消えゆく夏
「了太、ライン見たのに、どうして返信してくれなかったの? 超かわいい服着てたのに!」
帰宅した奏がドアをゴンゴン叩く。
「ごめん、もう電車に乗ってて……」
俺はドアを背に、かろうじて答える。
「ねー、一緒にパン食べようよー。私も食べたいー。部屋に入って良い?」
ガチャとドアノブが回る。
「ダメダメダメ!! 今、着替えてるから!」
もちろん嘘だ。
「えーー? じゃあ、下で待ってるねーー。ハセさんにコーヒー運ばせるから、早くねー」
奏が階段を降りていく音がする。
俺はヨロヨロと歩いて、人間をダメにするソファーに丸まった。
俺の家に、あんな可愛い子がいたなんて、全く分かってなかった。
俺の部屋に奏が昨日着ていた服が転がっている。
一緒に食べていたお菓子。
二人で飲んでいた紙パックのジュース。
あの女の子が奏?
昨日ここで一緒にゴロゴロしながらマンガ読んでたの、あの子?
紙パックジュースを見つめる。
奏は近所のスーパーでネクターの紙パックを見つけて興奮して、たくさん買い込んだ。
昨日の奏と、今日の奏。
……全然同じ人だと、思えない。
俺はあんな女の子知らないよ。
いや……知ってるんだけど!
もう決定なんだけど!
あの格好で待ってるのか? 下で。
あの俺好みのキャミソール型の白いワンピで、待ってるのか?
やめてくれーーー!
俺はソファーに頭を埋める。
……このソファー、奏の匂いがする。
「あああああ!!」
俺はソファーから離れて、ベッドに移動した。
愚息は息子に完全昇格。
気持ち悪い、急にこんなにがっついて。
ダメだ、俺は俺が気持ち悪いーーー!
俺はついにホモになった!
駅のホームで白いワンピースをフワリと揺らす姿を思い出す。
いやいや、奏は立派な……すごく可愛い女の子だ。
ぐあああ……。
「ちょっと、了太、パン出しなさいよ!!」
一階から華英が叫ぶ声がする。
げ。
いつの間に帰宅したんだ。
あいつ今日美容院行くって、言ってただろ?
時計を確認すると、三時すぎている。
ああーー、もう美容院から帰ってきたんだ。
そして俺に恒例の「カワイイネ」と言わせたいんだ。
いやだーいやだーいやだーそんな状態じゃないーー。
ドダダダダダと二階に上がってくる音がする。
華英だ!
アイツは問答無用でドアを開ける!!
俺は慌てて転がっていた厚めのジャージを履く。
同時にドターーンと扉が開く。
「……どう?」
ほんの少し髪の毛の色が変わっている華英が、作り笑顔で微笑む。
俺は準備していたセリフを正座して言う。
「カワイイデスネ」
「はい、合格。下にパン持って集合!!」
「ありがたき幸せでございます……」
逆らった殺される。
俺はパンを持って一階に下りた。
「どうでしたか?」
一階には安堂さんとハセさんも来ていた。
俺は慌てて平常心を取り戻す。
「あの、食パン、すごかったです。雑味がなくて、でも深くて。噛んでる間に味が変わっていくのに興奮しました」
安堂さんが微笑む。
「いいですね、了太さんは美味しいものを食べているから、味覚がしっかりしている」
「……だとしたら、小早川家のおかげですね」
かなり上級な料理を無料提供して貰っている。
「二宮オカンの料理も、かなりの腕だよ」
振向くと、そこには奏が居た。
当然、あのワンピース姿で、イヤリングを揺らしている。
「えへへ、どう? 可愛い?」
奏はその場でクルリと回った。
正直ストライクすぎて、ピンが残ってない。
「……うん、すごく可愛い」
俺は誤魔化して椅子に座りつつ答えた。
奏は俺の正面に回り込んで、俺をじーーーっと見る。
何? 俺、何か失敗した?
奏のことを好きになったって、気が付かれた?
「……何か、薄っぺらくない? 褒め言葉が」
えっ? 本気で褒めると薄っぺらいのか。
俺は深呼吸した。
「……いや、本当に、よく似合ってる」
嘘偽り無い、本音だ。
「良かったー。了太に見せたくて」
にぱっと奏が笑った。
ああああ……暴走する、初号機暴走するーー。
「……パンです」
俺は買ってきたパンの袋を、机の上に置いた。
「わーーい」
みんなが食べ始めた。
「わーー、カスタード、良い香り」
奏がクリームパンを取り出して、半分に割る。
俺はこんな可愛い子を、どうして性欲対象外に出来たのか、今や分からない。
世界の三大謎に入れてくれ。
今ならUFO来てもいい。
俺を縛り付けて実験してくれ、今すぐに!
あああ……脳内を別の話題に持って行かないとダメだ。
奏ばかり見てしまう。
本当に、別人に見える。
何で?!
昨日は普通の奏だったのに。
そうか……宇宙人に連れられて何かいじられたのは奏だな。
奏が、大きな口をあけて、クリームパンをパクリと食べた。
「んんー。美味しい! 了太も!」
奏が一口食べた残りを渡してくる。
「お、おお」
間接キス……。
いやいや、今朝もパン半分こしたし!
何が間接キスだ、アホか!
右手に持った奏の残りを、口に入れた。
ふえええ……味が、しません……このクリームパン。
「お、美味しいね」
なんとか言う。
「でしょーー? こっちも半分こしよ?」
奏が微笑む。
「ああ……はい……」
奏がまたパンを渡してくる。
その細い指先、キャミソールから見える脇。
その先に続く体。
俺はギュッと伸ばした手を握る。
奏に、触れたくて、胸が苦しい。
緊張すると痛む右手は、もう痺れていた。
俺は軽く右手を振る。
熱を持って、熱い。
奏に触れたら、同居は終了だ。
もう男と、女。
同じ屋根の下なんて、許されない。
奏がこの家から居なくなる。
こんなに苦しいなら、出て行ってほしい。
いや、出て行ってほしくない。
奏を近くで見ていたい。
日も暮れて、夜になった。
食事を終えて、当番だったので食器を洗う。
奏は横で皿を拭いている。
小早川の家にずっといれば、こんな作業しなくて良かったのにな。
まあ、一般家庭を知っておくのも、悪くない、はず。
「……慣れてきたな」
「えっへん。そりゃ半年もやればね」
最初奏は、手を滑らせてバシャンバシャンと皿を割った。
ハセさんが慌てて小早川の家から皿を持ってきたけど、それはすべて高そうな皿で、我が家の肉豆腐など普通のメニューにはイマイチ似合わない。
「これも金メッキじゃなんだろ?」
なんかいつもキラキラしてるんだよな、小早川の皿は。
「何でもいいだろ、食べられれば」
「その通りなんだけど」
最初は引っ越しから何から、すべて人にやらせていた奏が、少しだけ俺に近づいてくれて、嬉しかった。
全ての皿を片付け終わった。
「よし、奏、風呂入る?」
「えへへへ……その前に」
奏は棚の上に置いてあった木の箱を開けて、俺に見せた。
「ジャジャーン」
「……線香花火と、ろうそく?」
木の箱の中には、ろうそくととうそく台、それに変わった形をした線香花火らしき物が入っていた。
「毎年取り寄せてるんだ。届いたから、やらない?」
「へー、いいね。夏っぽい」
俺たちは手を拭いて、マッチを持って外に出た。
華英もオトンもオカンもテレビに夢中だ。
夏の夜は、最高に好きだ。
日中の空気で熱された空間が、なんとなく冷やされた闇。
春みたいに、油断すると寒くなくて、冬みたいに厚着の必要もなく。
家から一歩出て、小早川の敷地に向かう。
小さな小川が流れていて、水面に浮かんだ月が美しい。
「家の中に川があるんだもんなー」
「池があるからな。水が流れてないと蚊が出るって」
奏はお昼に来ていた白いワンピースのままだ。
闇夜に光る蝶のように、裾がふわふわと動く。
「……ワンピース、かわいいな」
「えへへー。実は了太と一緒に行った店に、ひとりで買いにいったんだー」
奏はくるくる回る。
一人であの店に入って試着する奏を思い浮かべる。
「……ごめんな。奏は、昼間に着て歩きたかったよな」
俺は謝罪した。
女の子の気持ちは、二人の姉で何となく分かってる。
はじめて着た服は日中に自慢げに着たいのだ。
「いいよ、今、見てくれてるから」
奏は庭の石の上に木の箱を広げて、ろうそくに火をつけた。
石の上だけがほんわりと明るくなる。
「はい」
奏が俺の手に線香花火を渡してくれる。
「……花?」
「そう、持つ部分が花になってるんだ、可愛いだろ?」
「へえ」
たぶんこれは小早川プライス……まあいいや。
奏が一本持って、ろくそくの上に行く。
ゆっくりと火がついたところで、移動を始めたら、火の玉が落ちた。
ジュワワー……と地面で残念な音を響かせる。
「あり?」
「ええええ……普通こんな速度で落ちるか?」
それにきっと、高いやつで。
「もう一回」
奏は箱からもう一本だした。
「待て待て、もったいない」
また一瞬で落とすんだろ。
俺は、奏の後ろに回った。
フワリと奏の香り。
俺は一瞬、息をのんだ。
大丈夫、大丈夫。
奏の後ろから腕を伸ばして、線香花火を持つ奏の右手を、自分の右手で上から包む。
冷たくて、陶器のような肌。
ひんやりとした奏の手の甲。
小さくなった手は、俺の掌にすっぽりと収まる。
俺と奏、重ねた部分だけ、熱を帯びる。
「……了太の掌、あったかいな」
「熱いって言えよ」
緊張して、掌が熱を持ってるのは秘密だ。
一緒に一本の線香花火を持つ。
そして火の上に移動。
火がついたら、ゆっくり移動させる。
火花が大きくなったら、俺は奏の手から、手を離した。
闇夜に広がる葉のように、火花が広がる。
やがて大きな菊の花が咲くような美しさで、火花が舞う。
俺と奏は無言でそれを見つめた。
そして散った花びらは、そのまま消えて行く。
夏が、終わる。