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八:泣く聖獣




 そこでは『表』の店に並んでいた高直(こうじき)な品々は壁から消え失せ、代わりに、膨大な量の書籍や、綴じの外れた(ページ)などが床のあちこちに散乱している。書籍以外にも硝子(ガラス)でできた珍妙な装置、赤銅色の短剣、年季の入った鉄製の薬研や、得体の知れない動物の剥製などが転がっている。

 どれも風変わりであることに違いはないが、そこに売り物の趣はない。


 店内にはいつだって濃密な珈琲(コーヒー)の薫りが漂っている。『裏』の亭主は無類の珈琲好きだ。

 ほとんど何に対してもこだわりを持たないこの男が、唯一手間を惜しまないのがこの珈琲だ。豆の選定はもちろん、焙煎、抽出、及びそれに用いる器具の手入れまでを、毎度神経質なまで入念に行う。


 その珈琲党・蛇川(へびかわ)真純(ますみ)は、窓から離れると再び安楽椅子へと腰掛けた。鋭敏な耳は、階段を駆け上がる軽やかな音をはっきりと捉えている。


「どうする、上がってくるぞ。ここに連れてきたこともある娘だろう。名前はなんと言ったか……ああ、そうだったねくず子さん。花乃(はなの)さんだ」


 椅子の傍らでくず子が肯く。追跡者はくず子とも顔見知りの娘・花乃であった。


 吾妻は困ったように頬をかきながら壁に凭れかかった。


「だが、いつも扉を開けていたのは俺だ。仕組みを知らなけりゃ、普通引き開けはしないはず、――シッ」


 男にしては肉厚な唇の前に指を立て、吾妻は口を噤んだ。寸瞬の後、把手(とって)を掴むガチャリという音が聞こえてくる。


 大福に棒が生えたような形のこの把手は、右にも左にも回らない。これは廃ビルの全階に共通した仕様だ。

 何も知らない来訪者はまずそのことに戸惑うが、捻る役割を持たないものと理解すれば、十中八九が押してみる。そうすれば扉は難なく開く。もし引いたところでドア枠に阻まれて扉は開かない。ここ三階を除いては……


「押した」


「よし!」


 音で察知した蛇川の言葉に、吾妻が小さく拳を握る。反対にくず子は肩を落とした。久しぶりで花乃と遊べるかと期待していたのだ。


 気を落とすくず子のおかっぱ頭を、吾妻の大きな手が優しく撫でた。


「悪いな、くず子ちゃん。お嬢はまた別の機会に連れてくるから」


 お嬢。

 吾妻が親しみをこめて呼ぶその少女の名は、鴛鴦(おしどり)花乃。彼が属する武闘派極道・鴛鴦組組長、鴛鴦呉壱(ごいち)の愛娘だ。


 蛇川だけが聞き取れる花乃の足音は、どうやら『表』の店内を歩き回っているらしい。慌ただしい足音からは、彼女の苛立ちと焦燥とが感じられる。やがて静かな足音がそれに向き合い、ようやく落ち着きを得たところをみると、おそらく『表』の亭主が彼女をうまく宥めているのだろう。


 そう蛇川が説明すると、吾妻は少し疲れを滲ませた様子で笑った。それを見た蛇川が、にやにやといやな笑みを浮かべる。


「罪深いね。随分と懐かれているじゃないか」


「んん……まあ、しかしお嬢はまだ若い。親鳥を追いたくなる気持ちと、色恋の違いがまだ分からんのさ」


「さて、それはどうかな。なかなかしっかりとしたお嬢さんに見えたが。応えてやる気はないのか、色男?」


 揶揄う口調の蛇川に、吾妻がいっそう眉を垂らす。


「莫迦言え、十七になったばかりだぞ」


「おや。『いわた』のと同い年じゃないか」


 吾妻が驚いて「へえ、先生覚えてたのか」と聞けば、


「いや。さっき自己申告していった」とあっさり言う。


「ああそう……。なら、先生はりっちゃんを情愛の対象として見れるかい」


「無理だ! まだ乳臭いガキじゃないか。あんな鼻垂れのデカ尻女……おっと、すまない言いすぎたかな」


 くず子に突つかれ、蛇川は薄っぺらな謝罪の言葉を口にした。おそらく反省はしていないだろう。


「そうだね、ふたりともくず子さんの大事な友人だものな。悪く言うのはよそう……痛てて、本当だとも。痛て。くず子さん分かった、分かったから、こいつに茶を出してやってくれ。どうせしばらくは動けんだろうから」


 なおも愛らしい小さな拳固を作って凄むくず子に、蛇川は優しく笑って見せる。かと思えば安楽椅子に座り直し、吾妻へと向き直った。


「そういえば、鴻上誠一郎が地方議員に転じたことを知っているか」


「いや。例の息子の問題思想が明るみになったか」


「それがどうにも違うらしい。関係者によれば、自ら地方転任を望んだそうで……」


 小難しい話を始めてしまった大人達に肩を落とし、仕方なくくず子はお茶の用意に取りかかった。


 吾妻は約束を守る男だ。きっと後日、花乃を連れてきて今日の埋め合わせをしてくれることだろう。



 ◆ ◆



 それから数日は何事もなく穏やかに過ぎた。


 まともな人付き合いをほとんどしない蛇川のところにも数人ばかりは挨拶に訪れる客があり、また定食屋『いわた』ではささやかな新年の宴などもあり、くず子と連れ立って初売りに出掛け、合間合間に雑多な依頼をこなすうちに早や一月も終盤に差し掛かった。


 珍しい顔が『骨董屋・がらん堂』を訪れたのはそんな一月の暮れ、冬の冷え込みがいっそう厳しさを増す昼下がりだった。


 まだ昼過ぎだというのに外が暗い。昨日から降り続く雨のせいだ。

 雨は未舗装の道路の土埃を静めてくれるが、同時に気温も引き下げるのでこの時期ばかりは歓迎できない。その来訪者も、濡れた雨ゴートの下で細身の身体を震わせていた。


「お久しぶりです、蛇の旦那」


 強い関西訛りのその男は、雨ゴートを脱ぎもせずにそう言った。


 散切り頭から雨水を滴らせた男の顔には、左目の上を通って縦に大きな切り傷がある。更には左耳の下半分がぎざぎざに破り取られていて、そのふたつの傷が、男を真っ当な世界から遠ざけていた。


 開いているのかいないのか判別できないほど細い吊り目を僅かにゆるめ、男は薄っすら微笑んだ。感情の起伏が激しい蛇川とは対照的に、表情の薄い男だった。


「旦那にはぎょうさんお世話になりましたんに、年始の挨拶にもお伺いできておらず、すんません。今年もひとつよろしゅうお願いいたします」


「いや、世話になったのはお互いさまだ。それより、腰も落ち着けてはいられんほどに急ぎの用事なんじゃないのか。お宅の組の話か」


「さすがは旦那、話が早い」


 男は表情をまるで動かさず、実は、と切り出した。


「今日はウチの親仁(オヤジ)の頼みで来たんです。親仁の娘さん……今年十七になる娘がおるんですけど」


「鴛鴦花乃だな」


「そうです。その()が三日前から、眠ったまんま目を醒まさんのですわ。医者を呼んで診せたりもしたんでっけど――ウチらと懇意の名医がおるんです――けど、全然あかん。悪くはならんが、良くもならん。どうしたこっちゃというわけで、旦那に助けを求めにきたわけです」


 話を聞きながら、既に蛇川は立ち上がっている。デスク脇の外套掛けからインバネスコートを取り、袖を通し、木製の薄い手提げ鞄を取り上げる。


「裏に車を停めてあります」


「分かった、行こう」


 次いで巻き付けた毛糸の襟巻きは、ところどころに目の粗さが目立つ一品だ。質のいい着物を揃えている蛇川にしては珍しい。

 手早く身支度を済ませた蛇川に目を向け、男がくすりとひとつ笑った。


「なんだ」


「いや……その襟巻き、くず子ちゃんの手作りでしょ。なんやっけな、クリスマスの贈り物っちゅうやつでっか」


 図星であった。

 蛇川は西洋の祭り事にさして興味がなかったが、流行に機敏な女児はそうもいかない。子供向け雑誌『子供之友』には上下を赤い衣装で揃えたサンタクロースなる人物の絵が踊り、異文化への興味を煽る。やたら熱心に編み物をしていることは知っていたが、まさか自分への贈り物だとは思いもしなかった。


 ――なんだ、そいつはたわしかね。


 ――編み物もいいが、雑巾を縫ってくれると助かるが。


 そうとも知らず無神経に投げかけた言葉の数々に責められて、珍しくも人混みの中を初買いなどに出掛けたのだ。くず子はたいそう喜んでくれたが、過度の苛立ちのために熱を出し、蛇川はその後数日寝込んだ。


 ばらばらな編み目のために空いた小さな穴に指を突っ込み、蛇川はむすりと顔を顰めた。


「目がよくて口もよく働く男というのは煩わしいね」


「ハハ! 旦那、そりゃ同族嫌悪っちゅうもんですわ」


 鴛鴦組を心やすく「ウチ」と呼ぶ関西訛りの男。


 この男こそ、鴛鴦組若衆きっての有望株。

 愛銃・南部大拳に一撃必中を奉ずる男、鴛鴦組若頭補佐・満ツ前(みつまえ)銀次(ぎんじ)であった。




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