2-1
ようやく旅の目的地に辿り着きました。
好奇心旺盛なシエルの冒険は、ここからようやく始まります。
アリアバードを出てから、ラーゼルの国境までひと月。国境からその王都までは、更に半月。
長い距離を歩いた経験のないユーリシエルは、王宮を出て早々に、足に血豆を作ってしまったが、同僚の侍女たちの的確な処置のお陰で酷くならずに済んだ。
しかし、ある程度良くなるまで荷車に乗せて貰うことになり、自分ひとりだけ楽をしているようで心苦しかったユーリシエルは、何か自分に出来ることはないかと考え、同僚たちにラーゼルの公用語である東方言語を教えることを思いついた。
簡単な挨拶ぐらいは出来た方がいいだろうし、何かと役に立つと思ったのだ。
最初は皆、面倒くさいと思っていたようだが、実際国境の町で隊商宿に宿泊した時、もてなしてくれた宿の人たちに覚えた言葉でお礼を言ったところ、とても喜ばれたことで、俄然やる気になった。
そうして、期待と興奮、わずかな自信で胸を膨らませた一行は、ラーゼルの王都ハウルミュラーをぐるりと取り囲む灰色の高い城壁にまず驚き、それを潜ったところで、遥か彼方でもはっきり見える尋常ではない大きさの白亜の王城に驚いた。
「ひゃぁ! すっごい! おっきいなぁー!」
無邪気なアリの叫びに、ユーリシエルはただ茫然として頷いた。
幾つもの尖塔が天に突き刺さるかのように聳え立つラーゼルの王城は、アリアバードの王宮など単なる小屋ではないかと思う程の大きさだ。
町を囲んだ外壁から城門までの距離もかなりもので、城自体は更に二重の城壁で守られている。
見上げてもその最上部が分からないほど大きい城門に、一行はぽかんと口をあけてしまった。
「本当に、お城ってあるんだね」
アリのどこか的外れな感想に、ユーリシエルもただ頷くばかりだ。
こんな大きな城を持つ大国の王子が、本当にアリアバードのような小国から妃を貰うのだろうか。
王都へ入るまでは、自分たちの一行はかなりの大きさの一隊だと思っていたが、今ではその辺の商人たちの一隊と変わらないのではと思う。
隊列の進むままに一つ目の城門を潜ったところで、直ぐ二手に別れる。
ファティマの乗った馬車は、豪華な衣装の詰まった幾つもの箱や贈答品の数々と共に、別途用意された城の奥まった場所に滞在するため、二つ目の城門へと向かい、下働きの従者たちは、一つ目の城門と二つ目の城門の間、といっても軽くもう一つくらい城が建ちそうな広さがある一角に用意された宿泊棟へと向かった。
ようやく長旅を終えたとはいえ、のんびり寛ぐわけにはいかない。
アリと行動を共にしていたユーリシエルは、長旅で疲れた馬たちを厩舎へ繋ぐ役を請け負ったが、その厩舎の規模は王城と同じく桁外れだった。
「うわぁ……馬がたくさんいる」
城門に沿って作られた厩舎は、人が住めそうな大きさの長屋がいくつも並び、見事な体躯の軍馬たちが悠然と草を食んでいた。
奥には、緑の芝生が美しい広い馬場があり、引き馬をしている調教係が見える。
ラーゼル人の厩舎係に指示を貰って、空いている場所へと馬たちを導いた後、アリはキョロキョロと辺りを見回す。
「はぁ。ほんとにすっごいね!」
アリは、アリアバードの馬たちよりも一回りは大きい馬たちを見上げ、意外と人懐こいその鼻面を撫でてやる。
「アリ! 触らない方がいいんじゃない?」
ユーリシエルは、何かあったら大変だと慌てて注意する。
「えーっ!? だって、こんな立派な馬なんか、滅多に見られないよ?」
「それはそうだけど、人の物なんだし……」
根っからの馬好きであるアリは、名残惜しそうに馬に頬ずりする。
馬の方も、自分たちを好いてくれる人間は良く分かるのか、機嫌よく頬ずりし返す。
こんなところを見つかったら怒られると、ビクビクしていたユーリシエルは、いきなり背後から響いた声に、文字通り飛び上がった。
「触っても構わないが、中には気性の荒い馬もいる。気をつけた方がいい」
「きゃっ!」
振り返ると、眩い金の髪が見えた。
「驚かせて悪かったが、そこを退いてくれないか。馬を戻したいんだ」
「ご、ごめんなさいっ!」
慌てて道を空けたユーリシエルは、自分より頭二つ分は背の高い相手を見上げた。
アリアバードでは見たこともない、金の髪と濃い紫色の瞳が印象的な男性だった。
ラーゼル人の特徴でもある、大きな身体とがっしりした骨格はもちろんだが、その腰に帯びている長大な剣からして、単なる侍従などではないことは明らかだ。ラーゼルの身分の一つ、騎士かもしれないと見当を付ける。
「その格好……もしかして、今日到着する予定だったアリアバードの姫君の従者か?」
馬を房に戻し、水と餌を用意してやってから、騎士と思しき人物は、今一度ユーリシエルとアリに向き直る。
「は、はいっ! つい先ほどファティマ王女ともども、王城へ到着致しました。わ、私はシエルと申します。これは、アリです」
礼儀正しく挨拶したユーリシエルに、騎士は目を見開く。
「随分、こちらの言葉を喋れるんだな? 勉強したのか?」
「い、いえ、あ! は、はい」
慌てふためくユーリシエルに、騎士は穏やかな笑みを浮かべて左手を差し出した。
笑うと、雰囲気が一変した。
眉間の皺が消え、厳しく引き締まった頬が緩み、切れ長の目尻に笑い皺が刻まれる。単に格好いいというのではなく、よく磨きぬかれたいぶし銀の逸品という感じに、ユーリシエルは男性にも色気というものがあるのだと思いつつ、見とれてしまった。
「リーゼンラール・ファレスだ。そちらの姫君の夫となる予定の、カーライル王子の側近をしている」
すっかり上の空であったが、目の前の人物が口にした肩書きを耳にして、ユーリシエルは一気に現実へ引き戻される。
「え?」
王子の側近ということは、かなりの身分を持つ人物ではないのかと驚きつつも、何をする気なのかと差し出された手を見つめた。
「ああ……あちらには、こういう習慣はないか。ラーゼルでは、挨拶代わりに自分が敵意を抱いていないと示す意味も込めて、握手するんだ」
その習慣は、聞いたことがある。
だが、果たして、王子の側近が一介の従者に向かってする行為なのだろうか。
大きく目を見開き、瞬きを繰り返すユーリシエルに、リーゼンラールは勝手に手を握り締めて来た。
大きくて、固くて、でも温かい手をユーリシエルが恐る恐る握り返すと、リーゼンラールは一度強く握ってから、離した。
「城の中には、色んな人間がいる。もしかしたら、居心地の悪い思いをするかもしれないが、そういう時は直ぐに知らせて欲しい。こちらとしても、ファティマ王女には心地よく過ごして貰いたいと思っているんだ。言葉を理解出来る人物が従者の中にもいるなら、好都合だ。忌憚のない意見を聞かせて貰いたい。自分の居室は、カーライル王子の居室の傍にあるが、警護の兵士に言ってくれれば、いつでも通すように言っておく」
「お心遣い、ありがとうございます」
礼を述べたユーリシエルに、リーゼンラールは何故か苦笑した。
「アリアバードの従者は皆、そんなに礼儀正しいのか? 羨ましい限りだな」
ラーゼルの従者たちは、主人にも結構遠慮なく物を言うのだと肩を竦める。
「そんなことをして、クビになったりはしないのですか?」
びっくりして問い返したユーリシエルに、リーゼンラールはあっさりと頷いた。
「もちろん、クビになることもある。でも、能力のある者なら、主も手放したくはないだろう?」
従者が主人と駆け引き出来るなんて、アリアバードでは夢のまた夢だとユーリシエルは思う。
身分の低い従者など、道端に転がっている石よりも気にかけたりしないのが普通であり、一度も主人から声を掛けられることなく仕事を終えることだって普通なのだ。
「……ちゃんと、人間として扱われているんですね」
思わず口をついて出た言葉に、リーゼンラールは一瞬で笑みを消した。
その表情があまりにも驚いているようだったので、ユーリシエルは慌てて言い訳する。
「え、あ! いえ、何でも……その、習慣が違うんだなと思って」
「そうだな。国が違えば、習慣は違うものだ。でも、国の境目など地面のどこにも描かれていない。実際、国境など、越えようと思えば案外あっさり越えられるものだ」
リーゼンラールはじっとユーリシエルを見つめると、低い声でその先を続ける。
「望めば、どこへでも行ける。ただし、その一歩を踏み出す勇気があればの話だ。踏み出したら、先へ進むしかないのだから」
もう引き返せないと言われた気がして、ユーリシエルは思わず唾を飲み込んだ。
その顔を見たリーゼンラールは、厳しい表情のまま、大きな手で軽くユーリシエルの肩を叩いた。
「城内にはあちこちに警備兵がいて、用もないのにウロウロしていると牢へ放り込まれる。さっさと皆のところへ戻った方がいい」
そう忠告すると、背を向けて歩き出す。
アリは、何かまずいことになったのかと不安そうにユーリシエルを見上げてくる。
「戻ろうよ」
アリに引っ張られるようにして厩舎を出たユーリシエルは、遠ざかるリーゼンラールの背を見て、自分でも何故か分からぬままに追いかけた。
「あのっ! ま、待ってくださいっ! リーゼンラール、さまっ」
ユーリシエルが伸ばした手で縋る前に、リーゼンラールは振り返った。
「様、はいらない」
「リ、リーゼンラール」
「何だ?」
「あ、あの、お城の中を見たい場合はどうすればいいのか、教えてもらえませんかっ!?」
勝手に出歩いて捕まり、牢へ放り込まれた挙句、イスファールやシンラッドにバレるのだけは避けたい。
でも、だからといって何もせずにじっとしているなんて、勿体無い。こんな大きな城の中を見られるなんて、二度とないかもしれない機会なのだ。
好奇心を抑え込むことなんて出来やしないと意気込むユーリシエルに、リーゼンラールは片眉を引き上げた。
「あのっ、お城の中というか、いちいち井戸を使わない給水の仕組みとか、下水の設備とか、大きな城門を開閉する機械とか、高い建物を作る建築技法とかそういうものを見たいのであって、別に政治的、軍事的に問題のある場所を見たいわけじゃなくて……」
ラーゼルの進んだ技術の話を本で読み、商人たちからもあれこれ聞いていたユーリシエルは、是非ともこの目で確かめたいと思っていたことを並べ立て、あらぬ誤解をされぬように先回りして言い訳したが、リーゼンラールが呆気に取られているようだと気付き、慌てて口を閉じた。
「あ、あの、その、見られる場所だけでいいんですけれど……」
「明日、案内しよう」
リーゼンラールは、あっさり承諾した。
「昼前に、滞在している棟へ迎えに行く」
リーゼンラール自ら案内してくれるのかと、ユーリシエルは嬉しいのと驚いたのとで、複雑な表情になる。
「そちらの少年も一緒に行くか?」
リーゼンラールは、ユーリシエルの腰に縋りつくようにして見上げているアリを顎で示す。
「ね、シエル。このオジサン、何て言ってるの?」
アリは、警戒心丸出しの顔で囁く。
ユーリシエルは、リーゼンラールの申し出を通訳してやった。
「明日、お城の中を案内してくれるって言うの。一緒に行きたい?」
「えっ! うんっ! 行くっ!」
即答したアリの様子に、リーゼンラールはユーリシエルの通訳を待たずに頷いて見せた。
「一人も二人も一緒だからな」
ユーリシエルは、降って湧いたこの幸運に舞い上がりそうな気持ちになりながら、出来るだけ礼儀正しく感謝の意を述べた。
「お忙しいところ、本当に厚かましいお願いを聞き入れて下さって、ありがとうございます」
リーゼンラールは、大げさすぎるというように苦笑しながら、首を横に振った。
「大したことじゃない。そう畏まられると、こっちもやりにくい。普通でいいんだ、普通で。じゃあ、また明日な。シエル、アリ」
大きな手でアリの頭をくしゃくしゃと撫でると、リーゼンラールはあっという間に去ってしまった。
「シエル。何だか、偉い人だったんじゃない? 後で、侍従長に怒られないかなぁ?」
リーゼンラールの雰囲気から、それなりの身分がある者だと感じ取ったらしいアリが、おずおずと尋ねる。
「今の人は、リーゼンラールと言って、ファティマ王女の夫になるカーライル王子の側近なんだって」
「げっ! そんなに凄いオジサンなんだ……大丈夫かなぁ?」
アリの不安げな様子に、ユーリシエルは一瞬、自分はあまりにも軽率だったかと思いかけたが、折角の機会をふいにするなどあり得ないと、後ろ向きな思いを打ち消した。
「でも、アリアバードに帰るまで、広いお城の一角でじっとしているのはつまらないでしょう?」
「うん」
「大丈夫よ。凄く親切そうな人だったし。でも、お行儀よくしなきゃ駄目だと思うけど」
「楽しみだねっ!」
常日頃から、あまり思い悩むことのないアリは、あっさり納得して喜びを爆発させ、飛び跳ねる。
ユーリシエルも出来ればアリのように飛び上がって喜びたいところだ。
「シエルも楽しみなんでしょ? 笑ってるもん!」
「えっ!」
どうやらにやけていたらしい。慌てて頬を押さえたユーリシエルに、アリはにやりと笑った。
「それとも、あのラーゼルの人が格好よかったから?」
「そ、そんなことないわっ!」
確かに、リーゼンラールは整った顔立ちをしていたけれど、そういうことではないのだとユーリシエルは言い訳した。
「よーしっ! 今日は、はりきって働こうね! そしたら、明日、ちょっとぐらい、いなくなっても大丈夫だよ!」
まだ七歳なのに、アリの世渡りの上手さはユーリシエルの上を行く。
踊るような足取りで先を行くアリは、ふと足を止めると空を見上げた。
「見て! シエルの目と同じ空の色だね! アリアバードよりも、高くて遠い」
アリの小さな指は、高く澄んだ空を指差していた。
白い鳥が大きな円を描き、千切れた雲が流れて行く。
空が広い、とユーリシエルは感じた。
どこで見ようと同じはずなのに、ラーゼルの空はとても広く自由に見えた。
ここまでお付き合い頂き、ありがとうございます。
この先もお付き合いいただければ幸いです。