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一:消えた首




 桜田門から晴海通りを抜けて有楽町へ。


 太陽が傾き、光が橙色を帯びるにつれて風は冷たさを増し、道行く人の足取りも自然と早まる。無言の忙しなさとでも言うべきか。冬はもう、すぐそこまで来ている。


 そんなさなかにあって、しかし蛇川へびかわは急がなかった。時折その場で小さく跳ねてみたり、横へステップを踏んでみたりしながら、ゆったりと帰路を辿っている。まるでひとり舞踏ダンスに興じるかのごとき美貌の青年に、すれ違うご婦人の集団から華やかな声があがった。

 何に追われるでもなく常時急いでいる彼にしては、この上もなく珍しい。おまけに、彫像のごとき(かんばせ)には薄っすらと笑みを浮かべ、小さく鼻唄まで歌っている。


 ――いや。


 彼が何者にも追われていない、と断ずるのはいささか浅慮だったかもしれない。余人には計り知れないことだが、蛇川は常に退屈(・・)に追われている。彼と、彼の信ずるものを腐らせかねない知的興奮の欠乏から逃げている。


 頭脳労働の放棄。

 それが彼を脅かす唯一の敵と言ってもいい。


 しかし今、蛇川は充分に満たされていた。限りない興奮の余韻が、彼から退屈を遠ざけていた。事実のみを簡潔に言えば――つまるところは相撲見物の帰りであった。


 相撲は、頭脳労働と並んで彼が愛する数少ない趣味のひとつだ。

 蛇川贔屓の力士、栃木山は、今日の興行でも一頭地抜けた活躍ぶりを思うさま見せた。蛇川の、酒の力を持ってしてもなかなか崩し得ない鋼鉄の顔が弛みきっているのはそのためだ。


 と、不意に蛇川が立ち止まり、踏ん張るように腰を落とした。それからちょいと右肩を反らして見せたかと思うと、満足したものか、笑みを浮かべて再び歩き出す。黒い革手袋をはめた両手を口元で擦り合わせると、蛇川はくすくすと笑いを漏らした。

 奇ッ怪なこの動作も、しかし同道者には意味が通じたらしい。嬉しそうに舌を鳴らしてこれに応じた。


「いいね。終幕の土俵際だな」


 今日の蛇川はふたり連れだ。

 連れ合いは、名を七曲(ななまがり)という。

 伸び散らかした髪が無精髭だらけの顔を覆う胡散臭い風貌に、人捜し専門の探偵という胡散臭い肩書き、極めつけに、大仰で胡散臭い身振り手振りが持ち味という、帝都中の胡散臭さをかき集めて煮凝りに仕立てたような男である。


 ふたりが出会ったのは半年前。

 ほとんど手掛かりもない(と思われた)失踪人に手をこまねいた七曲が、蛇川を頼ったのが縁の始まりだ。無論、曲者同士の邂逅とあって、その縁は腹のうちの探り合いで幕を開けたのだが。


 事前に蛇川の人となりを調べあげていた七曲は、相撲好きを装って貸しを作り、鮮やかに彼の協力を勝ち取った。負けじと蛇川もすぐさまその企みを看破してみせたが、しかしよくよく話を聞けば、七曲の相撲好きは嘘偽りない真実であると分かった。

 自分の見立てが誤っていたことを蛇川はひと通り口惜しがったが、趣味の合う話し相手ができたことには喜んだ。それで、事件を解決して以降も、時々こうして連れ立っては相撲見物に出掛けている。


「やはり栃木山は土俵際だ」とは七曲。


「迫力が違う。それに創意工夫があるね」と蛇川。


「あの右肩の誘いは巧妙だった」


「まったく。あれで試合が決まった」


 そんな彼の、しかしいつ何時でも休息を知らない鋭い五感が何かを捉え、蛇川は不意に道を外れた。つい先程まで機嫌よく談笑していたかと思えばこれだ。突然の寄り道に、同道者が驚いたような声を上げる。


「おォい、大将。どこへ行く」


 七曲は呑気にそう呼びかけたが、しかし前を行く背中は応えもしない。


 蛇川は、肩書きこそ「骨董屋亭主」という平凡なものだが、しかし、手に負えない悩みごとは骨董屋・がらん堂へ――……そういう唄が、帝都東京の薄暗い路地では声も小さく囁かれている。七曲もそれを頼って彼の元を訪れたのだ。

 場合によっては法外な料金を吹っかけられることもあるが、その実力は折り紙付きだ。事実、帝都でも三指に入る勢力を誇る武闘派極道・鴛鴦おしどり組の幹部も数名、彼のその力量に惚れこんでいるというから本物だ。


 七曲が持ち込んだ単なる人捜しは、やがて旧街道沿いの朽ちた村にまつわる陰惨な事件へと発展した。

 その鮮烈な共闘の中で、七曲は、蛇川の行動にはいつ如何なる時にも明確な意味があることを嫌というほど思い知らされている。そしてその先で必ず何かを見出だす、それが蛇川という男の恐ろしさであり、抗いがたい魅力であった。


 きっと今も、何かを嗅ぎ取ったに違いない。あっという間に雑踏の中に紛れていくその背を、七曲は慌てて追いかけた。


 しばらくもしないうちに、七曲にも異変の正体が見えてきた。


 ある古びた屋敷の門を、野次馬の群れが取り囲んでいたのだ。これほど分かりやすく目立つ目標めじるしもそうそうない。崩れた土塀の向こうに見える建物は相当に古めかしく、長く人が住んでいない空き家であることは間違いなかった。


 蛇川は少しばかり歩みを緩めると、野次馬のひとりの肩に手を置いた。


「警察だ、通してくれ」


 さらりとそんな嘘を言う。しかし嘘も堂々と言えば真になるものらしく、蛇川の求めに応じてするすると人垣が割れていく。

 苦もなく足を進めていく蛇川の後に、愛想笑いの横に手刀を立てた七曲が続く……



 何度か嗅いだこともある悪臭が門の外にまで流れ出ていたので、ある程度の覚悟はできていたはずだった。

 しかしそれでも、あまりに惨たらしいそれ(・・)を目にした瞬間、酸いものが喉を遡ってくるのを七曲は止められなかった。慌てて顔を背け、不快感の塊を吐き出す。喉が焼けるように熱い。


 空き家とはいえ室内に吐瀉物を撒き散らすのは憚られたが、しかし七曲が少し汚れを追加したところで何の問題があっただろう。

 そこには既に、好奇心の強すぎた野次馬のものと見える汚物がいくつも散らばっていたし、なにより、胃の中身などより断然おぞましい、身の毛のよだつような赤い血が、文字通り血の海となって拡がっていた。


 その中央には、まるで荒涼の海に浮かぶ未開拓の島のように――とはいえそこに新発見の喜びは欠片も見出せなかったが――胸をひと突きにされた遺骸が仰向けに横たわっていた。


 それだけ(・・・・)ならばまだよかった。


 両手をスラックスのポケットに入れた蛇川が、気負う風もなく見下ろしているその遺骸。


 それには、本来ならば確実にあってしかるべきものが欠けていた――頭部だ。頭部がなかった。横たわる遺骸は、いやに生っ白い首の断面を見せつけるようにして転がっていたのだ。


「た、大将……こいつはいったい」


「見て分からんのか、死体だ。殺人の結果。成果物」


 血溜まりを避け、まるでステップを踏むかのような軽やかさで蛇川は遺骸に近付いた。その弾むような足取りは、相撲の興奮に浮かされていた時と何ら変わらないように見える。

 濃密な悪臭にはさすがの蛇川も顔を顰めて見せたが、しかし平然と屈み込むと、両手の指を鳴らし、遺骸に覆い被さるようにして興味深そうに観察を始めた。その様にまた酸いものが込み上げてくるのを感じ、七曲は再び顔を背けた。


 蛇川はまず遺骸の着物を改めた。目の粗い布、擦り切れた襟元、縫い直しのあとが残る袖口などをくまなく調べ、腕を取り、手のひらを眺めると不思議そうな声を上げた。次に首の残虐な傷口を調べ、肩を覗き込み、血の付いた衣服をもう一度慎重に観察した。


 次に胸を見、そこに突き立てられたままの包丁に目を凝らし――これがこの惨事の準主役であることは明明白白だ――その柄をじっくりと眺め回し、再び遺骸に擦り寄ってその手を見つめた。


 それから少し立ち上がり、そばに置かれた乾電池式の携帯電灯を取り上げ、電池が入っているのを確かめてからスイッチを入れた。しかし電池は寿命が尽きていたものか、明かりは灯らなかった。近くには二寸ばかりを残した蝋燭が転がっている。


 放っておけばそのままいつまでも遺骸と向き合っていそうな勢いだったが、しかしその時、明確な意思をもってこちらに向かう複数の足音が聞こえた。

 興味本位に恐々近付いてくる野次馬のそれとはまるで違う。まず間違いなく、騒ぎを聞きつけた警察官と思われた。


 七曲にとって、警察官の足音が幸せの福音のようにさえ聞こえたのは、後にも先にもこの時だけだろう。七曲は小さく天を仰ぎ、この、胸の悪くなる現場を離れられることに対して謝意を示した。


「大将、盛り上がっているところ悪いが本職が来たぞ。このまま鉢合わせて妙な勘繰りをされてもかなわん。そろそろお暇しよう」


 遺骸をなるべく視界に入れないよう、目を細めながら窺うと、蛇川はちょうど折り畳んだ紙を懐に入れるところだった。


「そうだな。もう十分だ、帰ろう」


 まるで慌てる素振りも見せず、いっそ優雅な動作で蛇川がゆったりと立ち上がる。長い睫毛を心持ち伏せ、ひと筋垂れた前髪を払う。


 来た時と同じように悪趣味な汚れを飛び越えて、蛇川はようやく七曲へと向き直った。


 その時、目が合った瞬間、七曲の全身を駆け巡った感情をどう説明しよう。


 ――恐怖。

 それにいっとう近かった。


 恐れに、焦燥、それに僅かな嫌悪もあった。

 そして舌が痺れるような……

 本能的な、生物的な、この場を支配する者への憧憬。


 小肥りの探偵を芯から震わせているとは露も知らず、蛇川は美しくも壮絶な笑みを浮かべて鼻を鳴らした。




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