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三:消えた首




 蛇川(へびかわ)の言葉に、吾妻(あがつま)は垂れた目を丸くした。


 小説を読むといっても贔屓作家の新聞連載を追う程度だから、想像力が豊かだとは到底思えない。第一に吾妻は現実主義だ。

 知識は、世間一般的にはそう不足していないはずだが、若いうちに真っ当な道を逸れてしまった以上、保有知識にはひどく大きな偏りがある――例えば人体の急所だとか、銃の構造だとか、鋼の精神を破壊するための(すべ)だとか……


 ならば、残るはひとつ。


「あ」


 蛇川の薄い唇が、声なく「はるかわ」と動くのを見て得心がいった。


 春川信雄。後に東京都知事の狂気に繋がる殺人事件の被害者だ。

 ちょうど一年ほど前に起きたこの事件には、蛇川はもちろん、吾妻をはじめとする鴛鴦(おしどり)組の剛の者多数が関与している。


 春川は若く熱血な新聞記者であったが、哀れな遺体からは無惨にも顔の皮が剥がれていた……その目的は、


「遺体の身許を分からなくするため?」


「そうだ!」


 蛇川は音を立てて椅子から立ち上がった。スプンをカウンターに放り投げ、口の前で合掌したまま店内を忙しなく歩き回る。


「考えろ、想像するんだ。いいか、仮に、殺しても足りないほど憎い相手がいたとする。ずっと復讐の機会を待ち続け、ついにその時を迎えた。大願成就だ――諸君! 想像してみたまえ。深夜、場所はひと気のない空き家――存分に遺恨を晴らせる御誂え向きの舞台だ……にも関わらず『胸ヲヒト突キ』……。分かるか? この違和感が。真に強い怨恨があったというならば、遺体はもっと(・・・)残忍に(・・・)切り刻まれていた(・・・・・・・・)はずなんだ」


 両足の踵を揃え、手を口元で合わせたまま蛇川は天井を見上げた。薄い目蓋が閉じられ、長い睫毛が一直線に並ぶ。


 蛇川はそのまましばらく目を閉じていたが、やがてゆっくりと目蓋を開けた。目は天井を向いてはいるが、その瞳はどこか遠くを見つめている。


「先に首を切り落としたと言うならまだ分かる。生きながらに首を切られる痛みと恐怖は想像を絶するものだろうからな。強い怨みゆえの犯行と見ても不思議はない。しかし違う。傷口からの出血量を見れば明白だ。男はまず胸を刺されて死に、その後、何らかの理由で、止むを得ず首を切られたのだ」


 それまでは堪えていたらしいりつ子だったが、うう、と呻くと首を振りながら奥へと引っ込んだ。さすがに刺激が強すぎたものとみえる。


 りつ子の様子には欠片の興味も示さず、蛇川は再び店内を歩き始めた。


「ではなぜ首を切らなければならなかったのか。そのうえ、なぜ持ち去らねばならなかったのか? ここが重要だ。成人の頭部の重さは全体重のおよそ十分の一、つまりあの遺体の場合だと少なく見積もっても六(キロ)強……重く大きく、時間が経過すれば悪臭を放つ最悪の荷物だ。なのに犯人はあえて持ち去った。なぜか? 持ち去らねばならない強い理由があったからだ。まあしかし、僕の考えが間違いでなければ、そろそろ愚鈍で実直な愛すべき依頼人(クライアント)が僕のところを訪ねて来るはずだ。そら来た!」


 蛇川が指をぱちりと鳴らすと同時に、定食屋『いわた』の扉が開いた。

 コートの襟を立てて入ってきたのは、うだつの上がらない中年巡査、山岡だ。『いわた』の常連客で、蛇川とは顔見知りでもある。


 突然店内の全員から注目を浴びて、山岡巡査はぎょっと肩を竦めた。こちらを見つめる男達の顔を順繰りに見遣り、後ろ手にそっと扉を閉める。


 ぎこちなく硬直する山岡に、笑顔の蛇川が歩み寄った。


「やあ巡査! そろそろ来る頃だと思っていたよ。推測より五分ばかり遅かったが……ああなるほど、手元が不確かな中で爪を切っていて足先を怪我したな、それで歩くのが遅くなったんだ。まあいい、首無し死体の件で僕に相談があるのだろう」


 その言葉に山岡巡査が更に狼狽の色を見せる。


 思わず踵を返したところへ蛇川が回り込み、扉の前に立ち塞がった。どうあっても逃す気はないらしい。

 驚きに身を縮こめた山岡を椅子に座らせ、少し肉付きのよすぎる肩をさらりと撫でる。


「な、なぜ足のことを」


一寸(ちょっ)と後ずさった時に右足を庇った様子だったのでね。僕の知る限り君にそのような歩き方の癖はない、つまり怪我をしていて痛みがあるのだと分かる。後は状況証拠からの推察だ。寝不足で血走った目、腫れた目蓋、処理の甘い顎の剃り跡から君がいま非常に忙しいことが見て取れる。フン、顎先にも少し怪我をしているな、そろそろ剃刀を替えた方がいい。


「まあ、それで、疲れによる不注意から足を怪我したのだろうと踏んだが、その原因は分からなかった。物を落としたのかもしれないし、箪笥にぶつけたのかもしれない。ただ、手指の爪がちょうど整えられたばかりだったから、その時に当然足も処理しただろうと考えたまでだ」


 背後を振り仰いだままぽかんと口を開ける山岡には口許だけで笑って見せ、蛇川はテーブルの周りをゆったりと歩いた。一瞬前に弧を描いていた唇は、しかしもう横一文字に引き締められている。


 歩き回る蛇川を首を捻って追いかけながら、山岡が問いかけた。


「しかしなぜ私が来ると……」


「んん、簡単なことだよ山岡巡査。あの殺人事件は君が勤める築地署の管轄で起きた。当然、君も遺体を見ただろう。僕は君を、周囲に比べればまだ幾分か見識のある男だと評価している。しかし内弁慶で、引っ込み思案だ。だから、事件が怨恨による犯行ではないことには勘付いていたが、確信を得られないため上に意見を言うこともできずにいる。普通はそこで諦めてしまうものだが、正義漢たる君は事件をうやむやに放っておくことをよしとせず、己が直感を確信に変えてくれるであろう人物を頼ることにした――僕だ」


 正面に座り、蛇川が舌を鳴らす。澱みない論調で己が思考をぴたりと言い当てられ、山岡は太い喉から呻きとも感嘆とも取れる苦しげなため息を漏らした。


 テーブルに両肘をつくと、蛇川は組んだ両手に尖った顎を乗せて、満足げに微笑んだ。

 女が見ればそれだけで参ってしまう麗しの(かんばせ)だが、しかし山岡には、獲物を前にして舌舐めずりする大蛇の獰猛な笑みに見える。


「それで」


 自分よりもひと回り以上年嵩の巡査を前に、蛇川は余裕たっぷりに笑って見せた。


「我が親愛なる依頼人(クライアント)は、痛む足を急かしてどんな情報を持ってきたのかね? 聞こうじゃないか」


 山岡は改めて店内を見回した。


 カウンター席には、蛇川とよく連れ立っている巨漢の女形(おやま)・吾妻が座っている。彼の素性はよく知れないが、聞くところによれば「情報屋」を自称しているらしい。

 客はそれ以外にはおらず、カウンター奥に『いわた』を支える寡黙な亭主が控えているのみだ。看板娘のりつ子の姿も見えない。


 不安げな山岡の視線の意味に目敏く気付き、蛇川が小さく鼻を鳴らした。


「情報漏洩を恐れているのかね? それなら安心してもらって構わない。亭主の人物は君自身がよく知っているだろうし、あちらの大男については僕が保証しよう。なりは奇抜だが中身はまともだ」


「いつも一言二言多いのよね」


 ため息混じりにぼやく吾妻には苛烈な一瞥を呉れて、再び山岡へと向き直る。


「さあ話したまえ山岡巡査。何を躊躇することがある。部外者に捜査記録を洩らす罪と生首を抱えた殺人犯をこのまま取り逃がす罪、どちらが重いか……もはや答えは出ているのだろう? だから此処へ来た」


 好奇心に満ちた目で小肥りの巡査を見つめると、促すように、細長い両腕を開いて見せた。


 山岡は尚もしばらく迷っていたが、やがて小さく(かぶり)を振るとため息をついた。


「どこまで把握している?」


「新聞に書かれていることは全て。その様子だと、被害者の身元が判明したな? 誰だ」


 鋭い言葉に、山岡が再び目を丸くする。なぜ、と開きかけた唇の前に指を立て、蛇川は苛立たしげに舌を鳴らした。


「朝刊に人相書きが書かれていない時点で、警察がある程度身元に当たりをつけていることは分かっていた。僕の無駄嫌いは知っているね。端的にいこう。不幸な見世物となったのは何処のどいつだ?」





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