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七:泣く聖獣




 がらん堂に現れた男は、大股でデスクに歩み寄るなり傍らの蓄音機に手をかけた。その大柄な体格からは想像できないほど柔らかな手付きで、円盤を傷付けないよう針を下ろす。

 ぶつり、と音を立てて途切れた大音響に、蛇川(へびかわ)が顔一面を顰めて抗議を示した。


 部屋の主人の機嫌にはまるで構わず、男は窓際へと近付いた。壁に背を付け、身体を隠すようにしながら外を窺う。


 そのまましばらくの間、男は往来に鋭い瞳を遣っていたが、やがて顔は外に向けたままくつくつと喉を鳴らした。


「『デカ尻』たァ酷いぜ、先生」


 一瞬だけ振り返り、にやりと唇を吊り上げる。

 帽子のつばの向こうでは垂れた目が悪戯な光を宿している。その下には、特徴的な縦二連の泣き黒子。


 その声に蛇川はちらりと片目を開いて見せたが、気怠げに大きく伸びをすると、細い身体を安楽椅子に沈み込ませた。


あんた(・・・)がここに来るのは珍しいな、吾妻(・・)


 そう言われ、吾妻はくるりと全身で振り向いた。片手をスラックスのポケットに突っ込み、もう片方の手でパナマ帽を取る。


 あまりにも様相が違っているためひと目ではとても分からないが、帽子を弄ぶその男は、確かに、帝都で唯一この骨董屋亭主とやり合える男、吾妻(あがつま)健吾(けんご)その人だった。


 普段は着古した単衣に身を包み、角帯を締め、長めの髪は無造作に散らして奇ッ怪な女言葉を操り、風来坊のような出で立ちで銀座をぶらついては「情報屋」を自称するこの男。


 しかしいま蛇川の前に立っているのは、紛れもなく、帝都きっての武闘派極道・鴛鴦(おしどり)組の若頭だ。


 質のいい鼠の背広は鋼のようなその肉体を引き立たせ、鍛え抜かれた本物の暴力の気配が威圧感を醸し出す。なんの後ろ盾もなく自由に生きて見える普段の姿とは打って変わって、その堂々たる佇まい、落ち着きはらったバリトンの声は、大きな組織を率いる頭領の片腕に足る男のそれだ。


 鴛鴦組若頭・吾妻は、壁に背を凭せかけたまま扉のほうを顎で示した。


「いいのか? りっちゃん、少し泣いてたぞ」


「だからガキだと言っている」


「思春期の女の子ってのは難しいんだよ――ね、くず子ちゃん。この人ったらひどいわよねェ」


 突然口調も声音もころりと変えた吾妻に、蛇川はこめかみを掻き毟りながら叫んだ。


「その恰好で女言葉を使うなッ、莫迦者! 慣れていないぶん気色悪くて仕方がない!」


 あらァ、と意地の悪い笑みを浮かべながら、吾妻はわざとらしくシナを作った。蛇川は唸りながら片手を額に当て、耐え切れんとばかりに天を仰ぐ。

 いっそうからからと笑いながら、吾妻は顎のあたりに手を添えた。


「じゃあさっさと慣れちゃってよ。さっきの音楽も似たようなもんでしょ? 不慣れな状況に慣れるための訓練」


「……ほう! なぜ分かった」


「見くびってもらっちゃ困るぜ。お前さんとはけっこう付き合いも長いんだ。普段お前さんがどんな手練で手妻を披露しているか、これでもちっとは勉強してんだよ。音楽にこれっぽっちも興味のないお前さんが蓄音機を鳴らしていたら、こりゃあ何かあるなと勘付くわけさ。そのうえあの大音量だぜ」


「面白い、状況証拠からの推察というわけか。いいぞ、ならば僕もやってみよう」


 椅子の上で起き上がると、蛇川は前のめりに身構えた。腿の上に両肘を置き、手をゆるく組み、吾妻の全身に素早く瞳を走らせる。

 吾妻はくるりと回したパナマ帽を頭に乗せて、どうぞとばかりにゆったりと腕を組んだ。


「珍しい帽子だ」


「普段はかぶらない」


「そうだ。今日、あんたはあまり目立ちたくなかった。だが情報屋に化けることはしなかった、つまりあんたは組の若頭としての用事で出掛けていたんだ」


 吾妻は答えず、軽く首を傾げて見せる。


 静かに息をつき、蛇川は薄い目蓋を閉じた。組んでいた手を解くと、微かに弧を描いた口元で十本の指を合わせる。

 そのまましばらく目蓋の奥で瞳を細かく震わせていたが、やがて突然目を見開いた。


「なるほど……今は年始だ。どこも挨拶回りで忙しい。あんたの今日の用事もそれだな、お宅と縁のある浅草の早池峰(はやちね)一家の元へと挨拶に出掛けた」


 思わず吾妻が壁から背を離す。しかし蛇川はそれを気にも留めず、熱に浮かされたかのように唇を動かした。


「普段はしない人絹織のネッキタイ(ネクタイ)から、礼節をもって伺わねばならない用事があったことが分かる。また、草臥れた革靴とスラックスの裾についた砂は長い散歩があったことを表している。そして肩についた梅の花弁が行き先を示す――この時期にもう寒梅が咲いているのは、徒歩圏内では浅草だけだ。


「浅草にあって鴛鴦組と縁が深いのは早池峰一家……律儀なあんたは恩義ある早池峰一家を訪ねるに乗り物を使うをよしとせず、己の足で歩くことを選んだ。そして」


 息もつかずにまくし立てると、蛇川はようやく顔を上げた。


「その帰り道に歓迎できない相手と遭遇した。その相手はあんたを追いかけ、あんたは逃げた。敵ではない。敵ならばあんたは逃げなかったし、追っ手を警戒する目は厳しくあったが困惑の方が大きかった。往来を向いて引き結ばれた唇は、相手への親しみと、それを抑えねばならない理性との葛藤を表している」


「挨拶先が早池峰さんとは限らないぜ。浅草をただ通り過ぎただけかもしれん」


 蛇川は片唇を吊り上げて舌を鳴らす。


「非武装だ」


 その言葉に、吾妻は降参とばかりに両手を挙げた。


「訪ね先は全幅の信頼を寄せられる相手だ。いくら協力関係にあったとて根は暴力に生きるヤクザ同士、よほどの関係性でない限り寸鉄ぐらいは帯びていく。答え合わせを?」


「いい、いい。素晴らしいよ」


「ふむ、少し簡単すぎたかな。見れば分かる」


「普通は分からんよ。しかし先生、悪いが減点一だ」


 眉を上げて見せる蛇川に、吾妻は再び窓に向き直りながら言った。


「俺達は極道だ。ちんけなヤクザ者とは覚悟が違う。そこんところを混同してもらっちゃ困るぜ」


「そりゃ失敬」


 常の蛇川ならば、そのこだわりを小莫迦にしそうなものだが、こればかりはそうしない。


 吾妻の極道・侠客に対する強い想いは、蛇川の理解の範疇にない。理解しようとも思っていない。しかし竜の逆鱗がどこにあるかくらいは察しがつく、そういうことだ。

 互いをよく知るふたりだからこそ、互いに理解できぬものを抱えながらも、互いを尊重し合っている……


 往来に目を向けていた吾妻が、ふと感心したような声を上げた。蛇川が不審の顔を向ける。


「どうした」


「驚いた。やっこさん、こっちへ向かってる。しっかり撒いたと思ったが、どうやら俺の考えを読んだらしい」


 つられた蛇川が立ち上がり、窓の前に立つと、吾妻は慌ててその身体を壁に押し付けた。


「痛いぞ! 加減を知れ!」


「先生が細すぎるんだろ、も少し鍛えなさい。ああ……やっぱりだ。真っ直ぐ廃ビルに向かってくる」


 まだ小さく文句を言いながら、しかし身体を隠しつつ蛇川も往来を見下ろす。遠目にも艶やかな黒髪を腰あたりでなびかせた少女が、今しも廃ビルの階段へ足をかけようとするところだった。


 補足しておくと、「廃ビル」はこのビルの通称ではあるがもちろん正式名ではない。正しくは「赤ビル」という。三階建ての商業施設で、一階は喫茶、二階は空き、ここ三階が蛇川の住まう骨董屋だ。

 昔はその名の通り赤色が目立つビルであったが、経年劣化で色が剥げ、しかし塗装を直す金もなく、建物全体が灰みがかってきたために「灰ビル」と揶揄されるようになった。それがいつしか「廃ビル」に転じたのがその由来だ。


 ふと少女が足を止め、迷いなく三階を見上げた。

 芽吹き出した女の色香が漂うその顔は、人形のように美しい。ひとつ難点を上げるとするなら、女にしては少し目が吊りすぎているところぐらいか。吾妻が小さく声を上げたが、しかし蛇川は動じなかった。少女がいくら鋭い目線を向けたところで、窓から見えるのは『表』の店内に決まっているからだ。


 『骨董屋・がらん堂』は、確かに廃ビルの三階にある。

 しかし大半の客が訪れるのは『表』のがらん堂だ。


 三階の扉を押し開けた先に拡がるその空間には、世界各地から集められた骨董品が所狭しと並べられている。そこの亭主は人好き・世話好き・話好きの三拍子が揃った百点満点の好々爺だ。

 店の、一種異様な雰囲気に圧倒されていた初見の客も、穏やかな語り口で亭主が話すのを聞くにつけ、徐々に店へと馴染んでいく。


 しかしもし、その扉を引き開けたならば――……




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