生誕……そして悲劇
「…………………………」
冷たい三カ月の冬があけ、
命芽吹く暖かい春が過ぎ、
そして、命萌える灼熱の夏が始まろうとしていた時。
瑠訊と瑠偉たちと共に上陸し、俺の世界改変の影響で生き物がしばらく寄り付かなくなった、俺たちの間では《凪浜》と呼ばれているあの三日月型の入り江に、痛ましい沈黙が流れていた。
「汝、瑠訊の妻にして、大和の母――偉大なる英霊……霊依産毘売よ」
俺――賢者の石は、その中で一人。淡々と、彼女を送る言葉を告げていた。
声は震えていないだろうか? こんな言葉で本当に彼女を送れるのだろうか?
……もっと他に、できたことがあったんじゃないだろうか?
そんな後悔ばかりが脳裏をよぎるが、俺は必死にそれを覆い隠し、ただひたすら彼女を送るにふさわしいと考えた言葉を、よどみなく読み上げることに専念する。
なぜなら、俺を手に持った瑠訊が、誰よりも悲しいはずの瑠訊が、彼女に託された子供に情けない姿を見せないために、鋼の精神で涙をこらえていたからだ。
俺が育てた瑠訊が、血が流れ出るほど拳を握りしめ、悲しみの涙を流すのをこらえているというのに、彼を育てた自分が情けない姿を見せるわけにはいかなかった。
目の前に置かれた、岩神様謹製の小さな壺に、骨だけになって入った夜海を見つめながら、俺はそんなことを考える。
そう。
今日は……夜海の葬式である。
…†…†…………†…†…
この悲劇は、誰も予想しないタイミングで、誰もが考えもしていなかった時に起こった。
彼女の葬式の三日前。
「あぁ……。冬の間はこいつが作ってくれた作物のおかげで助かったけどさ……。やっぱりメンドクサイな、畑って。だって昨日抜いたはずの雑草がまた芽吹いてんだもん」
「つべこべ言わずにさっさと抜け。あと、それ昨日抜いた奴じゃなくて別の雑草だから」
「知ってるよ、そんなこと」
雑草が生えているって事実は変わんないだろうが……。と悪態を漏らしながら、炎天下の中、畑の雑草引きを続ける瑠訊。
俺はそんな彼の懐に入れられ、その感知能力を使い作物の成長の邪魔になりそうな雑草を発見、瑠訊に知らせる仕事をしていた。
「だいたい畑に雑草が生えるってことは、それだけこの畑が、栄養価の高い土でできているって証でもあるんだぞ? もっと嬉しがれよ」
「だってはっきり言って畑とか地味だし、単調作業で面白くないしさ……」
「え? 私は畑仕事している旦那様好きですけど?」
そんなことを言って瑠訊に声援を送るのは、畑のあぜ道に座って、大きくなったお腹を撫でている夜海だった。
妊娠9か月だ。どうやら初夜でしょっぱなから大当たりだったらしい。
というわけで、現在夜海は絶対安静中。夫の瑠訊もいつ彼女が産気づいてもいいように、狩りは全面的に禁じていた。だから彼はいつもなら最低限で済ませる畑仕事を、こうして延々と続け愚痴漏らしているわけだが、
「そうか!? なら俺もっと頑張るよっ!!」
夜海にそう言われたとたんキリッとした顔になり、猛烈な速度で草引きを再開する瑠訊は、相変わらずちょろい奴だなと俺は思った。
「それにしても結構デカくなったな……。今はもうお腹蹴ったりするんだっけ?」
一般的に俺の世界での出産は10月10日と言われているが、どうやら夜海に残ったわずかな獣性(むしろ魚?)が、おなかの中の赤ん坊の成長を促進させているらしく、普通の人間よりも若干早めの出産となりそうだった。
「とっくの昔にですよそんなの。話しかけると答えてくれるんですよ?」
そう言って愛おしげに自分のお腹を撫でる夜海。その姿からはこの集落に来た当初の、恨みがましい色はみじんも見えず、俺に対する態度もかなり穏やかになっていた。
(いい変化だな……)
俺は内心で安堵の息をつきながらそう考える。
「『お前にとって都合のいい』が頭につくけどな……」
「お前まだ怒ってんのか?」
どうやら瑠訊はまだ俺のことを許していないらしい。まぁ、嫁さんを真っ先に傷つけた人物として挙がるのが俺だから、仕方ないと言えば仕方ないんだろうが……。
「いいじゃないか、いいじゃないかっ!! 全部丸く納まってるだろ!? 納まってるだろっ!!」
「他の獣人の問題がまだ残ってるだろ馬鹿が! どうすんだよ? 野生化しちまって続々増えてるんだろ? いつ襲ってくるかもわかんねぇ……」
「一応獣除けの結界はったから、猛獣並みの知能なら勝手によけてくれるはずだけど……」
一応人間並みの頭脳は与えてしまっているため、それも効くかどうか甚だ疑問だった。もしも、あの獣たちが自力で知恵をつけたら、あの結界を素通りしてしまうかもしれない。
「とはいえ、岩神も威圧を使った結界モドキはってくれているみたいだし、そう簡単には寄ってこないって」
「おかげであの森一帯の獣がいなくなったけどな……。唯一残っているのは、獣より単純な思考回路をした虫たちぐらいだが」
おかげで狩場は全面的に移さないといけなくなった……。とブチブチ文句を瑠訊が垂れていた時だった。
「まぁまぁ、二人とも。なかよくし……ひゃぁ!?」
「「ん?」」
突然上がった夜海の悲鳴に、俺たちは慌てて振り返り、
「……」
顔を真っ赤にして、ぐっしょり濡れた股と地面を、必死に隠そうとしている夜海の姿を目撃した。
「ち、違うんですっ!? とつぜん、突然水が出てきて……お、おもらしじゃないんですっ!! ほ、ほら、全然臭くないですしっ!!」
「「ばかっ!? それは破水だ!!」」
悲鳴のように言い訳する夜海を慌てて瑠訊が抱え、俺と一緒に大声で叫んだ。
…†…†…………†…†…
今ではすっかり瑠訊と夜海の愛の巣になった本家が、一気に慌ただしくなった。
「お湯だ、お湯を用意しろっ! あと赤ちゃん出てきた時用に、お湯で清潔に洗った毛皮もだ!!」
「大風彦さん! アワアワしているだけなら邪魔です! 外に出ていてください!」
「お、おれは……おれはなにを!?」
「手を握っていてやれ。あと絶対余計なことはするなっ!!」
「う、うにゅ! わ、わたしは……そ、そうだ! 岩神様に安産祈願のお祈りを……」
「「いいから手伝えっ!!」」
右往左往するだけの瑠訊・大風彦・否麻を怒鳴りつけながら、俺から与えられた知識で忙しく動き回る瑠偉。
そんな俺たちの姿を見て、とうとう陣痛が始まり苦痛で顔をゆがめる夜海は、そんな状態であるにもかかわらず苦笑いをする。
「は、ははは……。こ、こんな時は、賢者様の知恵が頼りにっ!?」
「痛むんだろっ!? 今は黙ってろっ!!」
「ひっひっふーのタイミングで呼吸しててください! まだいきんじゃだめですよっ!!」
この時のために俺から徹底的な教育を受けていた瑠偉は、的確な指示を出しながら、瑠訊たちが慌てふためきながらも、出産の用意をするのを待つ。
そして、すべてが整った後、
「じゃぁ始めます! 大風彦さんは外に出ていてください!」
「え、あ、ちょ!? な、なんで俺だけっ!?」
迅速に自分の夫をおいだし、
「じゃぁ、夜海姐さん。足を大きく開いてください!」
彼女が生まれて初めての、出産補助が始まった。
…†…†…………†…†…
瑠偉は正直よくやったと思う。
もとより彼女は目が見えないのを、たぐいまれなるほかの感覚器官で補って生活しているような娘だ。
触覚と体温。音と、感触だけが頼りの不可視の女性の腹の中の様子を、彼女は瞬時に読み切り、的確なタイミングで夜海に指示をだし、子供を取り上げた。
体重2950g。身長48センチ。やや小さめで、体に残るわずかな鱗が特徴的な、元気な男の子が産声を上げた。
時代が時代なら神の産婦人科医師と言われたかもしれない。それくらい鮮やかな手並みだった。彼女には何の落ち度もない。
落ち度があるとするならば、
「け、賢者さん……。まだ、まだ、まだ血が止まりませんっ!!」
「くそっ! とまれっ!! 止まれぇえええええええええええええええええ!!」
肝心なところで発動しなかった、俺の世界改変だろう。
大量の血を吐きだす彼女の腹の中を、俺は透視で必死に見つめながら、その患部を世界改変によって押さえつけて、必死に出血を止めようとした。
だがしかし、どういうわけか、いざ世界改変が働き患部を圧迫しようとすると、まるでそこに何もないかのように力がすり抜け霧散してしまう。
「ふざけんじゃねぇ! ふざけんじゃねぇ!! 死者の蘇生はまかりならねぇって聞いてはいたけど、確実に死ぬような症状になった奴まで、助けちゃだめなのかよっ!!」
今の彼女に必要なのは、輸血により失った血液を補完することと、出血を止めること。輸血用の血液を用意することはできた。それを彼女の体内に転移することもできた。
だが、どうしても、出血だけは止められなかった。
「ふざけんなよ女神っ!! お前の制限はこんなのばっかりだ! 最後の最後で俺に何もさせてねぇ! 大切なところで、邪魔ばかりしやがって!! お前は本当に……俺にこの世界をどうして欲しいんだ!!」
悪態をつきながら、制限をかけた女神を罵りながら、俺はそれでも必死に世界改変を行い……失敗するのを繰り返す。
そんな光景を悄然とした顔で見つめていた瑠訊に、
「だ、旦那様……」
「っ!?」
夜海から声がかかった。
「私……死んじゃうの?」
「よ、夜海っ……!!」
その夜海の問いかけに、瑠訊は手を強く握りしめることでしか答えてやれない様子だった。彼自身、こんなに早く夜海を失うことなど、考えたくなかったからだろう。
「い、いやだ……。やだよっ。まだやってないことたくさんあるよ……。子供の成長だってみたいよ。こんなところで、死にたくないよっ……」
助けて。助けてっ……。必死に懇願する夜海の声に涙を流しながら、瑠訊は必死に手を握り締める。
その後ろでは、鬼気迫る様子で岩神が鎮座する方向へ祈りをささげる否麻がいた。彼女も夜海を助けるために必死だった。
だが、岩神の加護は届かない。集落から彼女までの距離が開きすぎているせいだ。
(俺がどうにもできない以上……夜海はもう助からない)
賢者といわれた俺の知識が、俺の世界の近代医療の知識が俺にそうささやいた。
「くそっ……ちくしょうっ!!」
石になって初めて泣きたい気分になった。涙を流せればどれほどよかったかと、石の身を憎んだ。
そして、
「どうしても……たすからないの?」
「ごめん……ごめんっ……!!」
ひとしきり死への恐怖を吐きだし切った夜海は、俺にそう問いかけてきた。
俺はそれに、謝罪を返すことしかできなかった。
「そう……。じゃぁ賢者様……最後に教えて」
「……なんだ?」
「人は死んだら……どこにいくの?」
「っ!!」
そして、死の覚悟を決めた彼女の言葉に対する俺の答えは、
「ひ、人は……死んだら、死者の国に行くんだ」
「死者の国?」
せめて彼女が安らかに眠れるよう、嘘をつくしかなかった。
「《黄泉》っていうその国では、今まで死んだたくさんの人がいる。だからさびしくないぞ? そこにはこの世の苦痛なんて存在しない。死んだ人間のご褒美として、ただ一杯の幸せだけが満ちている世界だ」
「旦那様たちのことは、見守ったりできる?」
「っ! と、当然だ……。ご褒美なんだぞ? なんだってできるさ。触れられないけど、声は届かないけど、でも瑠訊が幸せに過ごすところも、子供が立派に育つところも、お前はずっと見ることができる!!」
「そう……」
よかった。俺の虚言まみれの戯言を、彼女は最後に信じてくれて、穏やかな笑みを浮かべてくれた。
そして、
「じゃぁ旦那様。ちょっとだけお別れです……」
「夜海……夜海ぃ……」
「長いお別れになるだろうけど……私のところに、来てくれますか?」
「あぁ。絶対行く。だから……待っててくれ」
「……はい」
最後に、これからも生きていく夫に、やさしい笑みだけを残して、
夜海の心臓は動きを止めた。
…†…†…………†…†…
夜海の葬儀が終わり、再び静かになった凪浜。
その浜の中央には、夜海の骨が散骨されている。
帰りたがっていた海に、最後だけでも帰してやろうとみんなで話し合って決めた。
その浜の中央を、俺を手に持つ瑠訊はじっと見つめていた。
大和は今、瑠偉と否麻に任せている。
夜海が死んだ後も、大和に異変はなくただただ元気に泣いていた。短すぎた彼女の人生が残した最後の遺産は、確かにこの大地に息づいた。
「すまない……瑠訊」
「謝るな、賢者の石。お前にだってどうしようもなかったんだろう?」
だからこそ、彼女の喪失だけが悔やまれた。本当なら、彼女も一緒に笑って、瑠訊と共に大和の成長を見ていくはずだったのに……。
「俺さ……お前がいつも言っていた意味が分かったよ。甘やかしちゃいけない。便利な道具に甘えるからって……。そして、今日ようやく思い知った。やっぱりおれは、お前に甘えていたんだって」
「………………………………」
瑠訊の独白を、俺は黙って聞いていた。
「海を切り裂いて俺たちをここに連れてきてくれたときのように、どんな危機に陥っても、死ぬような目にあっても……最終的にはお前が、その力でなんとかしてくれるって……本気で俺は思っていた」
「……」
「でもちがった。お前にもできないことがあった……。そして俺は、そんなお前に甘えて縋ることしかできなかった……!! 情けない男だっ!!」
瑠訊は悲鳴のような叫び声をあげると同時に、力なく膝を砂浜についた。
とうとう心に、限界が来たのだろう。
「いくら後悔しても、し足りない! 俺がもっとお前から積極的に学んでいればっ、お前の知恵を自分のものにしていればっ、お前みたいな力をもっていたらっ……。俺はっ、あいつを失わずに済んだかもしれないッ!!」
瑠訊の瞳から涙がこぼれ、慟哭が砂浜に響く。俺はそれを黙って聞いてやることしかできない。
「おれはっ……おれはっ……!!」
激情があふれ、声にならない。そして、
「う、うあぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ようやく声をあげて泣き出した瑠訊の姿に、俺はほっと安堵の息をつきながら、世界改変で泣き声が集落まで届かないようにしてやる。
まるで夜海が宿ったかのような、やさしい月の光が瑠訊を慰めてくれていた。
…†…†…………†…†…
そして、心のドロドロとした後悔を涙と共に出し切った瑠訊は、涙をぬぐいながら立ち上がり、
「なぁ、賢者の石。俺にもお前が使っている奇跡のような力が使えるかな?」
「……」
答えは是だ。
岩神の発生理論を看破したときに俺は何となく気づいていた。
この世界は、人間が俺と同じ世界改変を……魔法を使える世界だと。
だが、俺はそれにすぐに答えてやることができなかった。
「たとえそうだったとして、お前はそれで何をするつもりだ?」
それが少しだけ気になったからだ。もし夜海を失ったことで、瑠訊がこの世界に絶望し、害をなそうと考えているなら、俺は何としてでもそれを止めなくてはならない。
が、瑠訊はそんなバカな答えは出さなかった。
「わかんねーよ。でも、これから夜海みたいに失ってしまう人間を、俺は少しでも減らしたいんだ……。俺には守る人間が多すぎる。瑠偉だって、大風彦だって、否麻だって……大和だって、俺が守っていかないといけないんだ!」
彼は失った夜海を大切に思いながら、彼女が身をもって教えてくれたことを飲みほし、未来へと視線を据えていた。
「でも、俺の手は短いから。俺の手はまだ弱いから……。お前がいてもまだ足りないからっ! 少しでも長く、少しでも強く、あいつらを守れるくらいの……力がほしい!」
「そうか。でもそれは《人間の分》を超えた願いだ。人の手がそうなっているのは、せいぜい人が守れる人数なんて、自分の嫁と子供ぐらいだと神様が定めたからだ。それを超えるってことはお前……神様になるって言っているのと等しい」
お前にその覚悟があるのか? 俺みたいな無様で、情けない、神様になる覚悟が? そんな意思を言外に潜ませた俺の問い。それに瑠訊は気づかなかっただろう。
でも、彼ははっきりと返答を返してくれた。
「そうか。じゃぁ、俺は神様になるよ。賢者の石」
何のためらいもなくそう答えた瑠訊に、俺は小さく笑った。
もう二度と大切な人間を失わないために、俺と瑠訊の創造神である女神への、ささやかな反逆が始まる。
夜海が流したような涙が、もう二度と流されないように。
*霊依産毘売=もとは、死者を《黄泉》へと送るため、賢者の石がつけた戒名であった。後に神話の神の名前として認知される。
霊依産毘売は名前の通り女神であり、皇祖神・大和高降尊を生んだ、流刃天剣主の妻。
明石記神話史上、唯一黄泉に落ちた神としても知られている。そのため、彼女は黄泉の女王としての力も持っており、とある理由から流刃天剣主と一度剣を交えることとなる。
のちの黄泉は大陸から流れてきた《真教》独特の、悪い魂の監獄である《圏獄》に吸収合併され、仕事がなくなった霊依産毘売は高草原に上った……という俗説が何故か巷では広まっているが、霊依産毘売を奉るとある神社は「そ、そんなわけがない! 霊依産毘売はきちんと黄泉におられるっ!! 仕事を真教にとられたのをいいことに、職務放棄なんかしていないっ!!」と、かたくなに主張しているらしい。
余談ではあるが、その神社に務める霊力の高い未婚者神職たちは、そろって「バカ夫婦爆裂しろ……」と呪文を唱えるようになるとか……。