東風吹かば
そこは、まるで夢幻のような花の園である。桃色のごとく、白のごとく、赤のごとく咲き乱れる梅の花の下、今まさに一人の男が息絶えようとしている。
「さあ、お前だけでも早く主の元へといそげ、いそげ、俺はもう駄目だ。ここまでである、いかにも無念ではある」
それは、山伏のような形をした巨躯の男である。息が苦しいのかもがくように太い腕で胸を押さえている。しかし、笑顔だ。
彼が笑顔を向けている相手は、目前に立つ女である。
花の形を写しこんだ艶やかな着物を白の打ち掛けで隠している。打ち掛けよりちらりと見える手の甲は驚くほどに白く、そして細かった。笠から漏れる黒髪は雨に濡れたように瑞々しく輝き、髪の向こうに見える顎の細さといえば、言葉にもならぬほどである。
男は大木のような手を女に向けて、優しく彼女の肩を撫でた。
「さあ行くのだ」
男の装束はすでに泥にまみれ、女を護り続けてきたであろう腕は血にまみれている。そんな腕で男は女の背を軽く、押した。
花の園に鳥が集まっているのか、聞いたこともない鳥の声が、ほうほうと耳に届く。
女はその声につられるように、ほろほろ泣いた。
「なにを泣くことがある。もう、主の住む地もまもなくである。俺の代わりに行ってくれ、さあ。これを俺と思って」
男の差し出したものは、木で作られた数珠。それは松の木であろう。松の薫りが染み付いた、汚れのない数珠である。
数珠にまつわる因果の数は百八の粒。女はそれをたぐりたぐり、やがて決意を固めたように頷くのである。
「参ります」
「よく言ってくれた。山賊もならず者も出るやもしれぬ。この地で別れるは無念としか言えぬ。ただ無事であれ。主に、どうか、どうか我らの思いを」
男は祈るように女の前で頭を垂れて、ひゅうと息を吸う。ふうと息を吐く。それが最期であった。
冷たくなったその身体を女が細い指でそうっと撫でる。すると、どこからともなく、はらりと花が散った。それは紅梅の花弁である。
女は膝を落として泣いたようだがやがて立ち上がり、男の腰にある小刀で髪を一房切り落とす。彼の首にそうっと掛ける。不思議なことに、その髪は男にふれるなり紅梅の花と化した。
「左様なら」
覚悟を定めるように女が顔を上げる。彼女の見つめた先にあるのは、美しくさえ渡る銀の月。その時、風の悪戯であろうか、吹いた風に彼女の笠がはらりと落ちる。
漏れ見えた顔は、月も恥いるばかりの美しさ。
……私はそれが夢であることを分かっていた。そして、夢の中でよくあるように、私は身じろぎ一つできない。手を差し伸べようとしても身体が動かない。
ただ、見ていることしかできない。もどかしさで私は泣いた。
助けの手を差し伸べたまま、私は嗚咽を漏らす。
そこで、私は目覚めたのである。
「……嗚呼」
目前に見えるのは女でも花の園でもない。まだ新しい、白木の香る部屋の天井である。天に向けて伸びた、己の老いた腕である。それは濡れている。
夢だけの話ではない。私は泣いているのである。
「主よ、よろしいでしょうか。客人が」
私を気遣うように声をかけてきたのは、近侍の男であった。呻き声は外まで漏れていたのだろう。
私はまだ夢の中のようで、惑いながら身を起こす。
これは、おそらく予知の夢であった。
誘われるままに門よりでて、客人の顔を見て私はそう、確信した。
「貴方をお慕い申し上げておりました」
疲れた顔に笑みを浮かべて女がいう。
美しい黒の瞳にすっと引かれた紅の線。笑うと、その線が曲線を描く。夜の闇にもよくわかる美しさである。
いや、月の美しい夜だから余計に女の美しさが際立つのかもしれない。
「お慕い故に、ここまでようよう辿りつきました」
それは銀色の月がしらじらと輝く、早春の宵の頃。
春に吹く風に似た、一瞬の逢瀬の物語である。
私は不遇である。いや、不運であった。ある日、聞き覚えもない罪を被せられ、都を追われ辺境にやられたのである。
すべては政敵の成した罠。路傍の石よと小馬鹿にしていたその男達に、私はあっさりと足をすくわれた。
それはまだ春も始まらない、冬の寒さを引きずる頃。情けなくも馬上の人となった私は月を見上げて幾度か泣いた。
私の流刑地は遙か南だ。南に進むごとに月はますます美しくなるのは、空気が濃いからであろうか。道に咲く花も色が濃くなり、人の顔だちも都のものとはどこか変わった。
辿りつく頃、そこには春がある。暖かな春である。都の春を思い、私はまた泣いた。まだ都には春の香りも届いてはおるまい。共に春を語る相手もなく、一人春を見た己の悲しさに私は泣いた。
その夜に、私は件の夢を見たのである。
「さて、まずは話を聞きましょう。こちらへ」
門に立ち尽くす女を見て、私は微笑んでみせる。
それは確かに夢でみた、女である。いや、まだこれは夢の続きなのか。どちらでもよかった。女は都の香りを纏っている。
……なんと美しい佳人であろうか。
打ち掛けはすっかり泥に汚れていたが、そこに描かれた梅の図が目を引いた。襟元に覗く布は早春に芽吹く緑。雅な人である。
この地には美しい女に化けて男を食う物の怪も多いと聞く。さて美しい女こそ疑ってかからねばならぬ。
懐に覚悟の小刀は潜ませてあるが、私がそれを手にすることはないだろう。
目の前の女は手に数珠を握りしめ、祈るように私を見上げるのである。
「いえ、再会できただけで私はもう幸福であるのです」
女が目深にかぶる笠には同行二人の文字が刻まれている。その文字も砂にまみれ、風に褪せ、闇にも分かるほどに汚れているのである。
死の覚悟をして私に会いに来たのであろう。私は自然と背が伸びた。
私は女を何人も知っている。抱いた女の数も多い。都を去る際に、多くの女に歌も文も残した。いずれも未練を残す文字を残した。
しかし、これほど美しい人は知らない。まるで闇夜に映える花のごとく、匂い立つほどに美しい人である。
「何をおっしゃる。あなたほど美しい人であれば、一度出会えれば二度と忘れるはずもない。失礼だが、覚えが……」
「ひどい人」
女はほほ、と笑った。ちらりと見えた歯は白く小さく、愛らしい。
首筋はぞっとするほどに白く、かかる黒い髪が春風のような音を立てた。
「あれほど、美しい美しいと私をご寵愛くださり、都を出る時には歌まで残してくださったくせに」
果たして、これほど美しい人が山伏を共に都からこの辺境の地まで、辿りつけるのか。
不意に浮かんだ疑問に私の背が凍る。
はたして、手ひどく捨てた女の怨霊か、都に残した女の生き霊か。
震える私に気づいたか、女が手を差し出す。
思わず掴んだその手は、細く、そして冷たかった。
彼女の細い指は、私以上に震えているのである。
腕に巻かれた松の数珠が、からからと乾いた音を立てた。
「でも私は貴方を……お慕い申し上げ……ここまで」
「具合でも……」
……私の中から恐怖が消えた。たとえ怨霊であろうと生き霊であろうと、これほどに私を思う女である。予知夢まで見せる女である。何が恐ろしいものか。
不意に風が吹いた。早春に吹く風は湿り気を帯びて冷たい。
女の体に風が吹き付け、着物の裾が揺れる。甘い香りとともに、女の素足が見える。
その足は哀れなほどに、血にまみれている。
「ああ。足がこれほどまでに……どこから歩いて来た。すぐに、手当を。いい薬があるのだ、寝床も用意させよう」
「ほら、お優しくていらっしゃる」
女はもう息も絶え絶えに、私の胸にしなだれる。
「愛して、おります」
「しっかりしろ」
「東風の吹く前に、出会えてよかった……貴方、私を見つめ私に触れて、私を抱きしめ私を撫で、おっしゃったではありませんか。東風が吹いて春が来る頃」
女の声は、どこか私の声に似ている。
「主がいなくとも、花を付けよ、匂いを起こせよと」
それはかつて私が都で詠んだ歌に似ていた。そうだ、それもこんな美しい夜であった。
「しかし香ってくださる主のない都で、花を咲かせてなんとしましょう。匂いを起こしてなんとしましょう。主に届くはずもない、この距離で」
「嗚呼」
ため息が喉の奥から漏れる。息を吸い込めば、甘い香りが鼻をつく。
「おまえは」
それは梅の花の香りである。甘い香りが私の全身を包み込む。
どうしようもなく、私はただ女を抱きしめた。
「ああ。もう目がかすんで参りました。足ももう動かなくなりました。主よ、どうぞお離れください」
女は名残を惜しむように背に腕を回したあと、そっと私の胸を押す。
それは山伏が女と決別した、その手の動きに似ている。
「さようなら。なんとも幸せな、生き様でありました」
とん。と軽くつかれてたたらを踏む。東から風が強く吹き付けて、女の体を揺らす。途端、女の体が変化した。
……細い腕がねじくれ細い枝と化す。それは天を求めるよう高く高く伸ばされた。柳のように細い腰は同じくねじくれ古ぼけた幹となり、髪は緑の葉となった。
お慕いを。と呟いた赤い唇と目元の紅は紅梅と化し、白い頬は白梅と化す。
東風の吹き終わる一瞬で、女は古ぼけた梅の木と化していた。
「おまえは」
今が盛りと、花は咲く。古いが美しい花を咲かせる梅の木であった。
紅梅と白梅を咲かせる、珍しい梅の木であった。
都にある頃、庭に咲くこの花を私は愛でた。その横に植えられた松の大木も私の愛するものであった。都を去る際、この梅、松とともに行けないことを泣くほどに惜しんだ。
せめて都の地で花を咲かせよ、私がおらずとも匂いで満たしておくれと願って去った。
嗚呼。これは、都に残した私の佳人である。途中で息絶えた山伏は、松の大木である。
しかし今、木は限界を迎えていた。人と化したことが罪であったのか私を愛したことが罪であったのか、神ではない私には分からない。
ただ、最後を誇るかのごとく、枝には満開の可憐な花が綻ぶ。愛らしく丸い粒が、まるで着物の帯を解くかのように、はらはらほどける。柔らかい花弁が、内側から震えるように、開く、薄絹のような花が柔らかく開く、開く、開く。
おそらく、もう来年からこの木は花を付けまい。
丸い花が、女が笑うがごとく開く、香を立てる。
梅の細い枝にかけられた数珠が、名残を惜しむようにからりと鳴った。
「おまえは、おまえたちは、私を追って、来たのだなあ」
乾いた枝を抱きしめて、数珠を押し抱き私は泣いた。その体に、花はちらちらと舞い落ちる。袖に移る香りは、かつて都で香ったものと同じであった。
それは一瞬の逢瀬である。
そして、何年もの時が経った。
「花も付けない木など、早く切ればいいものを」
近侍は皮肉を込めて庭を見る。それを私は笑顔で止めた。
「いいんだ」
それは東風の風がそろそろ吹こうかという季節。
私はもう、立ち上がることもできず、ただ庭を眺めることが、毎日の楽しみであった。
「冷えます。戸を閉めさせますか」
「いいんだ。もう少し、花を眺めていよう」
「花など……」
近侍は言いよどみ、やがて口を閉ざして去った。
一人きりになると、途端に音が減る。
ただ私の喉に走る不快な音と、心の臓がはじけるような音。そして風に梅の枝がきしむ音だけが耳に届くばかり。
「そろそろ春だなあ」
庭にあるのは、ただ一本きりの梅の木である。
ただし、その梅の木はもう花を付けない。立ち枯れたように、ただ茶色の塊となってそこにある。
しかし枝だけはしっかと天を指している。それはまるで、拝む手の形に似ている。
「おまえも今日は泣いている」
枯れた枝に夜の霜が浮かんでいる。まるでそれは涙のごとく幾筋も枝を垂れる。
私の両の目からも、熱い涙が転がり落ちた。
「あの日も、こんな夜だった」
天には美しい春の月。
「そうだな。東風が吹けば……」
苦しくなる胸と都への郷愁も恨みも、東風が蕩けさすに違い無い。
そうなれば、胸の奥に残る思いはただ一つ。
「今度は私が、おまえに思いを届けよう」
私は老いた手を、高く天へとのばす。
それはまるで梅の枝のようではないか。
やがて、気の早い東風が私の腕に巻かれた松の数珠を鳴らす。
そのとき、私は確かに懐かしくも甘い香りと、かの佳人の姿を見た。
まるで幻想のように枯れた木に花が開き、やがて激しい東風とともに都に向かって舞い散っていく。
さあ行こう。呟いた言葉は湿った春の風に溶け、私は静かに目を閉じた。
しかしその光景も、ただ月の明かりが見つめるばかりである。