六:泣く聖獣
組み上げた細長い脚を机上に投げ出し、鳩尾の辺りで十指を揃えて瞑目する。
このお決まりのポーズは、蛇川の数ある悪癖のひとつだ。
これをやると思考がまとまりやすい、というのが彼の持論だ。脚を上げることで血の巡りが良くなり、もって頭が冴えるのだという。
事実、この体勢のまま半日以上も凝と動かず、突如跳ね起きたかと思えば爆発的な知能を発揮し、それまでほとんど謎に沈んでいた事件を解決に導いた……なんてことも一度や二度の話ではないから、あながち出鱈目でもないのだろう。
ただし、自宅でも外でも同じことをやるので時に酷い叱責を受ける。特に定食屋『いわた』ではこっぴどく叱られた。料理を供するテーブルに土足の脚を投げ出すのだから当然のことだ。
普段は寡黙な『いわた』亭主が顔を青くして叱責するので、さしもの蛇川も驚いたものか、二三度同じように怒られてからは自宅兼店舗のここ『骨董屋・がらん堂』でのみこの姿勢で寛ぐようになった。
実際のところ、だらしないのだ。
ひとたび有事に遭えば恐るべき知能と行動力を発揮する蛇川であるが、その実生活は限りなくだらしがない。
着の身着のまま寝台代わりのソファで眠ることなどはしょっちゅうあるし、内向きのことは湯を沸かす程度のことしかできない。包丁でものを切る際、下にまな板を敷かねばならないことすら下手をすれば知らないだろう。
それでも彼と彼の身の周りが常に清潔に保たれているのは、掃除好きの従業員と、近所の定食屋『いわた』のひとり娘・りつ子の助けあってのものである。
そのりつ子は、畳み終えたばかりの洗濯物を山ほど担ぎ、がらん堂唯一の従業員へと手渡している最中だった。
「はい、くず子ちゃん。こっちがシャツで、こっちが肌着。靴下はまとめて畳んであるから、左右がばらばらにならないように気を付けてね」
くず子と呼ばれた少女は、りつ子の言いつけに逐一こくこくと頷いている。首を振るたび、切り揃えられたおかっぱ頭が顎のあたりで涼やかに揺れる。返事をしないのは怠けているわけではなく、一身上の都合で声が出せないためだ。
『骨董屋・がらん堂』にほとんど身ひとつで転がり込んできたこの少女は、ひと言も言葉を発しない。簡単な読み書きはできるようなので、その身の上を探ろうとすれば探れるはずではあるのに、蛇川は何も訊こうとしないらしい。
表情や身振りで言いたいことはある程度伝わるようで、多少の不自由はあれど、蛇川とくず子は言葉のない奇妙な同居生活を続けている。
風変わりなこの少女は、しかしりつ子にとっては妹のようにも思えるようで、よくこうして家事を片付けついでに遊びに来ている。くず子の方もりつ子にはよく懐いており、時々『いわた』に足を運んでは包丁さばきなどを学んでいるようだ。
姉妹のごときふたりが仲睦まじく話している間、蛇川はあまり関心を見せない。気に入りの安楽椅子に深々と腰掛け、静かに瞑目している。しかし時々薄く眉を動かしているので、ふたりの会話に耳を働かせてはいるらしい。
蛇川は情の薄い男だ。
他人に関心がない、と言ってもいい。
関心がないから相手のことを知ろうとせず、解ろうとせず、その側に寄り添おうともしない。だから人の心の機微が分からない。
それでも彼が繊細な感情の揺れを指摘できるのは、過去の犯罪記録を洗うなかで目にした様々な動機から、人には多種多様な感情があるのを学べたからといっても過言ではない。
明け透けにものを言っては誰かを傷付け、言わずとものことを言って誰かを怒らせる。最近はようよう彼のその姿勢にも変容が見られるようになってきたが、とはいえ人付き合いが上手だとは、どんな太鼓持ちですら口にしないだろう。
その蛇川が、しかしくず子にだけはどこか恭しく接する。不器用なりに、愛らしいこの少女を純粋に慈しんでいることが傍目にも分かる。
もっとも、それを喜びつつも内心嫉ましく感じている人物もいるのだが……蛇川がそれに気付くことは、まずないだろう。
悠々と身体を伸ばし、まるで気儘に昼寝を楽しむ猫かのごとき美貌の男を、りつ子は眉根を寄せて睨み付けた。
「蛇川さんもちょっとは手伝ってくれたらいいのに」
「聞こえない」
「聞こえてるじゃない」
「何やら面倒なお小言が始まったらしいことは分かるが、内容までは聞き取れん、と言っているんだ」
皆まで言わすな。そっけなくそう言って、蛇川は手近の本を広げてばさりと顔を覆った。聞く気はない、ということらしい。
瞬く間に顔を赤く染めたりつ子は、少し大きめの尻を揺らして彼のデスクへと歩み寄った。
「こんなものを流しているから聞き取れないのよ!」
こんなもの、と言うのは木目が美しい蓄音機だ。朝顔型のホーンが気品を漂わす一品であるが、わざわざ太い鉄針を用いていると見え、がなり立てるような大音量でヴァイオリン曲を流している。
腹立たしさをぶつけるように針へと手を伸ばしたりつ子だったが、その腹に手の甲を押しつけて蛇川がそれを制した。エプロンを巻いた柔らかな腹に手の甲が埋まり、うえ、とりつ子が品のない声を上げる。
「触るな。僕は今、偉大な研究に没頭しているのだ」
「あら! すばらしい芸術作品を無作法な音量で流して、下品に貶める研究? 結構な研究ですこと」
「ハ! 言うじゃないか、悪くないぞ」
精一杯の嫌みを笑いで返され、りつ子は一層口惜しさで顔を歪めた。その顔に向かい、蛇川が長い人差し指を突き付ける。
「だが違う、残念だがね。僕はねぇ、りつ子くん。あんたみたいなガキが上げる喚き声が大嫌いなんだ。この世でもっとも厭わしい音だと思っている。やけに甲高く、耳障りで、思考を阻害することこのうえない。だから僕は考えた――普段から喧しい音に耳を慣らしていれば、ガキの喚声の中にあっても平常通りに思考ができるようになるんじゃないか、とな」
「子供じゃないわ。あたし、もう十七よ」
「そうやって人の話に平気で割り込むあたりがガキ、重ねた歳の数だけで大人と子供を判別できると思っているあたりがガキなんだ。まったく、立派なのは重たそうな尻だけじゃないか」
あまりの言葉に絶句したりつ子だったが、唇を震わせ、耳先までを赤く染めると、荒々しい手付きでエプロンをむしり取った。それでもって尻を覆い、真っ赤な顔で蛇川を睨みつける。
「最ッ低!」
「事実じゃないか! ハハ、デカ尻!」
そのまま扉に突進していくりつ子だったが、その把手に手をかけようとした途端、不意に扉が外側から引き開けられた。
「きゃッ」
「おっと。失礼、お嬢さん」
思わずぶつかりそうになったところを寸でで避けて、来訪者の男が謝った。
白いパナマ帽を目深にかぶり、上質な鼠の上下を着込んだ男は、そのまま大股で室内へと歩み入ってくる。随分と背が高く、がたいのいい男だ。よく鍛えているらしいことが、盛り上がった背広からもよく見て取れた。
りつ子はしばらくその逞しい背中を見つめていたが、やがて後ろ手に扉を閉めた。おそらくは客だろう。邪魔をすれば、蛇川に何を言われるか分かったものではない。
扉のところで揺れる『骨董屋・がらん堂』のプレェトを複雑な顔で一度振り返り、エプロンで尻を隠したまま、りつ子はゆっくりと廃ビルの階段を降りていった。