二:消えた首
はからずも蛇川らが遭遇した首無し遺体は、当然、翌日の朝刊すべての一面を飾った。
紙面には衝撃的な見出しが踊り、大衆の恐怖と不謹慎な好奇心とを掻き立てた。
号外を出した新聞社もあった。ハンチング帽をかぶった小男が、短い腕を振り回して「号外! 号外!」と叫ぶ周囲には、がなり立てる必要もないほどの群衆が集まっていた。
腕を伸ばす群衆が掴み取ったそれとまさに同じ紙面が、銀座の定食屋『いわた』に陣取る蛇川の手にも握られていた。
常においては、一面はもちろん三面記事や、人捜しの広告、時に世論まで鋭く射抜くその瞳が、しかし今朝ばかりは一面記事の上だけを飛ぶように流れていく。昨日見た凄惨な遺体が、土俵際の競り合いよりもさらに印象深く、彼の発達した海馬に刻み付けられたことは明白だった。
いつも以上に近寄りがたい雰囲気を纏った蛇川には、『いわた』の看板娘・りつ子も手を出しかねると見える。彼の定番、大阪北極星直伝のオムライスが皿の上で冷めていくさまを、唇を噛んで見守っている。
緊迫の空気の中では口を開くことも憚られたか、店内には何組かの客が座っていたが、お喋りの声はどこからも聞こえない。昼日中の銀座の一角としては、まず異様な光景であった。
その時突然、張り詰めた静寂が破られた。
破ったのはもちろん、静寂を生み出した張本人である。
「ハ! 無能無能とは思っていたが、まさかここまでとは! 呆れも一周回れば滑稽に変わるな、笑いを堪えるのももう限界だ」
読み終えた新聞を叩きつけ、蛇川は宣言通り「わはははは!」と大口を開けて哄笑した。
妙に滑舌のいいその笑い声とは裏腹に、白い額には青筋が浮かび、灰褐色の瞳にはぎらついた光が宿っている。彼がこのように笑う時、まず安寧な幸福を得られる者はいないと思われた。
「ねえ、蛇川ちゃん……さすがにちょっと怖いわよ」
巨漢の女形、吾妻がそっとその腕に手を置き、注意を促す。
人好きのする垂れた目は、そそくさと店を後にするご婦人方の背を心配そうに見送っている。
毎日この定食屋『いわた』に現れる美貌の青年、蛇川の面を見守るのが彼女らの日課であったが、しかしこの剣幕にはさすがに恐れをなしたものらしい。
「文句ならこんな莫迦げた記事を書いた記者に言え! これを書かせた警察に言え! 揃いも揃って感嘆すべき無能ばかりだ、お飾りの頭なら捨てちまえ!」
吾妻の手を振り払い、癇癪を起こして腕をめちゃくちゃに振り回していた蛇川は、黒い革手袋をはめた両手で整えた髪を掻き毟った。
こうなってはもう手をつけられない。何を言ったところで火に油を注ぐのみだ。
吾妻は小さくため息をつき、無残にも皺だらけになった号外を取り上げた。
そこには大きな見出しでこうあった。
――繁華街ノ惨劇 首無シ死体発見サル!
その下には空き家前に群がる野次馬の群れの写真がでかでかと載せられている。遺体の身元には既に当てがついているものか、人相書きは掲載されていなかった。
残りの紙面を埋め尽くす長文の記事は、要約すれば、これは強い怨恨による殺人である、遺体の懐には札入れが手付かずで残っていたし、何より、並大抵でない労力をかけて首を切り取り、持ち去ったという常軌を逸したその行動からも明らかである、といったようなことを、実に勿体ぶった扇情的な文章で書き散らしていた。
「まあ、確かに読んでいて気持ちのいいものではないけれど。何がそんなに不愉快?」
「全てだ。いや、ほとんど全てだ。唯一、讀賣の記事にはそこまで悪くない一節があった。しかし駄目だ。確かにひと筋の光明には違いないが、しかしあまりに頼りない。風前の灯火というやつだ、やがて消える」
ふうむと唸り、吾妻は瞬く間に貸切状態となった店内を見回した。
幸いと言うべきか、ご婦人方はみな蛇川の剣幕に驚き逃げ散ってしまっている。少しぐらい刺激的な話題に踏み込んだところで、失神するようなか弱い乙女もいなかろう。
好奇心に突き動かされて、吾妻は再び紙面へと目を走らせた。
「犯人は青年から壮年の男?」
「十中八九そうだ」
「深夜の犯行、殺害は半月ほど前」
「自明だ」
「物盗りの犯行ではない」
「それはまだ確実じゃあない」
「つまり動機は強い怨恨……」
「莫迦げている!」
なるほど、火種はこれとみえる。
再び癇癪玉を炸裂させた相棒をこれ以上刺激しないよう、吾妻は苦心して新聞を畳んだ。
「でも、怨恨じゃなかったら何だっていうの? 腕や脚を切るのだってなかなか大変……って昔小説で読んだけど、オホン! 首なんてもっとずっと骨が太いんだから、ちょっと気紛れでちょん切っちゃいましたってわけにはいかないわよ。ンン! エヘン!」
慌てて咳払いを挟みながら吾妻が言う。
蛇川以外は知る由もないが、吾妻は、その本性は生粋の極道者だ。
彼の裏の顔は、ここ銀座の一部を縄張りに持つ武闘派極道・鴛鴦組の若頭。押しも押されもせぬ修羅の者だ。
女形擬などと奇ッ怪な仮面で隠してはいるが、くぐり抜けてきた血生臭い現場の数は、蛇川のそれの比ではない。腕や脚を切る大変さというのは、小説から得た知識などではなく、彼の実体験と思われた。
珍しく、吾妻の下手な取り繕いを嘲笑うこともなく、蛇川は苛立たしげに歯を噛み鳴らした。
「あんたみたいな奴がくだらん手妻に引っかかるんだ。派手な演出にばかり気を取られ、裏に隠された巧妙な仕掛けにはまるで心が及ばない。情けない! そのご大層な額の向こうに詰まっているものは何だ!」
びたりと額に指を突き付けられて、吾妻は太い眉を垂れ下げた。
普通、ここまで言われればさすがに腹も立つはずなのだが、蛇川相手では怒りもわかない。付き合いが長い分、蛇川の計り知れない知能の高さを誰よりもよく知っているためだ。むしろ、遠慮ない罵声にはある種の清涼感さえある。
「派手な演出……つまり首切りのこと?」
「そうだ。この上なく派手で下品なパフォーマンスだ。しかし死因は何だ」
「ええと……『胸ヲヒト突キ』」
「正確には少なくとも二度は刺している。いや、僕の見たところでは間違いなく二度だが、まあそれはいい。とにかく、じゃあ、ひと突きだ。何か違和感がないか」
いつしか、吾妻だけでなく『いわた』亭主、りつ子までもが蛇川の言葉に聞き入っている。胸の悪くような話にも関わらず、その先を聞かずにはいられない妙な焦燥感が、三人の心で疼いていた。
競うようにして考え込み、しかしなかなか答えを出せない三人を順に見遣ってから、蛇川はため息をついて天井を仰いだ。
「嘆かわしい――実に嘆かわしい! 小説などとくだらん書き物に有限たる時間を注ぎ込むくせ、想像力のひとつも養えんのか。無駄極まりない! あんたなど、女のくせに探偵全集などと莫迦々々しいものを愛読しているそうじゃないか。どうだ、ひとつご自慢の推理を披露してみたまえよ」
「なッ……」
突然鋭い矛先を向けられ、顔を真っ赤に染めたのはりつ子だ。
弁明の言葉を探すかのように左右を見回すりつ子に、亭主が父の顔で驚いて見せた。ひとり娘がそんな蓮っ葉なものを読んでいるとは露も思わなかったらしい。
「ええと、想像力、想像力ねえ」
りつ子不利と見たか、吾妻が慌てて口を挟んだ。助け舟のつもりらしい。まるで、意地悪な教授に連携して挑む生徒の体を成してきた。
「そうだ、想像力だ、柔らかく言えばな。もう少し固く言うならば推察、更に固めると仮説だ」
取り上げたスプンを指揮棒のように振る蛇川の口振りも、どこか教授めいている。
「事実が点でしか見出だせない以上、それを繋ぎ合わせる過程で必ず仮説が必要になる。ただしひとつの仮説に縋り付いてばかりいると、それはたちまち妄執と化す。仮説は事実を探り当てるためのいち道具、目安に過ぎないにも関わらず、凡人はたびたび、己が仮説に妄執するがあまりに事実を見落とし、真実を歪める愚行を犯す。
「これを避けるために有効なのが豊かな想像力と堆い経験と潤沢な知識だ……吾妻、あんたはその点、そこらの凡愚より幾らか優れているはずだがね」