四:消えた首
真正面から見つめてくる鋭い瞳に負けないように、山岡はぐっと全身に力をこめた。
日本人には珍しい灰褐色の瞳を睨み返し、挑むように低い声を出す。
「……田嶋圭一、二九歳だ」
「宜しい。何で判明した?」
「札入れの中に手紙が入っていた。郷里の叔父から東京の知り合いに宛てた紹介状だ」
「フン、出稼ぎか。生まれは?」
「青森」
「帝都に来たのは?」
「紹介状の日付から考えると、ここ一二ヶ月のうちに出てきたようだ」
「金回りは」
「よくない」
「なるほど、結構!」
ばしりとテーブルを叩くと、蛇川は椅子を鳴らして壁に向き直った。
十本の指を口許で揃え、唇をきりりと引き結ぶ。目蓋は目の半ばあたりまで垂れ下げられているが、しかし黒眼は小刻みに震え、彼の脳内では今しも新たに与えられた欠片が目まぐるしく積み立てられているらしいことは明白であった。
「骨董屋、それで……」
「静かに!」
激しく一喝されて、山岡は目を剥いて口を噤んだ。
仮にも警察、しかも年長者を相手になんと傲慢な態度か。
喉元まで出掛かった文句を寸でのところで堪えていると、カウンターに座る吾妻がちょいちょいと手招きするのが見えた。顔を顰めながらも、示された隣の席へと座る。
尻を下ろすと、機を見計らったように亭主が小鉢を差し出した。ほのかに湯気を立てるその中身は蛤の吸物だ。
貝の出汁を活かした柔らかな味付けが、山岡のささくれ立った心に優しく染み渡っていく。
ほう、と思わず息を洩らすと、片肘をついた吾妻が小さく笑みをこぼした。妙な居心地の悪さを覚え、大きな尻をもぞりと動かす。
その時突然、蛇川の手がテーブルを激しく打ち付けた。
三人の男が揃って首を巡らせると、蛇川はこめかみの辺りを掻きながら呻いた。
「巡査、青森に人を遣ったほうがいい」
「……なぜ?」
「田嶋圭一を捕縛するためだ。吾妻!」
山岡に口を挟む隙を与えず、蛇川がすかさず言葉を続ける。
「この半月の間に出た失踪人の中に、三、四十代で、青森と関わりの深い縁者を持つ男がいるはずだ。中肉中背、外国産の葉巻を吸い、左利きで、金回りのいい男だ。それを捜せ」
鋭く言い付け、蛇川は慌ただしくインバネスコートの袖に腕を通していたが、周囲から何の反応も返ってこないため、不審の顔で振り向いた。
吾妻、山岡、『いわた』亭主は、皆一様に口を半開きにして蛇川の面を見守っている。
「揃いも揃って、なに間抜けな顔を晒している」
「い、いや、骨董屋……。悪いがお前の言っていることがさっぱり」
「分からなくとも行動はできるだろう! 急げ! 田嶋圭一が『鬼』になりかねんぞ!」
――鬼。
その言葉に山岡が身を強張らせる。
蛇川は平凡な骨董屋亭主などではない。
彼の知能や該博ぶりもまた非凡の所以ではあるが、しかし彼の尋常ならざる一番の理由は、彼が、鬼と呼ばれる存在を知覚し、斬り、導いてやれる存在であることだ。
鬼は、元は人であったりただの物であったところへ強い情念が乗り移り生じる負の存在だ。古くより、化け物や怪奇として描かれてきた。
骨董屋亭主たる蛇川のもうひとつの仕事は、骨董屋あらため、生じてしまった鬼の霊を斬り祓ってやること。
人の理から外れた哀しき鬼を、元の道へと導いてやること。
そして時に、鬼を生み出した人の悪しき心の様々を、彼の奉ずる信念に則り裁く……それが蛇川という男の生き様だ。
蛇川が数多の犯罪に興味を示すのは、犯罪者を罪に問うためではない。残念ながら、彼は法の番人ではない。
罪の意識あるところに鬼があり、鬼があるところに新たな罪が生まれる。
蛇川はそれを知っているから、日々この国中の犯罪記録に目を通しているのだ。
尚も動き出さない面々に癇癪玉を破裂させ、蛇川は腹立たしげに床を蹴りつけた。
「なにを愚図愚図している! さっさと……」
「蛇川ちゃん」
尖った罵声に、静かな吾妻の声が割り込んだ。
その語調は極めて柔らかい。
「ついていけなくて御免なさいね。でも、ちゃんと説明してあげて。結論だけを伝えて行動を強いるのは無責任よ」
蛇川の鋭い瞳が吾妻を睨み据える。吾妻はただ、太い眉を少し困ったように垂れ下げた。
張り詰めた空気が店内に満ちる。
山岡巡査、『いわた』亭主は、対峙するふたりの男を言葉もなく見守っていたが、やがて蛇川のため息が沈黙を破った。
荒々しく椅子を引くと、音を立てて腰を落とす。細長い脚を交差させると、蛇川は薄い腿の上に肘をついた。
不貞腐れてはいるが、従うつもりはあるらしい。立ち上がっていた吾妻も、それを見てゆっくりと腰を下ろした。
身振りで吾妻に促され、山岡が戸惑いながら口を開いた。
「……え、ええと」
「なんだ。どこから説明すればいいんだ」
「ああ……混乱してきた。始めから全部説明してくれると有難いんだが。田嶋圭一を捕縛……いや、さっぱり分からん。奴は胸を刺されて死んだじゃないか」
蛇川は苦々しげに口を開いたが、迷った末に、ゆるゆるとため息をついて罵声を堪えた。
テーブルの上に片肘をつき、その上に不機嫌な顔を乗せて見せる。
「いいか、田嶋圭一は死んじゃいない。そこがそもそもの間違いだ。あの遺体は別人のもの……その身体や現場を少しでも観察すれば容易に知れることだ」
「莫迦な!」
「まあ聞きたまえ。ご要望通り、順を追って最初から説明してやろう。まったく……この講釈が少しでも築地署の捜査力向上に役立つならば僕にとっても無上の喜びだよ、山岡巡査。
「僕は偶々、あんた方が現場を荒らす前にあの場を観察する幸運を得たが、遺体も含め、残されたものはどれもちぐはぐな印象を与えるものばかりだった。気付かなかったか? 衣服や下駄こそは労働者階級のものと思われる粗末な代物だったが、それを身に纏う遺体は栄養状態もよく、労働を知らない手をしていた。その人間がどういう暮らしぶりをし、どういう職業に就いているかは、手を見ればおおよそ分かるものだ」
突如始まった蛇川の講釈にきょとりとしていた面々は、糸で引かれたように己の手へと目を落とした。
フン、と短く鼻を鳴らしてから蛇川が続ける。
「左手には喫煙者特有の黄ばみがあった、つまり彼は左利きだ。しかし指先の変色はそこまで強くなかった。喫煙時にパイプを用いていたため、指先にあまりタールが付着しなかったものと考えられる。パイプを用いる両切り煙草は外国産のもの――そうだったな、吾妻」
不意に話を振られ、吾妻は思わず背筋を正した。
「え、ええ。そうね」
「――このことからも遺体の男が金銭的に苦労していなかったことが伺える。それに、現場には携帯電灯が残されていた。乾電池などは庶民がそうそう手を出せる代物ではない。
「ここまで観察して、僕はひとつの仮説を立てた。衣服は明らかに貧なる者の持ち物、しかし身体は明らかに富める者のそれだ……この違和感を埋められる仮説はなんだ? 単純なことだ、裕福な被害者の遺体に己の衣服を着せて、己が死んだと偽装しようとしたのではなかろうか。ただ、それが計画的なものだったのか、偶発的なものだったのかは疑問だったが、それもすぐに知れた。胸の傷だ。
「身体を改めると、胸の刺し傷は二箇所あったが、衣服の破れ目はひとつしかなかった。これが何を示しているか分かるか? 山岡巡査」
突然鋭い瞳を向けられ、山岡は少しまごついた。
「考えろ」
不思議と静かな声で蛇川が促す。
「……一度刺されてから、衣服が取り替えられた?」
「そうだ! いいぞ巡査!」
蛇川はバネに弾かれたように立ち上がり、嬉しそうに両の掌をこすり合わせた。その様子に戸惑いながらも、頬を赤らめた山岡が小さく両拳を握る。
ふたりの様子を見比べて、吾妻が少し困ったような笑みを浮かべた。