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五:消えた首




「被害者はまず、胸をひと突きで殺された。両手には争った時についたと見える刃物傷があったから、きっと包丁の奪い合いが起きたのだろう。包丁は、その拵えの立派さから、僕は十中八九被害者の持ち物だったと確信している。つまりもともと、襲う立場にあったのは被害者の方なのだ。何かの弾みでそれが逆転し、彼は哀れにも命を落とした。


「はからずも殺人を犯してしまった田嶋圭一は当然激しく動揺した。血の付いた下駄で遺体周辺を歩き回ったことが――それも結構な長い時間――足跡からも読み取れる。しかし田嶋は長い熟考の末、首を切り落として遺体をすり替えることを思いついた……いや? あるいは、誰か(そそのか)した者があったのかもしれない」


「誰かとは? 第三者が現場にいたのか?」


「蛇だ。『(そそのか)す者』」


 言葉の意味をはかりかねる山岡に、蛇川(へびかわ)は懐から紙包みを出して見せた。繊細な手付きでそれを開き、中から何かを摘まみあげる。


 陽の光に透けるそれは、一本の長い髪の毛だった。


「女の髪だ。よく手入れされている」


 蛇川は髪に鼻を近付けるとひと嗅ぎして、


「宝賀堂の椿油。高級品だ」


 紙包みを渡された山岡は、同じように髪のにおいを嗅いでみたが、何も読み取ることはできなかった。紙包みは吾妻(あがつま)、『いわた』亭主の順に回されていったが、男達は皆一様に首を傾げるばかりだ。


 蛇川は再び忙しなく歩き回りながら、情報を整理するように話し始めた。


「高級な椿油で髪の手入れができる女は、青森から出てきたばかりの貧しい労働者とは吊り合わない。よって被害者側の縁者と考えられる。その女の髪が田嶋圭一の衣服についていたのはなぜか? 争う男達を止めようとしてついたのか、それとも、殺人の事実に動転した男を慰める時についたのか……いずれにせよ、この女が深夜の争いのきっかけになったことは想像に難くない。でなければそんな時間のそんな場所に女がいたことの説明がつかない。まとめよう」


 カツ、と音を鳴らして蛇川が踵を揃えた。


 立ち止まり、ゆっくりと息を吐きながら天井を見上げる。合掌するように両手を口の前で合わせると、薄い目蓋をすぅと閉じた。


「僕の仮説はこうだ……田嶋圭一と女、恐らくは被害者の妻か姉妹だろうが、ふたりは恋愛関係にあった。その関係は今に始まったものではない。田嶋が帝都に来てからはまだ日が浅く、深い関係を築くだけの時間がなかったからだ。よって女は青森出身であり、田嶋とは当時から憎からぬ仲であったと考えられる。ここまでが前提だ。


「帝都で再び巡り合った田嶋と女は、あの空き家で密会を重ねていた。薄々それに勘付いていた被害者は、間男を懲らしめんとして包丁を片手に女のあとを尾け、密会場所に殴り込んだ……そこからは先程話した通りだ。不幸な襲撃者は不幸な偶然の元に不幸な被害者へと転落し、事態の発覚を恐れた男女は遺体のすり替えを思いつく。出稼ぎ労働者の不審死など、帝都ではそう珍しくもない。有力な身寄りがいない以上、捜査も自ずと杜撰になるのは明らかだから、なんとか逃げ(おお)せると浅知恵を働かせたのだろう。犯行が行われたのは深夜三時から六時の間で……」


「待て、待て!」


 慌てて山岡が割って入った。顔を顰め、両手を振って蛇川の講釈を制止する。


「また我々を置いていったぞ! なぜ犯行時刻が分かる」


「ああ……クソッ。少しは頭を働かせたまえ山岡巡査」


 目を閉じたまま、苛立ちを滲ませた早口で蛇川がまくしたてる。


「現場には電池の切れた乾電池式携帯電灯が落ちていた。当然、彼らが争った時には辺りが暗かったことが分かる。その後電池が切れ、暗がりとなったため彼らは蝋燭に火を灯した。蝋燭は二寸ばかり燃え残っていたから、現場を離れる時には既に辺りが明るくなり出していたことが伺える。溶けた蝋の量と乾電池の寿命から逆算すればおおよその犯行時刻が割り出せるというものだ。計算式を?」


「……いや、いい。続けてくれ」


「喜んで。さて、この悪逆非道を唆したのは田嶋なのか、女なのかは知れないが、とにかく彼らは被害者に田嶋の服を着せ、下駄を履かせて首を切り取り、改めて胸をひとつ刺して田嶋圭一の首無し死体を作り上げた。突然の思い付きとはいえ、なかなか大胆で奇抜な発想だったと言えよう。現に、高邁なる築地署の諸君は見事に騙されてくれたじゃないか! この僕、蛇川真純(ますみ)がいなければ、捜査の手は『田嶋圭一に強い怨恨を持つ亡霊(・・)』を求めて永遠に暗闇を彷徨っていたに違いないさ。ハハ、ハ!


「この仮説が合っているかどうかを確かめるため、条件に合致する行方不明者を洗えと僕は言ったのだ。それに、万が一細かい点に相違があったとしても、田嶋圭一が生きていることだけは断言できる。まだ上京したばかりの若者が、罪を背負って逃げ込める場所を果たして見つけ得ているだろうか? まずその可能性はないだろう。そうなれば奴の逃げ場はただひとつ、郷里である青森だ」


 蛇川は芝居染みた動作で両腕を広げると、呆けたまま言葉もない三人の男を順に眺めた。


「何かご質問は?」


 吾妻が肩を竦めて見せる。

 過去に一度、蛇川の鋭い推理を目の当たりにしたことのある山岡も、改めてその尋常ならざる知能を前にして、あんぐりと口を開けたままだ。


「……凄まじいな」


 寡黙な『いわた』亭主が素直な感想を述べると、蛇川は満更でもない様子で片手を上げ、これに応えた。


「喜んでる」


 吾妻が身を乗り出し、カウンター越しに亭主へと囁いた。


「珍しく褒められたから嬉しいみたい。普通は皆んな驚いて……そして怖がるのよ。化け物!って」


「五月蝿いぞ」


「あら! 耳がいいのね」


「耳だけじゃあない。僕は目も耳も鼻も優れているのだ。いや……目も耳も鼻も使わない奴等が多すぎると言うべきか」


 蛇川は物憂げに前髪を払うと長々と嘆息した。伏せがちの瞳には、背筋をぞくりとさせるような色気がある。


「目で見たものを観察せず、耳で聞いたことから推察もせず、鼻で嗅いだものを己が知識と結び付けようともしない。それでいて、己の理解の範疇を超えたものを見ると『異質』と断じて遠ざけるのだ……ああ、山岡巡査。かつては君もそうだったな。どうだ? 己の知らぬことを『あり得ないこと』と捨て置く悪癖は治ったかね?」


「……青森に人を派遣しよう」


 蛇川は妖艶な笑みを浮かべた。


「それが賢明だ」




 ◆ ◆




 帝都東京の闇は昏い。


 国を開き、明治の世を迎え、年号が変わって大正となっても、この国はまだ目下動乱の渦中にある。


 人は人を憎み、怨み、平然と痛めつける。

 その傷口が膿を生じ、黒い渦と化し、別な誰かを傷付ける。


 そんな、陰惨事件の製造装置にも似た帝都にあっては、首の無いおぞましい遺体の話題も、時を経てやがて風化する。

 死んだと思われていた田嶋圭一が発見された、という記事は、新聞の三面に小さく簡素に掲載をされたが、しかし噂好きの主婦らの口にすらも登らなかった。


「ご機嫌斜めじゃない」


 いつものように、銀座の定食屋『いわた』で昼食を取っていた蛇川の隣に、巨漢の女形(おやま)・吾妻が腰をかけた。カウンター席の最奥は、蛇川の特等席だ。


 蛇川はじろりと吾妻を睨んだが、にこにこと笑う垂れた目には気勢を削がれたか、何も言わずに再びスプンを口に運んだ。


 外は寒いが、火鉢が焚かれた店内はほどよく暖かく、居心地がいい。カウンターの奥では炙った(スルメ)を口に咥えた『いわた』亭主が新聞を広げ、その隣で娘のりつ子が包丁仕事をしている。

 何もない、師走の午後だ。


 黙々とスプンを動かしていた蛇川だったが、物憂げに拳をカウンターに置くと小さく嘆息した。


「東京だった」


「……何が?」


「田嶋圭一だ。青森じゃなかった」


 ああ、と合点した吾妻が声を上げる。不機嫌の理由はこれだったか。


 あの後。

 蛇川の説を署内に持ち込んだ山岡は、獅子奮迅の働きで上層部の重い腰を上げさせ、遺体・遺留品の再捜査及び青森への人員派遣に漕ぎ着けた。同時に、帝都を中心に消えた首の捜索も行われた。


 捜査は極めて順調に進んだ。蛇川の立てた仮説がものの見事に事実と合致し、それをなぞることで必要な状況証拠をすべて集めることが出来たためだ。


 遺体の身元が判明してからは、更に捜査の手が厚くなった。


 哀れな遺体の正体は、失踪中のさる銀行家であった。それを証明したのは銀行家の愛人を名乗る女で、際どい場所にある特徴的な黒子を言い当てたことが決め手であったという。

 銀行家の失踪と同時に、その妻、青森生まれの女も行方をくらましていたことも分かり、田嶋と女の捜索が大掛かりに行われた。


 しかし青森での捜索はまるで振るわず、その身柄は発見されぬまま幾日もが無為に過ぎた。


 都内でそれらしい年頃の男女が見つかった、という報せが入ったのは、捜索が行き詰まり始めたちょうどその頃だった。


 田嶋圭一とそのかつての恋人――件の銀行家に見初められ、奪い去る形で帝都へと連れてこられた薄幸の女――は、冬の冷たい川底から見つかった。

 生首の捜索が進められる中での偶然の発見であったらしい。遺体の損傷具合から、死んだのは事件直後であったと推察される。


 遺体発見場所近くには、風で飛ばされぬよう石で重石された遺書が残されていた。その内容もまた蛇川の仮説を裏付けるもので、改めて男達を感嘆せしめた。

 遺書には、震える筆跡でこう(したた)められていた。大きな罪を犯した以上、真に愛し合う者同士、()の世で結ばれる他ないと……


 蝋のように凍えたふたりの手は、青い(かすり)の襟巻きで固く結ばれていたという。


「憐れだわ。郷里に逃げ帰ることもできず、死を選ぶ以外に道がなかっただなんて」


「違うね、愚かなんだ」


「そんな言い方って……」


 素気無く吐き捨てる蛇川に、吾妻はむっと顔を顰めて見せた。しかし蛇川は怯むことなく、むしろ一層目を鋭くして吾妻を睨み返した。


「また得意の人情論か? だがね、仮に裁判が行われたとして、この国の司法が護るのは田嶋ではなく銀行家だぞ。人情が田嶋を救えるかね」


 言いながら立ち上がり、蛇川は荒々しく亭主の手から新聞を引ったくった。その記事に素早く目を走らせ、フン、と短く鼻を鳴らす。


「長年の暴力に耐え切れず夫を殺した妻が首を括られ、真実の愛とやらを貫かんとして駆け落ちした若い男女が牢に入れられる……世の中はそんな事件で溢れている。確かに、事件のきっかけには別な悪があったやもしれん。しかし世間が悪と見なし、裁くのは最終的な加害者だ。勧善懲悪などはまやかしだ! 甘やかで(ぬる)い夢物語だ!」


「……じゃあなぜ、蛇川さんは闘うの?」


 小さな皿を手にしたりつ子が、ふたりの間にそっと皿を置きながら静かに問う。


 蛇川は一瞬虚を突かれたように黙り込んだが、ややあって薄く口を開いた。


「腹が立つんだ」


 ぽつりとそう呟き、皿の上に視線を移す。そこには、櫛形に切られた林檎が四切れ並べられていた。


「腹が立つんだ。弱者を虐げてしたり顔でいる蛆虫が、そこから漂う不条理の臭いが、大嫌いなんだ。司法が、世間が、真の悪を裁かないなら――」


 硬く握り締めた拳に目を落とし、言う。


「この手で裁く」


 黒い革手袋をはめたその拳には、かつて蛇川自身が己が身に封じた『鬼』が宿っている。


 蛇川が、彼の身体が傷付くのも厭わずその力を用い、巧妙に法の目を掻い潜ってきた様々な不条理を暴き、裁き、正してきた様をよく知る吾妻は、垂れた目を細めて微笑んだ。


「たとえそれで罪に問われたとしても?」


「ハ! 笑わせるな。己の罪は己で決める」


 鼻を鳴らすと、蛇川は摘まみ上げた林檎を口の中に放り込んだ。

 赤い皮ごと力強く咀嚼すると、目を丸くする吾妻とりつ子を置き去りにして颯爽と店を出て行った。


 『いわた』の扉につけられた鈴が、まるでその背を鼓舞するかのようにカロカロと音を立てた。





〈 消えた首 了 〉

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