの王宮にいた官吏たちが、王の寵愛を競って足の引っ張り合いをしているのとは大違いだ。
ラーゼル人は、皆リーゼンラールのようなのか、それともリーゼンラールが特別なのか、他に親しいラーゼル人がいないため、ユーリシエルには比較のしようがない。
でも、比較するまでもなくリーゼンラールがいい人だということは、分かる。
東方言語の発音が上手く出来ず、リーゼンラールの名をきちんと呼べないアリのために、『リージェ』と呼んで構わないと言ってくれるし、同僚の侍女たちがいうように、『男前』だ。
リーゼンラールは、ラーゼル人の中でも体格のいい方で、背が高く、鍛えた身体は少しの緩みもない。
顔立ちも、普段は険しい雰囲気を漂わせているが、笑うとびっくりする程若く、少年のようになる。
それはもう、普通の女性なら恋に落ちてもおかしくない魅力溢れる人物だということは、会って数日のユーリシエルにもわかる。
ただ、一つ難点があると言えば、年が違いすぎた。いい感じに苦みばしった、無駄な柔らかさのない引き締まった頬や、いつも難しいことを考えているせいで消えないのだろう眉間の皺の深さは、どう見ても三十代だ。政略結婚の相手なら、年が離れていても普通だけれど、恋人となればやっぱり同じくらいの年の方がいいような気もする、と思ったところで、ユーリシエルは、一体自分は何を考えているのだと、とんでもない考えを追い払おうとして、ぶんぶんと頭を振った。
「シエル!」
「えっ!?」
一生懸命頭を振りすぎたユーリシエルは、同僚の侍女に小突かれ、くらりとしてよろめいた。
「きゃっ!」
「わっ! 馬鹿、あんたっ!」
踏みとどまろうとした足がたらいの底ですべり、思い切り水の中へ尻餅を着いたユーリシエルに、同僚たちは一瞬沈黙し、ついで爆笑する。
「あんた、ほんとにそそっかしいね!」
「まったく、あんたといると退屈しないよ」
「この前は、侍従長があんたに色目を使おうと呼びつけた席で、躓いて酒をぶちまけるしさ!」
「いや、あれはすっきりしたよ」
「ほんとほんと。あのエロジジイ、いい加減にしろっての!」
侍女たちは、五十がらみの侍従長が、隙あらば若い侍女に手を出そうとしているのが気に入らないのだと口々に文句を言い立てる。
びしょぬれになったユーリシエルは、つくづく要領の悪い自分にため息しか出ない。
「さっさと着替えておいでよ。今日も、お迎えが来るんだろ?」
「あ! それなら、そのまんまの方がいいかも」
「そうだね! 実にいい眺めだもんね!」
同僚たちは、濡れて肌に張り付いた服がなまめかしいのだと笑い転げる。
アリアバードの王族が着る衣装は、体の線が露にならないようになっているため、ユーリシエルとしては下働きの侍女たちが愛用している動きやすいズボンを履いているだけでも、落ち着かない。
それなのに、濡れたせいで身体の線がはっきり分かる格好のままで歩くなど、とんでもない。
「い、急いで着替えてくるからっ!」
「もういいよ。あたしたちで終わらせるし」
「ううんっ! ちゃんと、戻るからっ!」
いつもユーリシエルの仕事を肩代わりしてくれる同僚たちは、見知らぬ国の見知らぬ人々と交わる勇気は、なかなか持てないのだろう。ユーリシエルを通して色んな話を聞くのが楽しいから、仕事を変わってやるのは全然嫌じゃないと言ってくれる。
それでも、甘えてばかりでは心苦しいと、ユーリシエルは走り出した。
宿泊棟への最短距離である中庭を横切る。
ずっと走り続けたいところだったが、すぐに息が上がり、足を止めた。
いっそ、このまま日光に当たっていれば乾くかもしれないと、青く晴れ渡った空を見上げる。
ラーゼルでは、雨は夜に降り、昼間は晴れていることが多いとリーゼンラールが言っていたなどと思い出していたシエルは、背後からいきなり呼ばれて飛び上がった。
「シエル」
「きゃっ!」
びっくりして振り返ると、たった今思い浮かべていた本人がそこにいた。
「リ、リージェ!」
「まだ仕事の途中か?」
「え。あ、はい。今、洗濯をしていて濡れたので着替えに……」
事情を説明しようとしたシエルは、今の自分の格好を思い出し、慌ててしゃがみ込んだ。
「みみみみ、見ないで下さいっ!」
「もう遅いと思うが?」
リーゼンラールは、落ち着いた声で応じる。
「おおお、遅くとも早くとも、とにかく、見ないで下さいっ!」
いくらここがラーゼルであっても、女性がこんな格好で歩いているわけがない。
ユーリシエルは、恥ずかしさのあまり死にそうだと思いながら、蹲る。
「そのまま歩いていれば、他の者の目に留まる」
穏やかな声が耳元でしたかと思うと、ふわりと大きなものがシエルを包んだ。
「貸してやるから、早く着替えて来るといい。風邪を引く」
ユーリシエルは、自分を包み込んだものを見下ろし、それがリーゼンラールの外衣だと知る。
ラーゼルの男性は、あまりゆったりした服を着ておらず、その代わり雨風を凌いだりするための外衣を肩に巻いていることが多い。
上質な毛織物のそれは、とても温かくて、いい匂いがした。
「あ、ありがとうございます」
これならば、透ける心配もないと安心して、立ち上がる。
「アリと一緒に、いつものところで待っている」
そのままあっさりと背を向けたリーゼンラールに、ユーリシエルはほっとして、自分が寝泊りしている部屋へと駆け込んだ。
手早く濡れた服を脱ぎ、風呂場に干して替えの服を着込む。
急いで着替え、リーゼンラールの外衣を手に部屋を出たところで、ユーリシエルはふと、リーゼンラールが随分と落ち着いていたことに思い至る。
別に、女性のあられもない姿を見ることなど珍しく無いとでも言いたげだった。
慣れているのか。
そう思った瞬間、何故か胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
思わず手にした外衣を握り締めたユーリシエルは、棟から渡り廊下へと向かう近道を取るために正面の入り口ではなく、裏口から出た。
今まで感じたことのない痛みに気を取られ、俯いていたユーリシエルは、茂みを横切るつもりがそのまま突っ込んでしまった。
「あっ!」
美しく刈り込まれた潅木の枝が、ズボンの裾に引っかかり破れそうになる。
慌ててしゃがみ込んだユーリシエルの頭上に、突然険しい声が響いた。
「誰だっ!?」
咄嗟に茂みの奥へと身を潜めると、直ぐ側で二人の男の声がした。
「誰かいたような?」
「猫か何かだろう。この時間、ウロウロしている者はいないはず」
一つは侍従長の声。もう一つは、知らない声だ。
「それはそうですが、警戒するに越したことはない。こんなことが明るみに出ようものなら、私もあんたも、二度と国へは帰れない」
鷹揚に気にするなと言った男に対し、侍従長は神経質に言い返し、茂みを乱暴に手で払う。
生きた心地もせずに蹲ったユーリシエルは、茂みの隙間から向こう側に立つ人の脚を見やる。
侍従長は、アリアバード人の履く白いサンダルだが、もう一人は鮮やかな赤の革ブーツを履いていた。白い刺繍の紋様が美しい靴は、高価なものに違いない。
流暢に西方言語を話しているが、少しだけアクセントが違うから、きっとラーゼル人なのだろうとユーリシエルは思う。
「そうなったら、どこか他の国へ逃げるだけのこと。一生遊んで暮らせるだけの金が手に入るのだから、思い悩むことなど何もない」
乾いた笑い声を上げた男に対し、侍従長はため息をついた。
「あんたはそうだろうが、こっちには家族がある。アリアバードでは、裏切り者の家系は根絶やしにされる」
「つくづく野蛮な国だな。小さな石にしがみついているから、くだらぬ真似をするようになる。いっそ、他国の支配を受ければ政も変わるだろう。物事を大きく変えるには、戦乱による破壊というのは、有効な手立ての一つでもある。人は、新しいものを取り入れようとするし、そうなれば我々も儲かる」
「ふんっ! 買う人間がいなくなってしまえば、お終いだ。血を流すのは、偉いヤツラじゃなく、我々のような貧しい者だけだろう」
侍従長は、越えられぬ一線というものがあるのだと忌々しげに吐き捨てた。
「それが嫌なら、高みへ登ればいいのだ」
「ラーゼルでは可能だろうが、アリアバードでは無理だし、そのつもりもない。こっちは、悪玉の親分になどなりたかないんだ。せいぜい、おこぼれに預かるだけでいい。身に過ぎた悪事は、地獄への入り口だ」
サバサバと言った侍従長は、何かを渡したようだ。箱の蓋が開くような音がして、衣擦れの音が続き、感嘆のため息が聞こえた。
「……見る価値のある物だな」
「だが、俺のような者には過ぎた代物だ。さっさと仕舞ってくれ」
侍従長に急かされた男が苦笑する声が聞こえる中、箱の蓋が閉ざされる音がした。
鍵を掛ける音が続き、そして唐突に二人は別れた。
足早に立ち去るラーゼル人の足音と、心なし足取りが重い様子の侍従長の足音が消えたところで、ユーリシエルはようやく大きく息を吐き出した。
一体、何だったのだ。
そろそろと茂みから這い出し、潅木の上へ顔を出して辺りを見やる。
どこにも、人影はなかった。
あの二人が、よからぬことをしていたのは間違いなさそうだが、一体何をしていたのか皆目見当も付かない。首を捻ったユーリシエルだったが、結論を得るには情報が少なすぎたし、推測しようもない。
そして、自分が人を待たせているのだということを思い出し、慌てて茂みを突っ切って、渡り廊下を走った。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございます。
異国の生活を楽しむシエルに忍びよる陰謀の影。
恋の予感もありつつ、それだけでは終わらないシエルの冒険に、この先もお付き合い頂ければさいわいです。