BUTTOCKS! おしり
〈BUTTOCKS! おしり〉
満員電車である。身動きが取れないのである。これは不可抗力である。
右手に柔らかな感触を感じながら、俺は胸中で必死に言いわけをしていた。OLさんのぷりっとしたお尻の弾力が、罪の意識を刺激する。
――いや、俺は悪くない。この寿司詰め状態を生み出した埼京線に全責任があるのだ。
遡ること十数分、少し寝坊してしまった俺は、出勤のために駆け足で駅のホームに降りた。そして、いつもより一本遅れての電車に飛び込んだのだが……
……後悔は一秒と待たず訪れた。
そこは普段乗る電車とはまったくの別世界だった。眼前に広がる背広姿の海と、濃厚な汗の匂い。ちょうど通勤ラッシュの開幕に遭遇してしまったらしい。
屈強な傭兵を思わせるサラリーマンたちの体躯に揉みくちゃにされ、呼吸が苦しくなる。無意識に右手が救いを求めて、人と人の隙間を縫い――
触っちゃった。
存外にふわっとした手触りに驚いて顔を上げれば、視線の先には、OLらしき女性の後ろ姿。肩口でカットされた黒髪は毛先がゆるくウェーブして、清潔そうなブラウスの襟を撫でている。この恐ろしい人波にも動じずびっと背筋を伸ばすその佇まいは、顔を見ずともわかる、美女のオーラを纏っていた。
そんな女性のお尻を、俺はこの手に掴んでいるのだ。
――まずい。
俺は咄嗟に、駅によく貼られている痴漢撲滅を促すポスターを思い出した。“撲滅”なんて言葉を使うくらい、現代日本は痴漢に厳しい(まあ故意で触る阿呆には当たり前の対応だが)。
もしも彼女が俺を法的な場所に訴えて、罪に問われたらどうなるか。罰金とか、よもや懲役とか……? 示談金で大量に絞られるという話も聞いたことがある。
当然、長年の間奉公してきた会社でも居場所を失うだろう。平穏だった俺の人生が、途端ボロボロになってしまう。
幸か不幸か俺は独身なので、誰かを巻き込むことはない。しかし、両親はきっと悲しむだろう。妹は蔑むだろう。
そんなのご免だ、たかがお尻に人生が狂わされてたまるか!
ここからだと双臀の持ち主の表情は窺えないが、きっと快い心情ではないはずだ。怯えているか、憤慨しているか。
仕方あるまい、そっと手を離して知らん顔をしよう。今ならまだ、俺が犯人だとはばれない……と思う。
決断した俺は右手の力を抜き――
「え」
つい声が出る。
どうしたことか、お尻から手が離れない。どころか、五本の指を淫らに動かしてぐにぐにと揉みしだいてしまう。まるでお尻が手に吸いついてくるような感覚、完全に無意識下の行動。
不意に彼女の肩が震えた。これ以上はさすがに洒落にならない……が、止められない!
まるで焼きたてのホットケーキのような、降り積もった新雪のような、至高の柔らかさだ。
この衝動は抑えられない、明確な自分の意思で揉んでしまう。鼻の穴が膨らむ。スカートの生地の質感すら興奮材料となる。
気づけば俺は、一心不乱に右手を動かしていた。
もう彼女のお尻に夢中で――だから俺は気づけなかった。終劇を告げる鐘の音に。
『新宿、新宿。お出口は――』
唐突に、手首を掴まれる。かと思えば、恐ろしい腕力で俺は電車から引きずり出された。
次々に降りていく乗客たちに流され、困惑しながらホームでたたらを踏む。
なにが起きたかと仰天して目を見開くと、そこには――
「……あ!」
ぷりぷりお尻の彼女が、胡乱な目つきで俺を睨んで仁王立っていた。
途端、そろそろ夏だというのに背中が冷や汗で肌寒くなる。他の通勤者たちの怪訝そうな視線も、今は気にならない。
ただ眼前の美しい女性に、俺は目も心も奪われ……
「あなた、さっき私のお尻触ってたでしょう」
ド直球だった。
まさかこれは、本当に痴漢容疑の現行犯というやつか、俺が。
その氷柱のように鋭く冷たい声音に、数分前の悪い妄想が脳裏をよぎる。撲滅、示談金、会社をクビ……
頭の中で展開される灰色の人生設計に底知れぬ恐怖を覚え、立ち竦んだまま失禁しそうになる。
恐怖に震える俺に構わず、彼女は罪人を見下す執行官のような半眼のままで問いを投げかけてきた。
「ねえ、あなた何歳?」
そんな質問になんの意味があるのか。内心でそう反論しながらも、その端正ゆえに恐ろしい仏調面の迫力に負け、正直に答えてしまう。
「えと……二十八です……」
「ふぅん――。じゃあ、職業は?」
「た、ただの会社員ですけど……」
「奥さんは? 子どもは?」
「どっちも、いません……」
そうか、わかったぞ。
彼女はきっと痴漢(不本意ながら俺のことだ)がどんな生活を送ってきたか気になっているのだ。その上で警察に突き出すことで、痴漢の人生がどう崩壊するのかを想像して優越感に浸っているに違いない。この悪女め!
だが、俺もそう易々とお縄にかかるつもりはない。こうなったら最終手段だ、彼女に財布ごと差し出して勘弁してもらおう。確か三千円くらいしか入ってなかったけど、大丈夫かな。
当の彼女はいつの間にか、なにやら思案顔で俯いていた。俺から交渉を持ちかけるなら今この瞬間しかない。
さりげなくポケットから安物の革財布を取り出し、土下座をするために膝を折る。
――しかしその乾坤一擲の覚悟は不発に終わった。
不意に面を上げた彼女が、俺の右手を強く握り締めたのだ。
反射的にびくりと肩を震わす俺をまっすぐに見据え、彼女は極上の笑みを浮かべながら言った。
「あなた、陶芸をするつもりはない!?」
「……は?」
意図せず口から疑問符が漏れる。至極当然だ、なんの脈絡もなしにいきなり陶芸のお誘いだなんて。しかも、お尻を思い切り蹂躙してしまった女性からの。
理解が追いつかず呆然とする俺の眼差しに気づいたか、彼女は咳払いひとつ、俺に説明をしてくれる。
「ごめんなさい、驚かせちゃったかしら。実はあたし、陶芸家のスカウトをしているの。それであなたのお尻を触る手つきに、陶芸の才能を感じたのよ。それはもう、陶工界の常識を覆すほどの」
「はあ」
説明を聞いてもさっぱりだ。
曖昧な返事をする俺に、彼女は対照的に熱っぽい口調で、
「とにかく、あなたは陶芸に精魂を注ぐべきよ! まだ若いし、辞めたってどうでもいい仕事みたいだし!」
どうも不穏な台詞が聞こえた気もしたが、俺は『とにかく痴漢容疑は免れたらしい』という安堵から、適当に頷いてしまった。
彼女の両手にますます力が籠もる。
「そうと決まれば、早速工房に案内するわ! あ、会社には後で辞表出しておいてね」
人々に幸せを運ぶ妖精のような笑顔でそう告げると、彼女は俺の手を握ったまま駆け出した。
その手の感触を意識する余裕もなく、俺も転ばないように懸命に足を動かし――ふたり、新宿駅の雑踏の中へと紛れた。
★
数年後――
仏国はパリ、芸術の都と呼ばれるこの街で。
とある大規模な美術展の来賓席に、俺はどっしりと腰かけていた。
隣には、凛と背筋を伸ばしたスーツ姿の女性。彼女の襟元で僅かにウェーブした黒髪が揺れている。
俺は今日、日本を代表する陶工としてこの美術展に招待されていた。これを機に寄贈した作品は、ちょうど俺たちの正面の展示室に置かれている。そこへ殺到する見物客たちは、誰もが高価そうなジャケットを纏っていた。
なにを隠そう、この『真理の山』と命名された陶器こそが、今回の美術展の目玉なのであった。何万部と刷られたパンフレットの表紙も、今朝の新聞の一面も、俺の作品が飾っていた。
だが、一目でも『真理の山』を見ようと展示室へと群がる世界各国の要人たちも、この界隈では名の知れた芸術家たちも、決してその名前の由来を知らない。
そして、俺もそれを他人に教えるつもりはなかった。この秘密は、墓場まで抱いて持っていくつもりだ。
世界中を沸かせたこの陶器の名前の由来、そしてモデルが、俺の真横で微笑む女性のお尻だということを――
読んでいただきありがとうございます!
そして痴漢の方々、もうそんな馬鹿げた行為はやめなさい。
私のお尻だったらいつでも空いてますから。男ですけど。