テーブルの向こうテーブルの下
この小説は完全なフィクションです
「今日仕事帰りの車の中でさ、山内さんが……」
(ああ、だめだ……)
意識が遠ざかっていく。テーブルの上にある二つのグラスと、結局それぞれ自分が頼んだ物しか手を付けなかったつまみの皿が、やけに大きく、鮮明に、視覚から脳へ突き刺さってくる。
だからといって、気絶するわけではない。
軽く口角を上げて、少し上目使い、ほんの少しだけ眉根を寄せて、まるで興味深けに聞いているように見える顔をしている自分がわかる。
『山内さん』を知らないわけでもない。背が高いちょっと男前で楽しい人だ。
(でも今、あんまり興味ないんだよね……)
テーブルの向こう、目の前の彼は満足気に話し続けている。
(なんで私、ここにいるのかな……)
彼はボーイフレンドの一人。結婚だってしている。
(なんでこの人、しゃべり続けてるんだろう……)
微笑みを絶やさないで考えていた。彼の唇が意味なく開いたり閉じたりする様子をただ眺めながら。
『聞き上手』とよく言われる。
だが、私は意味のない事が嫌いだ。
例えば、出掛けるにしても、明確な目的が無ければ、靴を履くどころか、潜り込んだベッドから立ち上がるのさえ億劫だ。ぶらり途中下車なんて、ぞっとする。
だから意味のない会話も嫌いだった。
必要がないなら、黙っていればいい。それでも平気なはずだ。そこに少しでも愛があれば。
なのにたいていの男は、しゃべり続ける。
何かの本で読んだ。
女性はテレビを見ながら電話する事が出来るが、男性は一度に一つの事しか出来ない。
(だからしゃべり続けている間は、私の本心に気付かないのか……)
逆かも知れない。
(本心に気付いてしまわないように、しゃべり続けてるのかなぁ……)
例えば、東京から京都へ行くとして。およそ二時間半の間、二人で隣り合わせて座る。
京都に行くには目的があるからで、それさえあれば私だって人並みにワクワクする。だが、その二時間半に必要な会話は、その目的やそれに関連することで、二時間半を埋め尽くす事ではない。会話がなくなれば、お互い、ワクワクする心でその雰囲気を楽しんでいればいい。
(この人はその間も山内さんの話、するんだろうな……)想像してげんなりする。
まだまだ続く山内さんの話に、適当に相槌を打ったり、軽く笑ったりしながら、考える。何人かのボーイフレンドの中で、いや、私の周りの男性全員の中で、本当に快適に京都まで旅行出来る人は誰だろう。
最近会った順に考えていた。昨日メールをくれた人は、ひたすら自慢話を繰り返すだろうし、同じ部署の男性陣とはそんな機会を持つ事すら想像できない。この前食事したボーイフレンドなら、新幹線の原動力について語り続けそうな気がする……
他にも何人か思い浮かべてみたが、いかにも残念な車内が続いたのでやめにした。
テーブルの向こうではまだ山内さんが活躍している。
(そもそもここにいる目的はなんだったっけ……)
彼とは仕事関係のコンパで知り合って、連絡先を交換した。爽やかな見た目と、年齢が近い事で興味を持った。食事に誘われたので、OKした。
(それじゃあ、目的じゃないよなぁ……)
山内さんの話は、そろそろ終盤に差し掛かっているようだった。ほとんど聞いていなかったけれど、どうやら話し終わった後にコメントを求められる類の話ではなさそうなので、微笑みながら、目的を考え続けた。
(最初に会った時はこんなにしゃべってなかったな)
彼の唇を眺める。初めて会った時はもっと魅力的に見えた。
(ああ……)
思い出した。私の目的はテーブルの下にあった。
最初に会った時、彼はもっと無口だった。斜め前に座っていて、誰かの話に答える様に笑っていた。少し薄目で少し小さめの唇。笑うと、小さく綺麗に並んだ歯が見える。グラスに唇が近付く度、蝶骨が引き締まるのを感じた。
その魅力的な唇が、私の唇に、体に、どんなふうに触れるのかを知りたくて、それに続くテーブルの向こうテーブルから下の彼がどんなふうか知りたくて、ベッドから立ち上がり、靴を履き、少しワクワクしながら来たのだ。思い出したと同時に、既にその目的だった興味が失われている事に、気が付いてしまった。
「……なんだよ。やっぱり山内さんは違うよね」彼はしゃべり終えて、ごくごくと焼酎を飲んだ。
「セックスの時もそんなにしゃべるの?」失った目的に気付いた瞬間だったから、つい、口をついてでた。
(しまった)思った時は遅かった。
「……そんな事ないよ」
彼は爽やかな笑顔をたたえたまま、そう言ったけど、私は見逃さなかった。答える前、ほんの一瞬、
「しめた」
という顔をした。そして、ちらっと時計を見て、もう一杯おかわりを頼む。終電の時間が近い。
「うちの事務の女の子がさ……」
何食わぬ顔で話始める。私には意味のない、彼には終電を越えるという確固たる意味を持つ、つまらない話。
彼の目的もテーブルの下。
最初は私もそうだったから、言えたものじゃないけど、げんなりした。周りへの影響を考えながら、もうなんの興味もなくなってしまった誘惑を、かわすことが新たな目的になった。
口角を少し上げて、上目使い、時々相槌を打つ。テーブルの向こうで、もう微塵も魅力を感じない彼の唇が、無意味に開いたり閉じたりするのを眺める。
長い夜になりそうだ。
本当の恋愛には不要な会話なんてないと思いますが、下心が恋愛にかわるためには絶妙なタイミングが必要だと思います。その辺りを書いておきたかった作品です。